Look Toward 2022 その❶ (自分の価値を高めよ)

チームが始動するからには、さぁ、今シーズンに向けて!、といった気分を満たそう。

その第1回です。

前回データでお示ししたとおり、昨季、リーグ戦42試合のうち、80%の34ゲーム以上に出場したのは、5人だった。

うち、河合 秀人、鈴木 国友のふたりは、J2クラブからお声がかかって、今季もそのステージで戦う。

外山 凌については去就が確定していない(1/21 18:00現在)が、もし、2部チームへの移籍が叶えば、屋台骨を背負った(と言える) 5人のうち、3人がチームを離れることになる。

という意味では、残ってくれた佐藤 和弘と下川 陽太には感謝しかないんだが、

つまり、何を言いたいのか?

指揮官の評価、起用法がどうであれ、リーグ戦の8割方においてピッチを駆けていなければ、他所から声がかからない、プレイヤーとしての価値がなかなか認めさせられない、ということなんだ。

30数名の全プレイヤーに告げたいのは、競争に打ち克って、それくらいの出場をめざせ。

それが、真っ先にくるべきこと。

前にも指摘したけれど、降格の2年目に復帰がならなかった場合、チームを待ち受けるのは、(予算緊縮をベースにした)大胆なスクラップ&ビルド。

戦力の大半が流出、まったく新しい顔のチームにならざるを得ない。

だから、先季の後半と同じように、今季にしたって、わき腹にナイフを突っ立てられた状況で戦うことを忘れてはならない。

今季の終わる頃のことを、あまりバラ色に考えてもいないけれど、どちらに転ぶにせよ、プレイヤーにしてみれば、それなりの実績と戦績を作っておかないと、ますます自己の業界的な値打ちは下降してしまう。

チーム昇格のため、と言ってくれることは嬉しいが、プレイヤー諸君には、まづ自分の選手生命と値打ち、そして、家族のため、戦い抜いてもらいたい。

……、ということで、全34ゲーム中、27ゲーム以上に出場する者たちをどれだけ確保できるのか?

これを、チーム出来高の、重要指標として、見守ります。

では。

安逸と矮小の日々から。

人生に意味を求めてどうするんだ?
人生とは、願望。 意味ではない。  by チャップリン

どうだろう、7~8割の力を持ってすれば、そこそこやっていける毎日。

身の回りを、お気に入りで固めることに気持ちが向かう日常。

けれど。

ぎりぎりのところ、全力でやっていない日々は、自分を、どんどん小さい者にしていくように思われてならない。

かつての部下が年賀状で、工場長やっています、と近況を報告してくれた。

職業において、より上位者をめざすことはいいことだ。

収入が増えることも大切だけれど、人というむづかしい存在に迫りながらも、組織の全体、いわば森をみるような視点を鍛えられるから、苦しいけれど、そこには自己研鑽と成長があるはず。

自分を乗り越える、という意味で。

かなり複雑、かつ、影響力がこんがらがっている組織を、これほどたくさんの普通の人々がマネジメントするようになったのは、人類史上(日本も)、せいぜい200年にもならいないから、まだまだ上手くいっていないけれど、だからこそ、そこには、やりがいも多い。

……、と言いながら、さて僕も、今の安逸から抜け出さないとな。

必死に一日をやって、ようやくわづかな休息時間の中で、こんな曲に浸る。

そうなりたい。

では。

球には サッカーを、

話題にしよう。

その多くは、印象によるところの、〈山雅らしさ〉の議論。

これにはうんざりしている、と前にも語った。

走る、球際強く、休まない、諦めない、といったどのチームも追求しているであろうことを、ことさら、俺っちの専売特許のように呼ぶのは、チト違うんじゃあないか?

すくなくとも、裏付けで語らいないと、前に進めない。

指揮官が、(皆が言うように昔のように)走らせる、と言ってみせたのは、あれ、周囲に対するより、チームに覚悟せよ、とのことに違いないだろうし。

そこで、データから、過去とは明らかに違う、ここ2シーズンの特異な点を確認しておきたい。

2012年 ☞  8人
2013年 ☞  7人
2014年 ☞  9人
2015年 ☞  9人
2016年 ☞  9人
2017年 ☞  8人
2018年 ☞  8人
2019年 ☞  9人
2020年 ☞  3人
2021年 ☞  5人

これは、山雅シーズン毎の、リーグ公式戦で、80%以上のゲーム数出場(時間ではない) を果たしたプレイヤーの人数を並べたもの。
註) J2は、34試合(母数42)、J1は、27試合(母数34)をクリアしていることが基準。

一目瞭然。

かつては、ピッチにおいて、8人前後のプレイヤーが核となってリーグを戦っていたけれど、この2年は、そういうプレイヤーが半減してしまった。

これには、いくつもの要因があるだろう。

メンバーを固定しない起用法だったのかも知れない。

あるいは、コロナ禍などにより交代人数枠がほぼ倍加したことによる、戦力の、選択的な逐次投入なども、その理由だろう。

いかなる理由であれ、これでは、いざゲームとなった時の、お互いの意思疎通、阿吽の呼吸、という面でかなり厳しい。

ボール周辺でだけチマチマとやりあっている場面が多かった、ってのは、フィールド全体を見すえた意思統一に欠けた証拠、と思っているんですよ。

さて。

なかでも、決定的な理由として、怪我による中長期の離脱が多発したこと、これは確か。

たとえば、昨季を通し、ディフェンス陣については、入れ替わるように負傷リリースを読まされた。

結果として、サイドバックセンターバックを担ったメンツでは、

星 キョーワァン   ☞  20ゲーム
前  貴之              ☞  28
篠原 弘次郎        ☞     6
橋内  優也          ☞   21
大野  佑哉          ☞   27
宮部  大己          ☞   20
野々村 鷹人        ☞   20      ……と、リーグ半分程度の出場で背比べ。

これを、センタバック陣においては世代交代の渦中にあった、とすることもできるんだろう。
けれど、そこには、統率力の減衰、という弱点が露呈していた。

今季、これに復帰、新加入を含めて、ディフェンス陣にあってどんな定位置競争が展開するのか、それを大いに楽しみにはしたい。

ただ、基本的な事がらとして、シーズンを乗り切れる身体づくり、そこが真っ先。

僕が、フィジカルコーチ専任のリリースがないのを、ことさらに奇怪がっている理由はそこにあります。

では。

『疲れた……』で言いたいのは、

つまりは、あまり良い時間を過せなかった、とか、くたびれただけだった、をサラッと言いたいんだろうな。

と、若人の会話を聞くたび、そう思うようにしている。

決して、くどくど説明したくないクセや、その語彙の貧弱をあげつらってはいけない。

しかし、自分ではほとんど意識していないのに、

― 疲れてるみたいね?、と問われると、ハッとしますな。

あぁ、表情や動作に滲み出るものがあったんだろうなぁ、と立ち止まってしまう。

電車の中、立っているのが大義だったり、大変そうにお見受けしたら、自分が座っている席を、サラリと、ごく自然に譲って差し上げたらいい。

好意を受けるか断るかは、その御方にお任せすればよいから、迷うこともいらない。

まぁ、挨拶みたいなもの。

相手がそれを返そうと、返すまいと、こっちの知ったことでなし。

朝の自分を、気持ちよく始めるための儀礼と思えば、向こうの反応はどうでもいい。
あぁ、家で女房とでも喧嘩して出て来たか、または、挨拶することを自分に躾けられずに大人になっちゃったか、ぐらいに思え。

あるブログで、傑作なのがあった。

電車で席を譲る運動、というのをやってる高校があって、そこで回数ナンバーワンを獲った高校生の言い分が、

まずは、自分が席に座ることがポイント、なんだそうだ。

たしかに、一面、おっしゃる通り。

この無邪気な証言、良識を育てようとする善意が、ややもすると陳腐な発想へと向かうことの一例ではありますな。

我先にと空いた席に殺到すると、あとは寝たふりを決め込む無関心。

これは、日本人が、相当に疲れていることから来るのか、どうか?

フィルコリンズによる『Another Day In Paradise』(パラダイスに居られたのに、1989年発表)。

たまには、こんな曲を聴きたくなる時がある。

もう一度考えてみろ(Think Twice!)、と、自分に言い聞かせたい時に。

では。

身の程を知る賢さ。

学業に齟齬をきたしたのはわかるが、なにも、学歴においてもっとも象徴的な学校の受験会場まで出かけていって、わざわざ人を傷つけることもなかろう。

いちばん不快なのは、自分と同世代に切っ先を向ける姿勢。

やるからには、自分に理不尽を押しつけた体制( = 強者)を攻撃しないと、筋が通らない。

学歴社会という名の、実は、学校名格差社会の幻想。

分相応、身の程を知る、といった美徳が廃れてしまったので、日本の国で生きることが、より一層辛くなっていることは、確かだ。

例えば、神社仏閣の庭で引いたおみくじ。
その恋愛運のところに〈身の程をわきまえろ〉とあれば、誰もがカチン、とくる。

けれど、今日び、こういうサバサバした渡世の真理や現実は、おみくじくらいしか教えてくれないのだから切ない。

他方、せいぜい成城とか学習院卒で、一国の政治リーダーになれたのは、
有り余る財力と、ふんだんな勉学環境を使った挙句、たとえその程度の学歴を刻めなくとも、世襲の恩恵を利用することでなんとかなった、という結果だ。

校名格差と、世襲による職業固定化、これって、今日を生きる青年諸君に対する往復ビンタみたいなもので、

今回、事を犯した彼は、このふたつの罠で、身動きが取れなかったのかも知れない。

学校の勉強が好き、出来る、それはそれでかまわない。

でも、それとはまったく違った意味の、頭の良さ。

いわば、聡明さや賢さのようなものが、世の中に多く恵みをもたらしているのに。

では。