自分の力量をどうとらえるか? (甲府戦プレビュウ)


❶ゲーム観が、勝負を決める

このゲーム、自分に課した強みの表出において、より長けた側に勝利は微笑むだろう。

すくなくともヴァンフォーレにとって、戦略の入り口はそこしかない、と思われるし、勝って当然、とアルウィンに乗り込んで来るはずだ。

となれば、山雅の出方も実に明快。
同格の立場と思想で闘えば良い。
(2018シーズン、甲府には2戦2勝だったが、そんな過去はもちろんご破算で)

前節の金沢戦、ツエ―ゲンは連敗記録を止め、あわよくば一矢を報わんと向かって来た。
ペナルティエリア内を、人数をテンコ盛りで揃えて固める。
そして一発必殺のカウンターに賭ける、そんな方策だった。

対し、甲府は前から敢然とプレッシャーをかけ、攻撃に軸足をおいてくるはず。
とにかく先手を取ってリズムを作り出すサッカー。
このチームの売りは、FW登録メンバーが8人という豪華さだが、それを最大限活かそうとカードを切ってこよう。

❷ボランチの出来で、ゲームを決めろ
多分、互いに、4 – 2 – 3 – 1 の布陣を採る。

この布陣の最大ポイントは、2列目の3人がどれだけ自由度を保てるかという点。

2列目の活性化は、実は、その後方のボランチふたりを経由するボールの量と質に大きく左右される。
ボランチの押し上げ(高いディフェンスと位置取り)と自在な配球、ここで相手を上まわろう。

山雅の藤田、塚川のセットは、甲府の山田、野澤のそれに比してまったく見劣りしないばかりか、むしろ熟度が高いので、十分に先手/優位を獲り得る。

そして、ゲーム展開にもよるが、ヴァンフォーレの力まかせの侵攻、これを強く、かつ、巧くいなしてくじくこと。
特に隼磨の右サイドでは、それを仕掛けられる。


これくらいの技量はもちろん、昨季の遺産として山雅には在る、と萬年はみています。

では。

 

 

 

 

 

いい加減に〈信甲ダービー〉で。


4日(18:00~)は、いよいよホーム開幕、第3節 ヴァンフォーレ戦の週末だ。

県境をまたぐ対戦をダービーマッチとするのは無理なこじつけ、と萬年は考えるが、百歩譲って、メディアがどうしてもゲームに冠をかぶせたいのであれば、

してそれが、信州メディアであるならば、〈信甲ダービー〉とすべきだろう。

この件は、既に数年前から提唱しているが、甲信ダービーは一向に死語にならない。


ヴァンフォーレは優良な先達ではあるけれど、同一リーグでやるからには、もはや対等以上の気構えがなくてどうする。

では。

まっとうな言葉、教育。


かつて、知り合った米国人が言った。

―ユダヤ人の子はその賢さで、学校の教師をやり込めて困らせるのが、アメリカ社会に在る、ユダヤ人のイメージなんだ。

非ユダヤ系からの、多分に人種的な決めつけにも思われた。

アルベルト アインシュタイン (1879~1955) がそういう個性であったのかは知らないけれど、その名を聞くと、この話が思いだされて仕方ない。

彼には、まったくそうだよなぁ、と同感させられる言葉がある。曰く、

調べられることを、いちいち憶えておく必要はない。

大切なのは、その情報や知識はどこへ行けば、どのようにすれば獲られるかを習得しておくこと。

けれど、悲しいかな。
萬年の小中高時代、成績の基準は、調べればわかるようなことをどれだけ憶えているかどうか、それに終始していたように思う。

いわゆる知識の多寡と、記憶力に優れることを良しとする教育ですな。

知的な興味が向けば、特定の分野に関する知識は増すのが自然。

けれど、それだけを尺度とする学業評価は個人の持つ可能性を多く見逃す。

なぜ、そういう教育になってしまうのか?

理由は簡単だ。
教師にとって、知識の一方的な伝達がもっとも楽な教授法であり、自己の権威を保てるから。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (7/1 6:51)
風が吹けば桶屋が儲かる。
遠い記憶の中に「勉強は他人の気持ちが解る人間になるためにする」と言った先生がいた。あの難しい因数分解が、あの英語の文法が、何故人の心を…?と思ったものだ。
大人になって、人間関係や仕事の段取りなど困難に直面した時、柔軟に解決する力を養うため、子供の頃脳を鍛えておけと言うことだったのだろう。
人生をあまり上手く渡れていない私としては、もっと勉強しておくのだったとつくづく思います。
では、また。

☞萬年より (7/1 17:50)
学校は、いつかは去るもの。
大人になって〈勉強します〉と言ったら、商店主の値引きの言葉。
ま、それも、他人の気持ちを窺うことには違いないですね。

判事、と聞けば。


『ジャスティス』(原題、…And Justice for AlI、1979年米国映画) の中、ジャック ウォーデンが演じた、法廷で拳銃をぶっ放す奇人判事が懐かしい。

―このインターネットの時代では、ほんのわづかの部数が流布しただけで、国家機密は取り返しのつかないほど損なわれる可能性がある。本を手にしたのがたった一人でも、熱意があれば、本の内容を近くのコーヒーショップから世界中に公開できてしまう。本書はすでにメディアをはじめ、世界に何十万部もばらまかれた。危害は既に生じてしまい、原状は回復できない。  (BBC訳を改変)

連邦地裁は20日、米政府による、前大統領補佐官の回顧録の出版を差し止める訴えを棄却した。

回顧録が国家を危険にさらしていることは認めるが、出版を止めたところで、もはや大勢に影響なし、との判断だ。

連邦判事が、現実主義的な判決をリリースするのは、いかにも米国、って感じ。

さて、前補佐官の狙いは、現職大統領の再選阻止なんだろう。

ために、大統領が、英国が核保有国なことを知らない、フィンランドはロシアの一部なのか?、と側近に尋ねた、と暴露する。

が、そもそも知識に富んだ聡明な人物が政権トップに座るか?

選挙には、政治でメシを食いたい者たちが参加し、チャンスと資金でレースに勝った者が政権を獲る。

となると、リーダーの暗愚や無知をカヴァーするのが、補佐官の最たる務めだと思うんですがね。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/30 16:57)
悪口は自分に返る。
人は、他人の悪口を言うのが好きな生き物だ。天気と同じくらい手軽な話題なのかも知れない。どこの職場、学校でも聞かれる。顔の見える身近な相手から、さらには顔の見えない相手にまで悪口は及ぶ。
最近ではコロナの感染症、医療従事者への悪口。悪行を犯した芸能人への悪口。過去には松本サリン事件での河野さんへの悪口等、他人と悪口の共感をもつことで漠然とした不安から逃れ、あるいは他人との優位性を保ち、心の安定を図りたいためなのか。
補佐官の大統領への悪口、政治的意図があるのだろうが政治音痴の私には、別れた彼女が元カノの悪口を言うのと同じレベルとしか思えない。
では、また。

☞萬年より  (6/30 17:33)
―悪口は、その当人の前で言い、褒めるのは本人の居ないところで。
それを信条にしたいものです。

このブルースを 聴け 『東京流れもの』

ブルースとはどんな音楽か?、などと野暮な話は、一切いたしません。

これを聴けば、おおかた解かっていただける、というもの。

そう、藤 圭子こそは、世界に誇れるブルースシンガーだと信じて疑わない。

一生懸命ブルースをやろうとしているエリック クラプトンなんかよりは格段に巧くて、かつ迫力にまさる。

藤の場合、やろうと思わなくたって、らしさ を意識しなくたって、自然体がそのままブルースをつむぐ。

しかも、ほとんどの場合、元歌(本家版)より完成度が高い、となれば、カヴァーされたほうはさぞや居心地が悪かったに違いない。

ご本人はむしろ、『北国行きで』といったアップテンポな曲が好きだったのではないか、と思う。

生きていれば、この7月3日がやって来て、満69歳……か。

クラプトンに伴奏をさせて歌っている藤 圭子を夢想することがありますよ、ホントに。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/29 16:27)
たったの5つ違いだったのか。
たまたま、昨日スマホで聞いた「昭和の歌謡曲」。
藤圭子の歌の上手さ迫力は他の歌手とは別格だなと思った矢先の萬年さんのブログ、嬉しい限りです。
デビュー当時、その可憐な容姿と貧しさを背負った薄幸なイメージに引かれ、当時妹が持っていた雑誌「平凡」「明星」を持ち出し、彼女の記事を読み漁ったものです。
中学の修学旅行では、浅草国際劇場で「藤圭子ショウ」を観、自分で撮ったステージの上で歌う彼女の写真を机の上に飾ってました。
後年、不可解な行動そして不幸な亡くなりかたをして大変残念ですが、作家五木寛之氏をして「彼女の歌は演歌ではなく怨歌だ」と言わしめた彼女の歌声は、決して明るい面だけでは無かった昭和の時代と重なり、これからも私達の心に響き続けると思います。
では、また。

☞萬年より  (6/29 20:28)
〈怨歌〉とは巧い表現ですね。
とすると、水前寺 清子のは〈援歌〉か。
藤 圭子自身は、〈演歌〉、歌(物語)を演ずること、これを追求していたのかも。
これだけの危ういバランス、というのは、稀有な存在です。
では。