失われないものを求めて。

ジョー氏は、その年代にはめずらしいほど、回顧趣味の気質を持つ (と思う)。

懐かしさへの深い愛の持ち主、というべきか。

思うに、小倉(北九州)という、かつて時代の栄華を誇った街に生まれ育った生い立ちが影響している。

今年、上田方面へ秋を楽しみに出かけた際、その地で、昔ながらのスーパーマーケットを見つけ、早速、画像を何枚か送ってくれた。

動画も送ろうとしたが、こっちは、容量オーヴァーで叶わなかったらしく、

おそらく、ご自身のインスタグラムでは公開しているはずだ。

同行した奥様曰く、価格的には、それほど特筆すべきほどでもない。

けれど、今からずっと昔の市場へとタイムスリップした感覚に、感動したんでしょう。

たしかに、画像を見る限り、ノスタルジック。

画像を分かち合ってくれたジョー氏への義理を果たすため、〈蠅取りテープ〉なんぞを持ち出してきて、家のキッチンに吊り下げていた僕からすると、

道の駅や、ファーマーズガーデンなる仕掛けが、現在、昔ながらの地場産品を見てまわる楽しみを提供している。

もちろん、その市場の〈やる気〉こそが、生命線には違いない。

先日、富士宮のファーマーズガーデンへ出向いたが、体育館のような建物内の活気と盛況には、感動してしまった。

富士宮人ならば、ここと、ドラッグストアを使えば、日用品の要は足りてしまうくらいに、野菜、海鮮、惣菜と、とにかく種類が豊富。

客をほどよく放っておいてくれる一方で、店内のマネジャーらしき人物が、マイクを通して、おすすめ品やら、時間帯の値引きなどの情報を、聞くにわずらわしくなく紹介している。

おかげで、旨い富士宮焼きそばを味わえたし、ゆず湯も楽しめています。

では。

背負うものが どうやら違う (我がナショナルチームの総括)

決勝戦のクオリティーの高さは、普段なら寝落ちしてしまう家人が、120分の録画をずっと観ていられたこと、それが一番わかりやすい証明でした。(……以上、昨日の記事へ付記)

(以下は、2022大会が終わったのをもって、5日前の原稿を、ほぼそのままで投稿)

予選突破したとは言え、成績的に、前回を上回ったわけでもない。

(予選敗退、予選突破の繰り返しで来て、ここ2大会連続の突破ではあった)

おそらくドイツ、スペインといった強豪と呼ばれる相手に勝ったこと(勝ち点6)が、余計な印象として、そのリアルをおぼろげにしている。

その戦績で帰国して、どちらから発案したのか?、義務的な表敬とは言え、

プライムミニスターが歓迎面談してくれるんだから、日本選抜は、なんとまぁシアワセなことか。

言いたい文句はいろいろあるが、出ると決まったからには応援するわ、が大会前、おおかたのムードだった。

で、この成績でご苦労さん、の笑顔で終わっているあたりが、この国のサッカーの限界なんだなぁ。

(ここで、彼の名誉のため断っておくが、ハリルホッジの轍〈主力プレイヤーとの衝突〉を回避するため、叛旗を挙げそうなプレイヤーはあらかじめ呼ばず、背番号#10を、薬にも毒にもならないように起用した今回の監督は、なかなかの策士。

ただ、三苫、三苫に偏り過ぎて、結果、久保 建英を活かせなかったのが限界)

たとえば、柔道をやる者が日の丸を背負う時のような過重な負荷を想い起してしまう。

とは言っても、蹴球ナショナルチームに対し、それなりの負担(=必死さ)しか負わせられないのは、こっち側の落ち度でしょうけど。

では。

ふさわしい勝者 (2022W杯ファイナル)

たまたま今日が非番だったので、真夜中に起きて、決勝戦を観ました、初めてのフルタイムで。

アルゼンチンが常に先手を獲る格好で、延長戦までやって、3 – 3 。

このため、5人制ペナルティキック戦となる。

フランスが、ふたり失敗。

アルゼンチンは4人目までが成功して、そこでジ エンド。優勝(通算3度目) を決めた。

……感じたことを、いくつか箇条書きします。

❶公共放送による放映。
実況、解説ともに、終始絶叫型には程遠いトーン。
落ち着いた語り口で貫かれていたので、気障りでなくて、おおいに救われた。

❷保有するプレイヤーを活かすやり口、あるいは、追求するサッカースタイルにそれらタレントを当てはめる戦略など、指揮官(首脳陣) の仕事ぶりが、こちらに強く伝わってきた。

完熟度には差があった(アルゼンチン>仏) 。

が、やりたいサッカーが双方はっきりしていて、ブレずにそれが表現されるのを観るのは、なんとも心地よかった。

❸上の❷に関連して。

球際の競り合いでのボールロストはあったけれど、アルゼンチンのほうには、120分間とおしてのミスは 1 、2 度のみ。

安易にタッチライン、ゴールラインへと逃げるプレイは皆無。
刻々のプレイに責任感が、当たり前のように驕りもなく込められていて感服。

ジャッジへのアピールは、リードしているアルゼンチンのほうに、はるかに必死さと執拗さがあった。

これこそ、勝ちを自分たちに引き寄せる地味なプレイだったかも知れません。

月並みになってしまうけれど、国旗を背負う、背負わせる、ってことが、これくらい高まらないと、ここまで到達できないのか……。

ホンネを言えば、メッシに勝たせたかった。

そして、勝利の女神(ニケ)は、それを胸(ナイキマーク) にして戦ったフランスには微笑まなかった。

けれど、ふたつの国いづれもが、頂点に立つにふさわしい者たちであったことは確かでありましょう。

では。

妄想その❷ (新しき葡萄酒は 新しき革袋に入れよ)

そもそも、サッカースタイルについての、議論のはじめ。

ボールを動かすことに(客観/主観で) 長けていれば、より長い時間ボールを握るサッカーを、チームとして目指すに違いない。

こっちがボールを持っている限り、相手は攻撃に出られないわけだから。

さらには、敢えてボールをイーヴンにするような空中などでの競合戦も避けるだろう。

そうする技量に乏しいから、初動態勢としてボール保持は捨ておき、守備からボールを奪取することを狙い、一閃反転攻撃を仕掛ける。

それが、ひと昔前、しんがりからJリーグにやって来た山雅が、採らざるを得ない戦法だった。

そのために、ボールホルダーに振り回されてもへこたれない走力と、奪うための、球際に厳しいスタイルが導入された。

アルウィンでは、そういう情景をおおく観ながら、10年が経過。

さて、今。

山雅(力量)の現在地を測ったときに、果たして、こういうサッカーが選択されるべきかどうか?

そこら辺の議論から組み立てないと、スタイル論は、おかしな方向へ行く。

実際フタを開けてみなければわからいない。

けれど、はじめから、過去のサッカースタイルの全受容ありき、でいいのか?

たしかに、絶対昇格、といった尻に火が付く緊急的な欲求はあるにせよ、

もっと自由、闊達に、現有および新しいタレントを活かすような、新スタイルを掲げないと、せっかくの監督交代に価値もあったもんじゃない。

さて、この記事のタイトルは、聖書、ルカ傳第5章38節からの引用。

この直前で、キリストは、

― 誰も新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない、もしそうしたなら、葡萄酒は革袋を裂いて漏れ出し、革袋もダメになるだろう、と言っている。

山雅の〈のれん〉= サッカースタイル、という乱暴なロジックで、すべてが語られてしまうと話にならないのでは?

堅守、速攻を、我がチームの専売特許と思うのは、時代錯誤ですよ。

では。

サッカー批評の いいかげん。

まづは、お帰り、北の雪国から。

村越 凱旋,、また一緒に闘おう。

JFLで半年やって、3得点。

柴田さんのラインメール青森は、最終順位 4着でシーズンを終えたと記憶している。
どこかのチームと同じような戦績で、惜しくもJリーグ昇格を逃がしたわけか。

ところで。

先日、職場にやってくるドライバー氏が、

― 霜田さんは、どう?
ラジオで、〇〇さんが、ハマったら面白い、と言ってたけどね。

― あぁ、そうですか、と御愛想でお返しした。

けれど、それって。

野球実況で、ランナー2塁、1塁でバッターが立った時、凡庸な解説者氏が、

― ここで長打が出れば、2得点ですからねぇ。

と、当たり前のことを、さも意味深いかのように言うのと、まるで同じじゃん、

ご高名を存じ申し上げる御方の発言ゆえ、もちろん、口には出さず。

要は、たいした情報も得ずして、いまだフタが開かないことに乗じ、後でどうとでも言い訳できるようなコメントに過ぎないからだ。

僕のような素人と、ほぼ、同等レヴェルのことを言い散らかし、

これで、出演料をもらっているとしたら、サッカーのコメンテーターってのは、よほどお気楽な仕事に違いない。

では。