身の程を知る賢さ。

学業に齟齬をきたしたのはわかるが、なにも、学歴においてもっとも象徴的な学校の受験会場まで出かけていって、わざわざ人を傷つけることもなかろう。

いちばん不快なのは、自分と同世代に切っ先を向ける姿勢。

やるからには、自分に理不尽を押しつけた体制( = 強者)を攻撃しないと、筋が通らない。

学歴社会という名の、実は、学校名格差社会の幻想。

分相応、身の程を知る、といった美徳が廃れてしまったので、日本の国で生きることが、より一層辛くなっていることは、確かだ。

例えば、神社仏閣の庭で引いたおみくじ。
その恋愛運のところに〈身の程をわきまえろ〉とあれば、誰もがカチン、とくる。

けれど、今日び、こういうサバサバした渡世の真理や現実は、おみくじくらいしか教えてくれないのだから切ない。

他方、せいぜい成城とか学習院卒で、一国の政治リーダーになれたのは、
有り余る財力と、ふんだんな勉学環境を使った挙句、たとえその程度の学歴を刻めなくとも、世襲の恩恵を利用することでなんとかなった、という結果だ。

校名格差と、世襲による職業固定化、これって、今日を生きる青年諸君に対する往復ビンタみたいなもので、

今回、事を犯した彼は、このふたつの罠で、身動きが取れなかったのかも知れない。

学校の勉強が好き、出来る、それはそれでかまわない。

でも、それとはまったく違った意味の、頭の良さ。

いわば、聡明さや賢さのようなものが、世の中に多く恵みをもたらしているのに。

では。