案外,慧眼かも (FC今治戦 おまけのプレビュウ)

今日のゲーム。

地上波(民放)によるテレビ中継があることは前から知っていたけれど、このカードを選んだお方、なかなかいい仕事をしたな、という感を最近になって強くしている。

FC今治というチーム、知れば知るほど、3部リーグに典型的なサッカーを実践していることがわかってきた。

ひたすら機敏に、攻撃的に、というスタイル。

精度はともかく、クロスの雨を降らせて、シュートを打つ、という信念です。

いままで対戦したチームでは、テゲバジャーロ宮崎がよく似た風貌を持っていた。

ボールを持ったら、とにかくドリブルで突っ込んでくる、って感じ。

今季、このリーグで勝ち抜くためには、こういうチームをいかにねじ伏せるか、がけっこうな課題。

だから、山雅にとってはシンボリックなゲームをチョイスしてみせた番組編成者の慧眼には、大いに敬意を払おうではないか。

つまり、この対戦、山雅にとってこのリーグを制するためには、相当に重要な関門に違いない、のであります。

さらに、いろんな事情があるにせよ、結果として、真夏日の予報下、ゲーム開始を早めた運営もまた、良い仕事、とは言えまいか。

では。

ゆっくりしてもいられない (FC今治戦プレビュウ 後編)

ひとつは、自分への戒めとして。

明日のゲーム開始は、12:00 で、けっこう早い。
いつもの調子でやっていると、ギリギリにアルウィン到着、なんてことになりそう。
心して準備しよう。

ふたつめは、対戦相手、FC今治の特質と、それへの戦略として。

あえて乱暴に単純化すれば、このチーム……、

ボールを手中にして、ひたすら攻撃に時間をかけたい、そうすることによって、相手の攻撃回数をも減じたい、そんな思想でサッカーやっている。

シュート、クロス、ドリブル、これらの回数が、リーグ第1位。
相手の陣地の、ペナルティエリア周辺への侵入回数も、リーグ第2位。

5/15対鹿児島戦では、クロスを 32本も叩き込んだんですな。

ここから浮かび上がってくるのは、とにかく休まず、手を緩めることなく、手早くボールをゴール前に入れてシュートまで行く、そういうサッカー。

そうです、うかうかしてはいられないのだ。

要は、こういう相手に対して、どうやって胸を合わせていくのか?、あるいは、胸を合わせないでやるのか?

今治さんの時間軸に対し、どうやって時間を使いながら、こっちに優位なサッカーに持ち込むか?

❶相手の攻撃圧を、真正面から強く潰すことで、より速く反転攻撃に傾注する。

❷ひとつ飛ばしとか、相手ディフェンス裏へのボールを多用して、その陣形を押し下げることによって、ペースをこっちへ手繰り寄せる。

❸目には目を、でサイド攻撃に賭けて、相手を上まわるクロスを入れ続ける。

❶~❸、これに、巧妙なセットプレイ(含むCK)を絡ませてながらやっている山雅を観たい!、というのが萬年の、虫のいい考え。

とは言え、ボランチのセットをどうするのか?、できれば、住田 将はインサイドハーフ(ボランチ)起用がいいなぁ、とか、田中パウロの突破力をサイドで活かしてもらいたい、とか。

一番の敵は、気温30℃の暑さかも知れませんが、ひょっとしたら。

(FC今治戦の向こうの、ジュビロ磐田戦も見据えて戦っておくれ、と思います)

とにもくにも、地上波で長野県サッカーファンにお見せするに値するゲームを目指しましょう。

では、アルウィンで。

ちょっと寄り道 (FC今治戦プレビュウ 前編)

(時候の憶え、5/26 アネモネ カナデンシスが白く開花)

山雅が北陸大学とやっていたと同じ、21日。

FC今治は愛媛県代表として、沖縄SV (おきなわエスファウ 、とドイツ語式の発音で呼びたい) (沖縄県代表)と、天皇杯一回戦を戦っていた。

COVID-19感染者が複数名発生したため、愛媛FCが天皇杯参戦を辞退したので、不戦勝で県大会決勝を通過したのが、FC今治。

しかも、この日は、愛媛のホーム、ニンジニアスタジアムでのゲームだった。

結果は、4 – 1 で、沖縄SVが勝利。

(二回戦では、アビスパと対戦(6/1)する)

Jリーグ3部に属するプロクラブとして、そのふたつ下のカテゴリーにいるチーム(九州リーグ)に、けっこうな得点差で敗れたのは、少なからずプライドを損ねることだろう。

けれど、沖縄の得点のうち3点は、セットプレイ直接、あるいは、セットプレイから、のものであるから、あまり、どうこう言ってもなぁ、とは思う。

ハイライト映像を観たら、後半18分、沖縄の3点目。

これ、ゴール正面30mくらいからフリーキックが直接入ったものなんだが、なんと、キッカーは、安在 和樹ではありませんか!

彼、一昨年は鳥栖でやっていた(レンタル)が、今年、ヴェルディから移籍していたんですね。

その正確な左足は、健在で、まだ27歳。

沖縄は、他に、元Jリーガーを8人保有しているのだから、カテゴリーだけで判断できないわ、これ。
(クラブ創設者の、元日本代表 高原 直泰が、いまだ#10で出場していたり)

FC今治は、データ上では、相手に攻撃するシーンをなかなか作らせないチーム。

けれど、プレイが一旦切れるセットプレイだけは、どうも別物のようだ。

なので、これと対戦する時には、時間が止まるセットプレイは、工夫して有効に使おう!、と山雅首脳陣にインプットできたことが、なにより良かった。

プレビュウとして、こっちの攻撃に関する、ポイントのひとつとして指摘しておきます。

上のゲームで言うと、FC今治の反省点はあくまで、1点しか獲れなかった攻撃にあるが、これについては、プレビュウ 後編で。

では。

『眠れぬ夜』の遠雷 (1975年)

昨夜は、1時間半ぐらいおきに目が醒め、また眠り直す、を繰り返していた。

そのうちの一度は、強く叩きつける雨の音に起こされて。

― 最近、眠れない夜もあってね、と家人に話したら、

― あたしなんか、先生に処方してもらった導入剤飲んだって眠れないことが多いわ、とまるで一蹴される。

このオフコースの曲。

女性が跪いて赦しを乞う、なんてシーンは、僕の人生には金輪際なかったし、これからも決してないだろう。

だから、無責任でフィクショナルな思いで楽しめる楽曲だ、僕にとって。

曲をカヴァーしているさくさく氏はきっと、山雅サポーターに違いないが、佐久あたりにお住まいなんだろうか?

では。

初夏に ふたつの最期。

(時候の憶え、5/24 ヤマボウシの開花に気づく)

木洩れ陽、なんて言葉が、やけに頭の中をめぐっている初夏の日……。

やがて雨の来襲があるだろう、と予報は言っていた。

さてと。

いまから407年前の今日、大阪夏の陣が開戦した。(和暦で、慶長20年4月28日)

江戸幕府  vs  豊臣家、の合戦。

前年の冬の陣とその和議を通し、豊臣側の孤立と凋落は深まっていたから、羽柴宗家の行く末が、半ば見とおせていた戦いではあった。

両者の戦力を比較すると、江戸幕府方 165,000人。対し、豊臣氏陣営 55,000人。

相手の3倍の武装勢力をもって、しかも、外堀が埋められた大阪城を攻略するなんてのは、よほどの下手を踏まない限り、これに失敗するほうが、おかしい話。

事実、2日の戦闘で、豊臣方は敗れ去り、大阪城は炎上、落城した。

この合戦において、家康本陣に二度も肉薄し、家康に自害を覚悟させるくらいの奮戦をみせたのが、真田 信繁 (1567~1615) が指揮を執る真田隊であった。

しかし、あくまでゲリラ戦を敢行したかった信繁の思わくに狂いが生じてしまい、結局は、戦死により要員を減じて疲弊した真田隊は、やむなく退却することになる。

信繁は、撤退の途中、休息していた境内で討たれて、落命した。

享年49。

……、とまぁ、(実際に見てはいないけれど)巷間伝わっているのは、こんな概要。

この合戦に話が及ぶと、いつも、
紀州九度山に隠遁を命ぜられた身であった信繁が、(豊臣家の要請があったにせよ) どうして、戦いに身を投じたのだろう?、という問いが、いままでに、幾多の人々から、繰り返し投げかけられて来た。

実際、当時ならば既に老境の身分。

亡くなる3年前には (隠居) 出家しているんです、信繁は。

真の答えはご本人に訊いてみるしかないんでしょうが、それも、無理。

となれば、ありふれた言い方にはなるけれど、いづれは朽ちるこの身であるなら、それなりにふさわしいと思う死に場所を選んだのではないか?、と今の萬年、勝手に斟酌しております。

で、死に場所、と言えば、もうひとつ。

1954年5月25日 (いまから68年前)、北ベトナムは、ドアイタン近くの堤防で。

インドシナ戦争を取材していた ロバート キャパ (写真家 1913~1954)は、地雷を踏んで爆死した。14時55分のこと。

享年 40 でした。

では。