疑心暗鬼にご用心 (2021.9.11ヴェルディ戦レビュウ)

0 – 2 の敗戦。

いろいろとアラは見えるが、かといってそれほど悪い出来でもなかった。

けれど、勝てない、というのが、なんとも辛いですな。

負けると、ミスは目立ち、叩かれ、得点できなきゃあ、前線は無能と言われるのは、勝負の世界では日常茶飯事か。

とは言え、それに同調して、落胆を発散する気にもなれず……。

願わくば、チームが周囲の雑音と、自分たちのやっていることへの不信でみづからを弱くしないように。

まぁ、プレビュウどおりのゲームではありましたが、平川 怜が基底まで降りて、組み立てのスタート地点をこなせるのなら、いっそのこと4バックにしてしまったらどうか?、と考えますけれどね。

3バックは、攻撃的に運用しないと、5バックにしての守備意識ばかりが顕著になって、攻撃に厚みは出ない、それが山雅の現状ではないでしょうか?

得点を求める一心で、こんなことを思っております。

では。

そこにいるか!? と言わせておくれ (東京V戦プレビュウ)

〈ヴェルディの不変性〉
ヴェルディとは、7月3日だから、約2箇月ちょっと前に戦ったばかり。

その後、監督は変わった(9月1日付け、永井 秀樹氏⇒堀 孝史氏) けれど、サッカースタイルはそれほど変わってはいまい、とタカを括っているのが、ホンネ。

しかも、戸島も浜崎も、契約上出て来ない

山雅に敗戦した7/3以降、ヴェルディには、ここ8戦勝ちが無い。

とはいうものの、ここまで28ゲームを消化して、無得点だったのは、わづかに 6つ。 *ちなみに、山雅の無得点試合は 15です!

〈得点力=攻撃力〉に溢れたサッカー、は不変なのだ。
※総得点では、現在リーグ 6位。

ボール保持に長けたプレイヤーを配置し、前節のサンガほどに密集を作って迫ってくることはないものの、エレガントな、虚を衝くようなパスワークで相手守備を切り裂いて来る。

スペースからスペースへと人が入ってきて、オシャレなパスが飛び交う、って感じ。

そして、ペナルティエリアに侵入すると、ショートなパス交換を繰り出してゴールを奪う。

それだけ優秀な攻撃を有していながら、戦績が思わしくないのは、結局、守備がイマイチ、ということなのかね。

〈そんなヴェルディだからこそ……中盤を〉
ボール支配ではおそらく、 平均で 55 : 45 くらいで優位に立たれるのは必定。
時間帯によっては、70%を保持されることを覚悟せよ。

ところが、攻撃的で、ボールを持ちたいヴェルディが相手だからこそ、山雅の側に勝機がある、と診ています。

今の山雅は、カウンター攻撃一辺倒をめざしているわけでもないけれど、相手がボールを持った立ち位置からスタートする、ってのがやはり腰が据わるゲームの進め方だ。

できれば、前線ツートップとして、相手センターバックに対して同数の格好で喰らいついてもらいたい。

たとえワントップにするにせよ、肝は、その後方からの、こちら陣形が間延びしないような押し上げ。

中盤を制することの価値は、この点に存します。

公式ページ上、ヴェルディ戦の告知コラムには、#24平川 怜がフューチャーされた。

これは、かつてのホームスタジアム(FC東京の)に凱旋、といった意味合いがあるだろう。

平川にしてみれば、今節出場なれば、昨年12月以来の味スタ。

であるなら、昨季トップリーグでは、3試合で 計7分間だけの出場、というウップンを晴らす絶好の機会ではないか。

なにせ、山雅では今季、11試合 553分間の出場を積んでいるのだから。

平川の技術の高さには瞠目するが、プレイの鋭さ、中盤で追い込む迫力はいまひとつ。

たとえば、安東 輝に比べると、どうしても見劣りしてしまうのが事実。

だから、彼には、ボランチとして攻守の起点となって、

― あぁ、そこにいるの!?、と感嘆してしまうようなポジション取り、それと、前線のプレイヤーを上手く使うこと、そこを追求してもらいたい、と願う。

単に、佐藤 和弘の周囲にあって、ボールを縫うがごとくにつなげるばかりではなく、縦に機敏なスルーパス供給に精を出す、そんなことでしょうか。

……、というわけで、出来上がりつつある前線の連携と躍動、ここに、中盤での制圧力をさらに加えることで、ヴェルディを粉砕しよう、というご相談でした。

〈使えるもの はなんでも利用せよ〉
最後に。

芳しくないアウェイ8連戦をようやく切り上げ、これからホーム3連戦の初戦にあって、きっと増すであろうチーム・ヴェルディの高揚感と決意。

それを空回りさせる老獪なやり方、ゲーム運びも一考すべきでしょう。

リーグ戦も、残り3分の1 。

これからの 5試合をどう切り抜けるかで、残り10ゲームでの残留競争がまったく違ったものになってしまうことを覚悟しつつ……。

では。

生みの親は サンガ (2021.9.07 京都戦レビュウ)

2度先行しながらも、2度追いつかれて、2 – 2 のドロー。

娘によれば、得点経過をみる限りは、上々の出来、との評価。

とにかく、昨夜のアルウィンは得点に飢えていたんだから、公式戦280分ぶりのゴールに沸いた、沸いた。

チーム全体には、前へ前へと進む姿勢が満ちていて、
ボールにせよ、ゴールにせよ、取られても取り返す意思と行動を続けたこと、これが、観ていて何よりも大きな喜びでありました。

イエローカードが全部で5枚と多く、ジャッジの基準が少々不透明な感はあったが、それだけ両方が、切羽詰まった戦いをしていた、ということでしょうか。

最下位近くに沈んでチームと各プレイヤーがトコトン追い詰められた、という事情もあったでしょうが、
山雅をこれだけシャキっとさせた最大の要因は、サンガのサッカーそのものに在った、と考えます。

キックオフの笛があって、キックオフのボールが常田に下げられた、あのシーン。

京都FW宮吉は、猛然と襲いかかって、ブロックしたボールはゴールラインを割る。

以降、京都のプレイヤーが同じ必死と強さで球際を制しようとやってくれば、そりゃあ、こちらとしても、チンタラとボールを動かす余裕などなくて、

ボールを握ったら、とにかく時間と手数をかけずにスペースを見い出してゴールに迫る、それが活路だった、と言える。

要は、ためらいもなくサッカーをせざるを得なかった。

つまり、強いられた結果として、それを90分間続けた。

― というのが真相だったにせよ、できたことに変わりはないんだから、みづからつかみ取った結果であり、今後の浮上への布石、と思えば良い。

そこに予期せぬ成功があったならば、今度は、その成功を再現することに集中しようではありませんか。

〈守備面〉
そのサッカーが磨かれている分、京都の強みは、ある程度明確。

ピーター ウタカにボールが収まる前後、加えて、ヨルデ バイスからの切り裂くような必殺パスおよびサイドチェンジ用の飛び道具、これらにはまぁまぁ破綻なく手当てできていた。

とすれば、後は、サイドをえぐられることへの対策、これの徹底でしょう。

昨夜の2失点ともが、ほとんどフリーで上げられたクロスが起点になっているわけで、センターバックとサイドバック間のマークの受け渡し、それと、カットインしてくる3番手を抑圧するボランチあたりへの割り当て、これをもっと明確にしておくこと。

〈攻撃面〉
磐田戦に比べれば、#10セルジ―ニョは、ずいぶん高い位置でプレイできるようになった。
彼にボールが入れば、なにか創造的シーンが生まれることは間違いなく、できるだけ前線でそのシーンを作ってもらいたい、昨夜のように。

あとは、そのセルジ―ニョともうひとりの#10候補 山口 一真が共存する時間の最大化が、ひとつ。

つぎに、現状〈アディショナルタイムの男〉に甘んじている、田中パウロ活用の極大化、でありましょうか、萬年的には。

最後に、くれぐれも安東 輝の怪我が軽くありますように、と祈りつつ。

では。

求む! ためらいなきサッカー (@京都戦)

家人、直近の嘆き。

― 降格にでもなったら、あなた達は他のクラブへ移ればいいんでしょうが、こっちは、山雅を乗り換えられないのよ。

まぁ、それも一理ある。

が、もうそろそろ、来季戦力構想外のプレイヤーにはその旨伝えられ始めるんだろうから、お互い様の部分もあるんじゃあないか?

さて、前節(9/4)。
甲府の地で、サンガは 0 – 3 で敗れ、結果、どこかのチームに大勝した磐田に首位を明け渡している。

ハイライト映像を観たら、どしゃぶりの雨を衝いた甲府の、スピードに満ちた攻撃にやられまくった、という感じ。

チームは、一旦京都に帰って、昨日には来松の、中2日の忙しい移動をやりくりしているのか?

日程的には他人事でもない山雅であるから、フレッシュさの点で、登録メンバーの人選は慎重におこないたいところだ。

ゲームプレビュウならば、8/13の投稿から、両者の立ち位置にそれ以降大きな変化があるわけではないので、詳しいことはそれを読んでいただければ幸いです。

要は、遊びもなく、休むことなく、長短織り交ぜながら、どこからでも必殺のボールが、天地かまわず強力なフォワード陣めがけて入ったり、あるいは、ミドルシュートがペナルティエリアを侵してくる ―  それがサンガの真骨頂なんであります。

これに対して、我がチームに過分な注文をする気にもなれないけれど、ひとつだけ。

攻撃スピードの欠如、というか、前へ向かう場面での無用な息継ぎ(ノッキング)。

それの原因と思われる、攻撃時に散見される逡巡と、離れ過ぎたり、時にかぶり過ぎたりの、プレイヤーの距離感の悪さ、その修正をみたいものです。

実は、あとひとつの期待があるんですが、こっちは、すぐにはできないか。

それは、〈誘うディフェンス〉。
球際に緩い、という定義は、単にボールホルダーに向かっていかないということではなく、ただただ追従的で正直な守りに徹してしまっている、ということではありませんかねぇ。

相手の攻撃陣に、意識的にスキを与えて、喰いつかせることで、当方に都合のよいエリアへボールを出していく。
これの好見本が、たとえば、大分だったり、タイプは違うけれどヴェルディだったり。

いまのセンタバックのセットには、無理な注文かも知れないが、大量失点のひとつの要因は、狡猾さの無い守備にあると思えてなりません。

攻撃を組み立てる際、たまに〈こすい〉パス回しはするんですが、まだ萌芽レベル。

下がってガチガチに固めて守るスタイルに固執するのでなければ、どうしても踏破したいステップでしょう。

ならば、すぐできることとしては、前線プレイヤーのよるファーストディフェンスの工夫。

パスコースを限定するといった連動性で、相手のボールの出しどころを窮屈にする、それが現実的な方策でありましょうか?

ところで、どういう因果か、明日は非番。

ゆえに今夜は、帰宅時間を気にもせず、アルウィンにおります。

では。

謳う資格を とやかく言うな (ラグビー代表アンセムに寄せて)

2019年の、列島をおおったラグビー観戦熱は、一体どこへ行ってしまったのか?
…とは、ある先輩の言葉。

― 町内会の役員会ね、ラグビー中継をTV観戦するとかで、議題消化もそぞろに散開ですよ、ったく。

と、当時、近所の山雅サポーター(役員のひとり) から愚痴を聞いたことがある。

地方都市の、そのまた辺境に住むオッサンや爺さまを虜にするなんて、サッカーのナショナルチームでもなかなかできないのに。

……、そう思っていたら、どうもラグビー業界は、ここ2年を、次なる始動のアイドリングの時期に当てていた模様。

この4月には、日本代表メンバー(候補)が招集されて、6、7月には国際マッチがおこなわれた、と聞く。(いままで知りませんでした)

更に、この7月に、来年1月に開幕する2022季国内リーグは新装なってご登場、とのリリースがあった。

18年間運営してきた、ジャパンラグビートップリーグ(TL)に替えて、〈ジャパン  ラグビー リーグ ワン〉(Japan Rugby League One)に再編される。

参入チームの呼称も変わり、24チームが 3つのディビジョンに分かれて、総当たりのリーグ戦をおこなう。

デビジョン1に 12チーム、ディビジョン2と3には 各6チーム、と頭でっかちの構成。

(どのチームをどのデビジョンへ編入するかの評価は非公開だったようで、ここら辺、かなり急いだ仕事の感がありあり)

いくら名前や体裁を変えてみたところで、すべてのチームが、100%企業のラグビー部である実体には変化がない。

したがって、ホーム&アウェイ方式を採用し、地元の結束(One!)と一体感の醸成、と謳ったところで、8割方のチームが、首都圏に集中している現況。

このあたりの事情を突破してリーグを盛り上げていかないと、その先にあるナショナルチームの活況も生まれない、そんなふうに診ています。

ラグビー合宿の聖地、菅平高原を近くに擁する上田市さんよ。

ここはひとつ、、この先、プロ化に進みたいであろうラグビー協会に取り入って、年間を通じた特定チームの招聘プログラム(準本拠地化)なんかを画策してみたらどんなもんでしょう?

さて、極東の某国などまだまだ及ばない伝統と実績を誇るのが、イングランド。(この競技の祖国ですから、当たり前?)

ここのナショナルチームのゲームアンセムとして歌われるのが、
『Swing Low, Sweet Chariot』(静かに揺れよ 愛しい馬車よ)

この曲はもともと、19世紀後半にブラックアメリカンのグループが広めた、ゴスペルの名曲。

イングランドのファンが採用した詳細は知らないが、1980年代から、このならわしが定着したようだ。


靜かに揺れよ 愛しい馬車※よ
故郷に戻るため 私を迎えに来ておくれ (この2行が歌詞の中繰り返される)

ヨルダン川の向こうに  何を見たかって?
それは  私に従い来る 天使の軍勢 

友よ 先に  たどり着いたなら
私も来ると 皆に告げておくれ

時には浮かび 時には沈むのが人の世
けれど魂は いつも 天を目指すのさ

輝かしい日が 来れば きっと
救い主が  私の罪を洗い流してくださるだろう……

旧約聖書、列王記下 2章11節。
預言者エリヤは、弟子エリシャの眼前で、火の馬が曳く戦車に乗って天に昇っていった。死を経ずして天に挙げられた、という。

※馬車(チャリオット)とは、馬に曳かせた戦車のこと。映画『ベンハー』には、この戦車によるレースが描かれている。

キリスト教の中で育った者なら、この曲の詞がこの出来事を下敷きにしていることはわかり切ったことだから、イングランドの人々は違和感なく受け入れたはず。

ところが、2年ほど前になって、イングランドラグビー協会は、同国のラグビーファンは、この曲の、由来や歴史的な背景を忘れ去って使用しているので、使用の是非について調査する、との声明を発した。

要は、奴隷としての苛酷な境遇からの救済を求めて生まれ、歌われてきたという事情に配慮もせずに使うのは、いかがなものか?、という提議か。

ここには、かつて宗主国として奴隷制度に深くかかわったという、加害者の自責心が在ることは確か。

時流に乗った提案、とは言える。

けれど、この論法でいくと、この曲を歌えるのは、アフリカなどからやって来た奴隷の子孫のみ、となってしまうし、奴隷制度糾弾の観点からしか、曲を扱えなくなりはしまいか?

曲なんてもの、一度世に出たら誰のものでもない共有な財産だろう。(著作権関係の話は別にして)

まぁ、クリスチャンでもなく、奴隷制度とは無縁と思っている東アジアの端っこに住む黄色民族は、二重の意味で、こういう事案には、いつも無頓着。

だから、某Jクラブのファンサポーターが、この曲をアンセムとして何の違和感もなく取り入れる。

無知なる者の幸福、ってことでしょう。

では。