ちょっと寄り道 (FC今治戦プレビュウ 前編)

(時候の憶え、5/26 アネモネ カナデンシスが白く開花)

山雅が北陸大学とやっていたと同じ、21日。

FC今治は愛媛県代表として、沖縄SV (おきなわエスファウ 、とドイツ語式の発音で呼びたい) (沖縄県代表)と、天皇杯一回戦を戦っていた。

COVID-19感染者が複数名発生したため、愛媛FCが天皇杯参戦を辞退したので、不戦勝で県大会決勝を通過したのが、FC今治。

しかも、この日は、愛媛のホーム、ニンジニアスタジアムでのゲームだった。

結果は、4 – 1 で、沖縄SVが勝利。

(二回戦では、アビスパと対戦(6/1)する)

Jリーグ3部に属するプロクラブとして、そのふたつ下のカテゴリーにいるチーム(九州リーグ)に、けっこうな得点差で敗れたのは、少なからずプライドを損ねることだろう。

けれど、沖縄の得点のうち3点は、セットプレイ直接、あるいは、セットプレイから、のものであるから、あまり、どうこう言ってもなぁ、とは思う。

ハイライト映像を観たら、後半18分、沖縄の3点目。

これ、ゴール正面30mくらいからフリーキックが直接入ったものなんだが、なんと、キッカーは、安在 和樹ではありませんか!

彼、一昨年は鳥栖でやっていた(レンタル)が、今年、ヴェルディから移籍していたんですね。

その正確な左足は、健在で、まだ27歳。

沖縄は、他に、元Jリーガーを8人保有しているのだから、カテゴリーだけで判断できないわ、これ。
(クラブ創設者の、元日本代表 高原 直泰が、いまだ#10で出場していたり)

FC今治は、データ上では、相手に攻撃するシーンをなかなか作らせないチーム。

けれど、プレイが一旦切れるセットプレイだけは、どうも別物のようだ。

なので、これと対戦する時には、時間が止まるセットプレイは、工夫して有効に使おう!、と山雅首脳陣にインプットできたことが、なにより良かった。

プレビュウとして、こっちの攻撃に関する、ポイントのひとつとして指摘しておきます。

上のゲームで言うと、FC今治の反省点はあくまで、1点しか獲れなかった攻撃にあるが、これについては、プレビュウ 後編で。

では。

『眠れぬ夜』の遠雷 (1975年)

昨夜は、1時間半ぐらいおきに目が醒め、また眠り直す、を繰り返していた。

そのうちの一度は、強く叩きつける雨の音に起こされて。

― 最近、眠れない夜もあってね、と家人に話したら、

― あたしなんか、先生に処方してもらった導入剤飲んだって眠れないことが多いわ、とまるで一蹴される。

このオフコースの曲。

女性が跪いて赦しを乞う、なんてシーンは、僕の人生には金輪際なかったし、これからも決してないだろう。

だから、無責任でフィクショナルな思いで楽しめる楽曲だ、僕にとって。

曲をカヴァーしているさくさく氏はきっと、山雅サポーターに違いないが、佐久あたりにお住まいなんだろうか?

では。

初夏に ふたつの最期。

(時候の憶え、5/24 ヤマボウシの開花に気づく)

木洩れ陽、なんて言葉が、やけに頭の中をめぐっている初夏の日……。

やがて雨の来襲があるだろう、と予報は言っていた。

さてと。

いまから407年前の今日、大阪夏の陣が開戦した。(和暦で、慶長20年4月28日)

江戸幕府  vs  豊臣家、の合戦。

前年の冬の陣とその和議を通し、豊臣側の孤立と凋落は深まっていたから、羽柴宗家の行く末が、半ば見とおせていた戦いではあった。

両者の戦力を比較すると、江戸幕府方 165,000人。対し、豊臣氏陣営 55,000人。

相手の3倍の武装勢力をもって、しかも、外堀が埋められた大阪城を攻略するなんてのは、よほどの下手を踏まない限り、これに失敗するほうが、おかしい話。

事実、2日の戦闘で、豊臣方は敗れ去り、大阪城は炎上、落城した。

この合戦において、家康本陣に二度も肉薄し、家康に自害を覚悟させるくらいの奮戦をみせたのが、真田 信繁 (1567~1615) が指揮を執る真田隊であった。

しかし、あくまでゲリラ戦を敢行したかった信繁の思わくに狂いが生じてしまい、結局は、戦死により要員を減じて疲弊した真田隊は、やむなく退却することになる。

信繁は、撤退の途中、休息していた境内で討たれて、落命した。

享年49。

……、とまぁ、(実際に見てはいないけれど)巷間伝わっているのは、こんな概要。

この合戦に話が及ぶと、いつも、
紀州九度山に隠遁を命ぜられた身であった信繁が、(豊臣家の要請があったにせよ) どうして、戦いに身を投じたのだろう?、という問いが、いままでに、幾多の人々から、繰り返し投げかけられて来た。

実際、当時ならば既に老境の身分。

亡くなる3年前には (隠居) 出家しているんです、信繁は。

真の答えはご本人に訊いてみるしかないんでしょうが、それも、無理。

となれば、ありふれた言い方にはなるけれど、いづれは朽ちるこの身であるなら、それなりにふさわしいと思う死に場所を選んだのではないか?、と今の萬年、勝手に斟酌しております。

で、死に場所、と言えば、もうひとつ。

1954年5月25日 (いまから68年前)、北ベトナムは、ドアイタン近くの堤防で。

インドシナ戦争を取材していた ロバート キャパ (写真家 1913~1954)は、地雷を踏んで爆死した。14時55分のこと。

享年 40 でした。

では。

千載一遇の好機,とまでは言わないが。

月曜日に、職場で、

― 萬年さんは、この前の天皇杯、アルウィンに行った?、と訊かれ、

― いや、所用が他に有りましてね、あの日は。不義理しました。

― サッカーでさ、外からボールを渡す役目を何て言うんだったっけ?

― ボールボーイ。女性もやるから、ボールパーソンとも言います。

― そう、それ。孫がさ、天皇杯で、ボールボーイをやってね。

なんでも、お孫さんが所属するチームへの割当てだったらしい。
数箇月ばかり前、山雅とやって初めて勝った、と教えてもらった覚えがある。

おかげ様で勝ち上がれて、2回戦では、ジュビロ磐田と対戦(6/1)。

で、ジュビロさんはどうなのか?、とトップリーグ順位表をみてみると、

14節を消化して、勝ち点14の、15位 なのか今……。

過去の実績からすると、ゲーム当り勝ち点1、つまり、年間勝ち点が34以下だと降格する可能性が、断然高い。

20ゲームを残す、とは言え、このままで推移すれば、大変な憂き目をみる。

ちなみに、現在勝ち点14以下のチームは、浦和(14点、14位)、磐田(14)、清水(13)、湘南(10)、神戸(7)の、5つ。

しばらく確かめてもいなんだが、スゴイことになっている。

ヴィッセルさまに至っては、これから1勝1敗のペースで行ったとしても、合計勝ち点は、37止まり。

果たして上のどこと、来季、2部でまみえるんでしょう?

そして、ジュビロ磐田。

なかなか厳しいリーグ戦をやりくりしながら、
5/25 アウェイ神戸戦、5/29 ホーム横浜FM戦、6/1ホームで天皇杯 山雅戦と、中3日、中2日の 3連戦が続く。

その後、2週間強ゲームが無いとはいうものの、一体、6/1 は、どういうメンツで 来るんでしょう?

山雅にしてみても、リーグ第10節今治戦から、中2日、移動日を考えると、実質、中1日。

それぞれの事情、それぞれの思わく、なんとも切羽詰まった天皇杯ではありませんか。

では。

五月の 主役。

五月雨(=梅雨)が、つい、そこまでやって来ている。

麦畑では、矢車草の花が盛んだ。

この時季、他愛の無い語呂合わせなんだけれど、梶 芽衣子を想い出す。

メイ(May)、ってことで。

ご本名そのままの、旧芸名は、太田 雅子。

高校を卒業してすぐにデビュウした年の、『赤い谷間の決闘』(1965年12月29日公開、66年正月映画として封切り) に、たしか、桂小金治の娘役で出ていた。

(『シェーン』を下敷きにした、裕次郎、渡が共演した日活アクションの、第2弾!!)

これが、僕が彼女に、銀幕でお遭いした最初。

そこから60年、女優としての誕生から現在まで、時代的には、松本山雅とピッタリ符合する女優人生、と憶えておけばよい。

この御方、歌い手としても一流。

こうも見事に歌われた日には、歌い手のほうが困るだろうけれど、そうなったら今度は、歌手が役者としてひとつの境地に達すれば、いいのか……。

ただし。

きょう日は、歌い手、役者、どっちも三流なのが多過ぎて、始末に負えない。

では。