小倉の海に (叙情的 北Q戦プレビュウ)

ミクニスタジアムの対岸あたりで、ジョー氏は生まれた。

だから、彼は生粋の、小倉の男。

『無法松の一生』の主人公、冨島 松五郎 (人力車夫) もまた、小倉っ子。

喧嘩早いが、純情で、侠気に富んだ、憎めない男、という設定だ。

ジョー氏が喧嘩に長けているかは知れないが、純情、という面では松五郎とよく似ている、と思う。
車 寅次郎を愛してやまない、なんてのはその証拠。

さて、本題。

小倉のプロサッカーチーム、ギラヴァンツなんだが、〈無法〉とは、かなり対極的なサッカーをやっているのである。

例えば、反則ポイントではつねに上位にあって、警告(カード)も少ない。
つまり、インテンシティを売りにしたサッカーでない。

コーナーキックの時は、きっちりとゾーンディフェンスを形成する。

自陣ゴール40m付近、角度45°のフリーキックを与えると、ペナルティエリア外縁に、きれいに横一戦の守備ラインをこさえて待ち構える。

とにかく、マジメなんですよね。

なにをやってくるかわかんないのは、#8六平 光成 (元エスパルス)くらいなもんじゃあないか?
だから、そこから供給される気の効いたパスには、要注意だろう。

ところで、家人に送ってきたメールによれば、京子さんは今節、現地参戦らしい。

山雅サポーターの大先輩として、僕は大いにリスペクトしているんだけれど、その批判的な視点だけは、どうしても好きになれない。

京子さんなりの純情、と言ってもいいが。

メディアに全幅の信頼など置けない萬年的思考からすると、京子さんによるチーム論評の根拠が、どこぞの地方紙による論説をトレースしたものなので、やれやれだ。

だいたいが、鹿児島戦で、不運にもPKを与えた大野 佑哉を、キャプテンマークに値しない、などと言っているようでは、お話しにもならない。

いったい、山雅のどこを観ているんだろうか?

大野無くして、現状、山雅の守備はあり得ない、と思うんですがね。

家人曰く、大野はプロとして(山雅に入団して) もっとも成長したプレイヤー。

……と、最後は、やや感情的になってでも大野の肩を持って、今回は終わりです。

では。

輝け!! 海原のように (北Q戦プレビュウ)

こころが沈む時こそ、つとめて明るく振る舞い、快活な曲を聴く。

(順風な時はむしろ、悲恋の歌でもかまわない)

リーグ戦を折り返して、ここ3戦。

山雅は、勝ちから遠ざかって、1分2敗。

苦しい時季だ。

ただし、勝てなかったとは言え、八戸、いわき、鹿児島とやったゲーム、それぞれに見るべき点が多く、チームとして最大振幅で〈特長〉を表現していた。

つまり、次につながるものを感じさせた。

だからこそ今は、玄界灘の奥まったところに建つ、ミクニスタジアムの岸を洗う日本海の輝き、なんかを想像したいところ。

ギラヴァンツは、リーグ第1位のボール保持率を誇るチーム。

ただし、ボールを持つのは自陣で攻撃を組み立てる局面で、が圧倒的に多く、いざ相手陣内に入ると、手数をかけずにゴールを目指す。

つまり、ペナルティエリア付近でチンタラとやりはしない、ってこと。

サイドを巧く使いながら、前線のプレイヤーが、クロスに対しペナルティーエリアに斜めに入って来てシュートを打つ、って感じの攻撃が脅威か。

高さはないけれど、活発に動き回るフォワードを、いかに捕まえて自由を奪うか?

鹿児島戦の反省を活かし、サイドを簡単に割られないことが、特に重要ですかね(対人守備の受け渡しです)。

それと、コーナーキックでは、高身長のディフェンス陣が頭を使って仕事をするから、そこへのマークを厳しく。

中盤でパスワークを駆使する相手ならばこそ、パスカットや奪取の機会も多くなるから、即反転のカウンター攻撃を仕掛けやすい、と考えよう。

となれば、組しやすいタイプ、と考えて中盤を締めて(by ボランチ) コンパクトにやる。

ラインを高く設定した場合、北Qは、それほどロングボールを多用してこない、と診るんですけれどね。

対し、こっちはどんどん、相手ディフェンス裏のスペースを獲りましょう。

なんだ、取り立てて目新しいこともありませんが、山雅の場合、全体で押し上げて分厚い(人数かけて波状的な)攻撃、これができるか、どうか。

それ相当のタレントは豊富なんですから。

相も変わらず言いますが、複数得点、これを念頭にやること。
まづは、フォワードが得点して輝くこと。

そのふたつを、大いに期待します。

では。

すべては 過ぎ去る〈All Things Must Pass〉

……、と言いながらも、次の世が在る、と思っている人がかなりの割合を占めるのが世界の民族のおおかた。

だから、彼等は、現世でおしまい、を信奉する極東アジアの某民族ほどには、この世の命に汲々としない、ように見える。

いや、もっぱら生物的な命に執着しているようなこのお国であっても、実際のところ……、

いまだ、検査によって判明した! 感染者数、死者数を、ルーチンでマジメに報道はしているが、保健所等のマンパワーも追いつかなくなっているらしくて、接触者の追究の範囲は、同居の家族まで、となっているらしい。

クラスター?、だから、どうしたの?、って話。

要は、言ってることは、仰々しく立派に見えて、その実、やってることは、いままでのインフルエンザと大して変わりないように、対応がだんだんと骨抜きになる。

なに、僕はそれを責めているのでは決してなくて、そうであって当たり前、いや、むしろ、どんどんそうすべき、と思っている派。

政治リーダーにしても、立場があるから深刻ぶって語っているだけで、およそ迫力もあったもんじゃあない。

処置できる医療機関を限定したままで、高波が来るたんびに、現場は大変だ、疲弊している、をいつまで繰り返すんだろう?

職場の同僚がふたり感染した、と聞いた。(で、ここ数日は離職)

発熱以外の詳細な症状は不明だが、結局は自宅療養であるならば、風邪や季節性インフルエンザと、対応のどこが違うんだろう?

あと何年後、生き残ったら、こっちを振り返って僕たちは、この3年越しの騒ぎを、どのように語っているんだろうか?

この曲だって、ジョージ ハリソン (1943 ~ 2001) が発表してから、51年。

半世紀なんて、過ぎてみれば、束の間さ。

では。

恋の成就を 望むなら。

或る友人 (=女性) が、(おそらく今よりはずっと) 婚活に熱心だったころのお話。

その日、初めて会った男性。

彼の運転する乗用車に同乗して、どこか(地名は忘れた)へと出かけた。

狭い道に来た時、どうもすれ違いがスンナリいかなかったらしい。

その男が、行き交った車の運転者に、それはそれは聞くに堪えないような暴言を吐いたそうな。

― その瞬間ですね、あっ、これで(この人とは)おしまい、と思いました。

ねんごろになりたい相手には、羊の皮をかぶってでもそれなりに装ってみせても、デートの途中で、ほんの瞬間かかわる人々に対して、無礼で優しさに欠けた振る舞いをしてなんら恥じることもなければ。

(唖然!) はい、それまで。― という見事な事例でありましょう。

一緒に行動する際、利用したお店のスタッフに敬意を払う、ふと行き過ぎる人へ道を譲る……、といった配慮。

そういうことに、人となりは、もっとも露わになることを忘れてはいけません。

イエスキリストだって、言っている。
〈わが兄弟なるこれ等のいと小さき者の一人になしたるは、すなわち我(王)になしたるなり〉(マタイ伝25章40節)

もちろん、初回ならば、すばやく助手席にまわってドアを開けて差し上げる、ってこともよろしいかと存じますけれど、大方の日本人女性は、そういうことは期待していない。

そもそも、そういう社会で育っていませんしね。

他人と何気なく交わる、飾らないそのやりかた、それが試されているのです、案外。

もちろん、それでだけで恋が成就するわけでもないけれど、それができなきゃあ門前払いが相当か、と。

ま、今回もまた、じじいによる大きなお世話、ですけれどね。

では。

それでも 図書館は使える。

この前、某公共放送だったか、
熱中症対策として、涼しい図書館で過ごすのもひとつの手、とか言っていた。

そういう発想は、否定しない。

けれど、個人個人の都合を知らないでおいて、軽々に電波に乗せて、こういうアイデアを推奨するのは、マヅイでしょう。

僕が、個人的に友人に話すのとは、わけが違う。

誰もが、図書館の近くに住んでいたり、気軽に自動車などで移動できるわけでもないし。

炎暑の中、ライブラリーにたどり着くまでに体調に異変をきたしたりしたら、どうするの?

また、COVID-19感染防止のため、図書館によっては、滞館時間を、例えば 1時間程度に制限している場合もあるのだから、ダラダラと涼まれても困るだろう。

……ところで、このように他人の冷房の恩恵にあずかる場合は多く、開架図書、つまり、書棚に並んでいる書物を抜いて来て、どこかに座って見て時を過ごすことになろう。

けれど、僕のようにこの先短い年齢になると、ただ漫然と目についた本を手許に取って楽しむ、という時間が惜しい。

したがって、図書館には、あらかじめ読みたい書籍を確保するために出向くことがもっぱらだ。

だから、むしろ書庫に仕舞われてある本を調べ、それをオーダーすることが多い。

さらに、図書館の利便はもっと他にあります。

❶地元の図書館に所蔵していない書物であっても、それを所蔵する他の図書館から、〈現物〉を取り寄せてもらうことができる。

これを、図書館間貸し出し、という。

特に、郷土資料、特定地方の歴史を読みたい、なんてのには使える。

そのような書物は、館外貸出をしていないものが多いけれど、この制度を使えば、取り寄せてもらった図書館内での閲覧はできるし、(ルールに従った)複写が可能。

❷さらに、多くの(中央レベル)図書館は、国立国会図書館デジタルコレクションにへのアクセス権を持っているから、申請さえすれば、館内のパソコンに案内され、画面から簡単に、稀少な書物を閲覧、複写できるというわけ。(註:個人的にアクセス登録も可能)

上記❶❷については、相談窓口へ行って、その旨を尋ねてご覧なさい。

ほとんどの場合、親身になって対応してくれる(というのが僕の経験)。

これを、総じて、レファレンスサーヴィス、と呼ぶ。

以前、メールでもって、ある資料の所在有無などを尋ねたら、それに関し、丁寧な返事を手紙でもらった。

それくらい、少なくとも!!、長野県における司書の方々は、仕事熱心で礼深く、有能でいらっしゃる。

たとえ一時であってもですよ、職業的な専門家に、まるで、自分専用の秘書のごとくに働いていただく、ってのは、かなりの贅沢ではありませんか?

もちろん、そこには秘訣がありまして、当方も丁寧、かつ、平明に要件をご説明申し上げるのがコツ。

鐘は、叩き方次第で、美しい音も出すし、不快な音で鳴ることもある、ってことです。

……、しかしです。

マイルスデイビスのトランペットは、いつ何時聴いても、陶然となりますね。

これ、1952年あたりの録音。

いまから 70年前ですぞ。

だから、それがどうした?(So What ?)、でいいんですけどね、これも、図書館から借りているんです。

では。