復調あるのみ。 (ヴァンラーレ八戸戦プレビュウ❶)

― 残り10試合を、10勝すれば、勝ち点は、ちょうど 70になって、

そうすると、2位以内(昇格ラインクリア)は、確実ですよ。

周囲の方々には、こんな話をひろめている、今週。

反応はさまざまなれど、どうも発言者のおもむきを察知なさるようで、

ほとんどがジョークと受けとめている気配。

うまい皮算用には、飽きの気配、といった感じで……。

たしかに。

これまで、勝ち負けの数が、週ごとにシーソーみたく上下しているのが実態なのに、

つまり、いままで、テストは 60点ぐらいの出来だったのに、これからは、100点満点でいきます!! と言われて、さて、どうする?、ってことですな。

もちろん、そういうプロパガンダが必要なこともわからなくもないですが、

僕的には、大風呂敷は、この際要らないので、

前節岐阜戦で、かなり傷んだ、というか、格好にならなかった〈守功一体型攻撃〉を、修復、再現していただければ、それで本望。

― テレビで観たけど、サッカー素人の俺からも、バタバタと、つまんないサッカーでしたよ、時間が経てば経つほど。

……、と当時、コロナ禍療養中だった同僚にも言われましたから。

創り込んだはずの〈攻撃スタイル〉が再現されれば、おのずと結果など、ついて来るはず。

八戸さんには、たいへん申し訳ないが、

ああいった下心や遊びとは無縁の、真正直なサッカーとやって、

高品位で、自己流サッカーを表現できないようでは、大口を叩かないのが、身の為、世の為。

では。

不善を.なさないために。

,

秋の好天には。

ポール デズモンド (1924~1977) のサックスで、

グリーンスリーブス、など聴いていたい、と思う。

が、しかし、それではあまりに心地好すぎて、なんだかふやけてしまい、

僕のような者は、結局は、

小人閑居して不善を為す(『大学』)おこないに走ることは、目に見えている。

だから、大して変わり映えもしないが、

すこしは、身の裡に、凛とした気概を満たすべく、

ジェームス テイラー(1948~ ) の『That Lonesome Road』(1981年発表)を聴こう。

そこで、チトこの曲について調べようと、ウェブ上、これ面白そうだ、と入ってみたら、

あらま、2016年7月の、自分のブログ記事だったとは!!

こういうの書き棄て、っていうんでしょうね。

7年も経つと、なにかと未熟なことも語っていて赤面ですが、

当時、日本語訳を試みているので、多少改訂して、記載します。

That Lonesome Road (ひとりで辿る道)

その道を ひとりきりで 歩いて行く
肩越しに後ろを振り返ることもなく
樹々の上高く、銀の月が輝く夜に

聴くために立ち止まることができたなら
黙して目を見開くことができたなら
智について、なおも 情に寄り添うことをしていたら
今宵、この道を辿ることはなかったろう

持ちこたえよ、私のこころ

弱い自分がそこにいても 気にかけはしまい
自分を不憫に思ったところで 悩みは 僕から消えはしない

つねに ひとりきりでその道を歩いて行く
肩越しに後ろを振り返ることもなく
樹々の上高く、銀の月が輝く夜も

で、楽曲は、ジェームスが、タバナクル合唱団と共演しているものを。

では。

(拝啓 ウルトラス様)その安永についてですが。

岐阜戦。

開始の笛が鳴る前には、

新しくお披露目されたチャント(個人用応援歌) の練習もおこなわれて、

その中で、安永 玲央には、おなじみの

やすなが オーレ
やすなが オーレ、というやつが割当てられていた。

これ、名前の〈レオ〉からの着想によるものと推定しますが、

であるならば、その中の一節に、

やすなが レーオ、と挿し込むのは、どうだろう?

たとえば、アビスパのゴール裏は、これを永遠と、飽きるくらいに演っている印象があるけれど、

ちょっとひねってあげてもよし、そんな気がしますがね。

いかがなものでしょうか?

では。

山雅で,やりたい放題 (FC岐阜戦レビュウ 対策篇)

アルウィン交歓。

北ゴール裏の同志 チノ氏。

彼のご家族全員(奧様と息子さんふたり)には、初めてお逢いできたし、

奥様同伴のモモ氏には、ゲーム後、(参戦したのに) 勝たせられなくて申し訳ない、と、ありがたいお言葉をいただいた。

チーム山雅には、アルウィンには、(声に出さずとも)ひとりひとりの思いが詰まっていることを感じてもらいたい、と願う。

さて……。

ゲーム後の場内アナウンスだと、今節、敢闘賞は、安永 玲央のようだった。

たしかに。

執拗、かつ、堅かった中盤でのボール持ち出しでは、随所に奮闘を魅せていたから。

ただし。
米原 秀亮が多く基底に降りてでも、安永にはもっと、前を志向して攻撃に参加させることを、チーム意思としなければもったいない。

同様に、

菊井 悠介が創れる決定的な(攻撃)起点、村越 凱光のつっかけ、野澤 零温と滝 裕太の、スペースを縫えるドリブルなど、

素早く前へ、という霜田イズムの中で、それなりに輝いているんだけれど、

注文をつけるなら、

各自がその強みで、いい意味、もっと山雅で、やりたい放題するためには、

同時に、有利なポジションの他者を活かす、使う、それを約束事として表現することが、絶対に必要。

これは、ひとつの逆説。

〈自己のタレントを魅せるためには、他者を活かせ〉が、連携の本質であって、

岐阜戦に価値を求めるとするなら、
そこらへんを克服しないと、確実な得点を獲れないことが切実になった。

連携を高めよ、というのは、

今後、再起を賭ける山口 一真、鈴木 国友、渡邉 千真らが、決定的仕事をするには、その一歩手前の工夫がどうしても要るからで、

あとはなんとか頼む、行く先はボールに聞いてくればかりでは、まだまだ無責任な仕事でありましょう。

たとえば、フリーな状況(体勢)であれば、一辺倒にボールを蹴り出すことなく、軽いプレイを慎み、もっとしぶとくボールを大切にしよう。

そんなこと。

では。

やっかいな沈滞感 (2023.9.24 FC岐阜戦レビュウ 傾向篇)

好天のホーム岐阜戦は、0 – 0 の、スコアレスドロー。

負けていたらもっと悲惨だったろうが、

でも、なんだろう?、この爽快さのない後味は。

こっちも良くないけれど、あの程度の相手に勝てないようではマヅイだろう、とは岐阜さんも、きっと思っているに違いない。

……漫然、その理由を考えてみると。

❶今季、無得点のゲームは、28戦して、4回。(結果は、2分2敗)

要は、それなりの得点力を示している山雅。

攻撃(守功一体の)サッカーを追い求めているのだから、
無得点という事実は、かなりの不出来で、赤点レベル。

❷たしかに、岐阜は、こっち比べ、試合巧者。
ファールの仕方、痛んでいるようにみせかけて休む、中盤を厚くしてのセカンドボール回収、時として気の効いたプレイで相手の攻撃を阻む。などなど。

けれど、岐阜が、一本筋のとおった脅威的、圧倒的な力量でもなく、ミスがそれなりに多い不安定さ。

特に、60分以降、岐阜が目に見えて走れなくなっていたから、

それと比例するように、攻撃のアイデアと強烈さを失った山雅は、これは、いただけなかった。

なんだか、攻撃の、統一的な意思と連係が散漫だった。(息子による強調)

あるいは、局面の打開が、個人的過ぎて (決め事による)連携に乏しい。

❸一緒に観ていた息子に、
― 山雅は、ワイドな攻撃を棄てているの?、と問われる始末。

敵陣奥深く侵入した宮部が、勝負をためらってボールを後方に下げ、結局は、攻撃機会を逸したのを見ての発言だったんだろう。

根底には、下川と藤谷を欠く(不在の)陣容という辛さがあるにせよ、そこまでボールを運んだらやり切る!、という規律とチーム意思は、どうなってるんだ?

こういう残念な部分を、アルウィン(観衆)はちゃんと観ていますよ。

❹ならば、中央を使った攻撃は?、というと、岐阜の選手間距離がすぐれていた部分はあるが、縦パスが、変に怖気づいて中途半端なので、相手に渡ってしまう。

もっと痛烈、高速なやつでないと、3部リーグといえども、勝負できません。

……、と、まぁ、前半のチャンスに1点でも決めていれば、などと、捕らぬ狸の皮算用も手遅れ。

時間を追うごとに、(交代も含めて) 尻つぼみになったこと、それが、もっとも痛かったゲーム、としておきます。

では。