脱兎を追い、そして狩る (金沢戦プレビュウ)

今年も、金木犀の芳香が庭にやって来た。

開花した月曜日(9/28)のことだ。

職場でソネさんに会ったら、彼が、
―監督交代になりましたね。
琉球戦の結果が決定打だったんでしょうが、降格もないシーズンなので、一年間は任せても良かったと思いますよ。
反さんのときは、あれだけ引っ張ったんですし。……、とのご意見であった。

萬年は、ソネさんの意見にかなり近い考えを持つ。
ましてや、変則的なシーズン途中で、そんなに上手く後任の選定ができるのかいな?

特に、前監督にとっては、やりくりできるメンツ(プレイヤー)が、怪我でなかなか揃わないのは気の毒であった。

〈走る兎以上に走れ〉
橋内 優也ひとりで山雅のディフェンスラインがもっているわけでもないが、彼の復帰があと一節早かったならば……、とは思う。

橋内が 50mを5秒台で走る、ということはあまり触れられないけれど、その疾走は、ディフェンス全体にかなり寄与している。

前節徳島戦では、FW垣田の裏抜けをほぼ完璧に抑え込んでいたのが、その証明。

で、今夜は、その垣田が昨季までプレイしたツエ―ゲンとの対戦だ。

このゲームでも、橋内のスピードと守備範囲の広さは、やはり大きな武器になるだろう。

徳島戦をみる限り、3バックを採る可能性が高く、右から橋内、森下、常田の並びか?

ツエ―ゲンの身上は、速く、手早く攻撃をやり切るにある。

ボール保持にこだわらず、ゆっくり攻撃を組み立てる、なんてことは放棄して、ひたすら前にボールを動かせ、これだ。

自然、中盤で使うボールも比較的に長くなる。
最後は、FWの杉浦 恭平、加藤 陸次樹(9得点のリーグランキング4位) らにショートなパスでボールを当てて、シュート。
(昨季だと、ここのポジションを垣田や小松 蓮が担った)

左サイドの脅威だった加藤 大樹(山形へ)や沼田 圭吾(琉球へ)は去ったものの、
島津(左)、窪田(右)といった若い世代が一気に抬頭している両サイドはかなり厄介な、クロスの起点だ。

守備面ではゆえに、前線へのプレイヤーとボールの動き出しを自由にさせないことと、サイドを簡単に割らせない、このふたつがポイント。

逃げる金沢ラビットを、先回りして抑え込んでしまえ、チーターのごとくに。

他方、攻撃はそれなりに整理されていて、あとは我慢して決めきる、そんなところ。

サイドで相手を押し込んでしまうには、右は中美 慶哉とアウグスト、左は山本 龍平と山本 真希をセットで投入してしまうくらいで良い。

なぜならば、彼らのプレイは、それ自体が明確なメッセージをチーム内に発信していて、チーム全体で前を向く気持ちを高める助けになっている、と思うから。

さて、先週水曜日のアルウィン入場者は、3,700人。

平日のナイトゲームとしては、この状況下、かなり期待値の高さを物語る数値だった。

そこで冷水を浴びせられ、そして、一週間の変転を挟んだ今宵。
本日の入場者数には、かなり注目しています、実は。

(実際は、上限14,000人に緩和されているはずの)このゲームこそで、
山雅ファンサポーターは、今なにかを示さないといけないんじゃあないか?

もちろん、チームにはそれなりの内容で魅せてもらいたいけれど、前節互角以上に持ち堪えた相手は、たかだか主力を温存した徳島だった。

ひとっ跳びな好転は、ゆえに幻想。
ただただ、ひたむきなチャレンジャーとして闘争せよ。

では、アルウィンで。

自問自答ばかりのゲーム (2020.9.26 徳島戦レビュウ)

柴田新監督率いる初ゲームは、アウェイの地で追いついて、1 – 1 のドロー。

あれだけ事態が激しく動いた2日間があっても、いざゲームが来ると、手放しでワクワク感が高まる。
なんと享楽を求めるファン心理であることか、と自分に呆れながら、DAZNを操作していた。

〈ゲーム評〉 
まづは、DAZNの布陣予想を裏切り、
徳島は、4 – 2 – 3 – 1、対して山雅は、3 – 4 – 3 を採用。
これには笑った。DAZNの解説、なにやってんだ。

両指揮官の、相手の意表を衝こうとする策が一致して、ミラーゲームが回避されてしまうとは。 (ただし、ゲームでは流動的に動く徳島にとっての意義は薄い)

ボランチセットをそっくり入れ替えてきたロドリゲス氏、連戦の疲弊対策、と答えていたが、山雅戦で主力を休ませたい意図が透けていた。

前回対戦の出来からすれば、山雅とやったら、勝ち点を貯金できる、と踏んだんだろう。

となれば、いっそ、〈山雅銀行〉の仮面の下で後半戦を闘うのが、相手の油断につけ込めるのではないか。

山雅銀行、なかなか良い響き。

同様に、『今の山雅に、負けるなんてあり得ない』のキャッチコピーもおおいに利用しようか。

さて、ボランチの岩尾がベンチだったぶん狡猾さを欠くけれど、徳島はやはり徳島。

GKあたりからボールを繋ぐことで相手を誘い、前に引き込んでおいて一気にワイドに縦へ展開して決めきるスタイルが強固。  (大分の廉価ヴァージョン)

対し、山雅はファーストディフェンスを、突っ込んだり緩めたりと上手くコントロールしつつ、出足と球際の鋭さで、徳島の攻撃をサイドに追いやってフタをする。
決定的なシーンはほとんどなく、ほぼ自分たち主導でゲームができていた。

徳島があれだけカードを落してくれば当然でもあるが、この程度が昇格圏チームの容貌なんだから、このリーグは似たり寄ったりな力量の背比べ。

あの失点は、CKで入ってきたボールに競らずに相手にヘディングを許したところで既に決まっていた。ゾーンディフェンスの限界ですな。

〈自問自答のいくつかを〉
ゲームを追いながら、頭の中、グルグルと弄んでいたことは、こうだ。

❶橋内、高橋 諒が怪我から復帰したことは、チームに相当な優位を与えた。
このふたりを加えていれば、前節琉球戦の惨敗スコアはほとんど考えにくい。
となると、解任のスイッチは入らなかったわけ?

❷なんせ一日一緒に練習しただけなもので ― こういうことを公けの場で飄々と語る柴田氏は好きなんだが、前節からメンバーをガラリと変えてもおらず、やってるサッカーに大きな変動はない

指揮官交代だけで、出足、球際が格段に違ってくるんだったら、それこそ、安直な気持ちの転向、というもんだろう。

だったら、監督が変わらなくても、やってくれよ、息吹。
ためらいも消えて、昨夜が見違えるほどだったから、敢えて、言うけれど。

❸徳島の誘いに乗らず、しかも効果的に追い込みボール奪取を図る、その戦術がそこそこハマったくらいで、山雅らしさが戻った?

この〈らしさ〉、多分に印象論であって、かりに強度(インテンシティ)の高いことを指すにしても、すべてを、意思と決意でくくってしまうのはどうか?

らしさ、であるならば、本来監督が誰であっても表現されるのが普通でしょう。
でなければ、そのらしさこそが、つけ付け焼刃のDNAだった、ってこと。

次節、金沢戦の結果次第で、手の平返しの批判をするなよ、ってことです。

❹……、2015年トップリーグ初昇格をした年初、目標は、ACL出場(リーグ4位以内)と公言した柴田氏。
こういう個性はなかなか面白く、指揮内容も愉しみになるが、「責任を感じている」(公式リリース)内容は、つなぎ政権をやりくりすることではなくて、こういうカード(プレイヤー)を揃えたうえで、監督に託したことであるはず。

そこらへんのプレイヤーの出し入れは、どう総括するんだ?

❺結局、長期を視野に入れた指揮官の登場、という第二幕を待つのか……。
ルビコンを渡る、というのはけっこう時間を要するわけで、リーグ後半はまた積み上げ作業で手一杯かいな。

ま、楽しみに見守りますがね。

その際、育成と強化、という訳のわからんミッションはもう言わぬほうが良い。

山本 龍平、大野 佑哉らの成長をみていると、軽々に使ってはいけない言葉だと強く感じます。

つまり、育成と強化といった二極の図式で考えることが無意味。

それは、単純に年齢でプレイヤーを区別することの裏返しでもあって、若返り、なんてことも軽々しく口に出してはいけない。

育成していない強化、なんてのはチームづくりとしてあり得ない、ってことがクラブトップの頭に叩き込まれないと、この先、カード(プレイヤー)を獲っては捨ての繰り返しになりますよ。

年齢経験、レンタル生え抜きを問わず、すべては競争による定位置奪取、これを全うすべきではありませんかね。

では。

正直な自分 を披露せよ! (徳島戦プレビュウ)

ニュースも知らなかった家人の携帯に、青森県の身内から、
―山雅、布監督解任なんですってね?、とメールが入っている有り様。

ラインメール青森をさしおいてでも、山雅について、いろいろと気づかってくれるご親族は、まことにありがたい。

リーグ戦半ばでの解職は、布氏、羽田氏(コーチ)ともに、その無念は察するにあまりある。

まづは、御二方のご尽力に、この場を借りて深く感謝します。

就任時の約束事や内部事情(不協和音?)などをまったく知り得ない萬年は、その逼迫性や妥当性について、発言のしようがないのがホンネ。

とは言え、繰り返しをおそれず、以下だけは記しておこう。

企業であるからには、存続のため、収入減に直結するようなスポンサーや株主の離反を回避しなくてはならない。
布体制に対して、利害関係筋から強烈なクレームでも舞い込んでいたのか?

降格ホヤホヤのシーズン当初で、来年はトップリーグ復帰、という目標を掲げるのはきわめて自然のことなんだろうが、
コロナ禍のなか、思うようにアルウィンに戻ってこないファンサポーターの動向を、すべて戦績の低迷の所為にするとしたら、それはチョット違うだろう、とは思う。

入場制限数まで迫るように集う見守りが、ファンサポーターもクラブも、ちっとも実現できていないのだから、解任についての論評に少しは遠慮がなければおかしい。

かつかつの舵取りでやって来た数年間を、いつしか真の実力と錯覚するような勘違いはなかったのか、どうか?
2016年と2017年の昇格失敗や、雌伏の年月も忘れたのか?
ここぞという時の勝負弱さは、今季になって始まったわけでもあるまいに。

山雅の存在意義は、どのディビジョンで闘っていようとも、アルウィンがいつも観衆で埋め尽くされ、ご当地の生活の中に松本山雅が根づくことであるはず。

J2における上位とトップリーグ参戦は、二の次ぐらいのオマケのご褒美ではなかったのか?

今回の解任が、初心のヴィジョンに立った上での判断であることを、ただただ望むばかりです。

ただね、いちばん気に喰わないのは、解任のリリースに「理由」が明示されていないこと。
これは、いただけませんぞ。
そもそも作文の体をなしていないね。

職を解かれた御方が、成績を上げることができずに申し訳ない、と述べているので、リーグ戦の低迷が原因だろうと推定はできるものの、クラブとしてキチンとみづから説明すべきこと。

この状況をみたらわかるでしょ?、と言っているようなもので、読む側に非礼。

どこぞのメディアに事前リークしておいて記事を書かせ、しかも、その記事で代用するようなことをしてはいけない。
(註:後になって会社トップによる報道対応を追加しているけれど、それはそれ。あくまでもファンサポーターに直接語るべし)

 

さて、おかまいなしにリーグ戦は続き、ゲームは次から次へとやって来る。
本日は阿波国で、徳島ヴォルティスと戦う山雅。

先の対戦はわづかひと月前のことであり、片方の監督が変わったこと以外には、両者のサッカーに大きな変遷がありもしない。

前節の琉球のサッカーを、もっと深みのある体勢で、より巧緻に仕掛けてくる徳島。

ボランチが最下辺のラインに降りて、3バックを形成し、それより前方に攻撃力をワイドかつアグレッシブに展開してくる練度高きスタイル。

1 – 3 でねじ伏せられた前回対戦(8/29)のお返し、とか力んでみても無意味。

新任の指導者を支持して、今持っていると自分たちが信じられる強みを、勇気を持って表現する、それに徹することだ。

自分を偽らず、怖れる自分に克つ、これこそが 残った9月の暮らし方でしょう。

勝敗などは、自然についてくるんですから。

では。

【再掲】もはや背信… (2020.9.23 FC琉球戦レビュウ)

(註: 故あって 2020.924の記事の再投稿であることをご諒承あれ)

…に等しいゲーム、という声が、おそらく内外から湧きあがるんでしょうが、

みづからのサッカーをやり遂げたチームが、(結果として)準備と行動にまったく不足したチームに勝利したのだから、勝負の世界では、あるべきまっとうな姿に過ぎない。

大騒ぎするんだったら、せいぜい昨夜のチケット代を返せ、だろう。

だから、FC琉球のプレイヤーこそを、最大の献辞で称賛したいと思う。
萬年プレビュウにおける危惧をことごとく具現化したことにおいて。

ただ、6 – 1 の 壊れたようなスコアを叩き出しちゃったもんだから、アウェイの地という事情もあってか、チームに激烈な歓喜表現もなくなってしまったのは、かえって申し訳ないことではあった。
(ロッカールームや、帰途のバスの騒ぎは知らない)

ゴールした都度、琉球のプレイヤーの挙動には、この程度の相手ならば得点して当たり前、といった趣きがあったことは確かで、そういう部分にチームスタイルの一貫性と自信をみました。

大宮を 5 – 0 で下したのがフェイクでないことを、昨夜、山雅が逆証明できたのか?
これが、残念ながら、少々疑問であることは、下に述べたい。

繰り返しになるけれど、彼我が、数年前まで、あるいは、昨季はどのリーグにいた、というような無用な色眼鏡をそろそろ外さないといけません。

つまり、過去はどうあれ、負けるべくして負ける現在地を受け入れないと。

我がチームを、いったい何様と思っているのか?、
手練手管で切り抜けて来たことを、自分の実力と勘違いしちゃった、かね。

ここを自省しないと、おそらく無駄な落胆と議論を重ねるだけだろうなぁ。

さて、負けるべくして負けた山雅に目を向ける。
〈昨夜のサッカーを戯れに示すと……〉
ミスは一流。臆病、二流。
三、四がなくて、守備五流。、そんなところか。

アルウィンに居た身として、これこそが実感!

❶チームとしての意思疎通と連動のこなれ感が希薄で、それがパスミスを多発。

守備や、組み立てに関する約束事が、どうしてもこちらに伝わってこない。
一体、なにを徹底してやりたいのか?
攻撃は、せいぜい ふたりでなんとかやってくれ、みたいな様相になって、単発感、場当たり的なパスにみえるんですよね。

特に驚いたのは、3失点目を喫した直後、GK村山が数人のプレイヤーを集めてなにかの調整を仕掛けたこと。

ゲーム中の修正といえば聞こえはいいが、それってゲームの前に終わらせておくことだろうに、という雰囲気がありありで、なんとも痛々しい。

❷突破されることを怖れてだろうか、ボール際にチキンと迫らないので無様にはがされる。
相手の先手先手を一向に阻止できないので、振り回されては、クサビのパスやサイドチェンジをやすやすと成立させる。

チーム全体から地滑り的にチャレンジと覇気が消え失せてしまうと、観客席からは、(怒りを通り越した)失笑が漏れてきた。

(手)拍手しか許されず、(たとえ鼓舞するものであっても)ヤジや罵声が禁止されると、最後は、失笑や、憐憫の苦笑になるのは、人間性の自然ななりゆき。

〈スコアは、本質なんかじゃあない〉
戦術的な側面にも目を投じよう。

0 – 3 で終えた前半の出来を挽回すべく、後半開始に、指揮官は 4枚替えを敢行。

左右のサイドバック、ボランチひとり、左アウトサイドハーフの 4人。
さらに、ラスト20分に、ボランチ(米原→山本 真希)ひとり で計5枚。

この交代によって、サイド攻撃はかなり活性化され、ボランチの奪取機能も上向きになったかも知れないが、テコ入れすべき最重要点には手が入っていない。

その証拠に、前半同様、後半だって3失点なんだから、交代策が十全に機能していないか、ピッチに残したカードのプレイにカイゼンがなかったということ。

要は、センターバックのところ。
この場合、乾 を残すべきであった。
リスクを冒してもサイドバックが駆け上がらねばならぬ状況の時、センターバックふたりの連携には特段の意を払うべきであるから、常田―大野のセットは明らかに悪手と考える。

もっと言えば、誰がピッチに在ったにせよ、ディフェンス網を敷く場合、誰が誰を捕まえるのか、そこの部分が出来ていないように思われて仕方がない。
逆に言うと、最終ラインでボールを我が物にして、さぁ、これから反転、という組み立ての決め事、これがどうか、ってことです。

アプローチされると怖気づいて、ボールをまづは手近な味方に渡してしまうような安易と無責任さに、スタジアムが気づいていないとでも思っているんだろうか。

……、以上、チーム総体の意思疎通、戦術的な側面を述べた。

観ている側の感情に沿ってみても、もしも、昨夜の最終スコアが、0 – 3、あるいは、1 – 3 であったと仮定しても、まったくもってゲームを創れなかった内容に対しての不満は、かなり切実であった、と思いますよ。

先失点(造語)を、20分近くまで我慢できたこと、龍平と真希の両山本にはプレイに気概を感じたこと、不甲斐ないゲームへのセルジ―ニョの憤懣。
さらに、明後日には次のゲームが来てしまうので、落胆に沈潜する暇もないこと。

―この 4 点にわづかな希望を見い出した、昨夜。

セルジ―ニョと村山のキレることにはまったく同意。
というわけで、ゲームの拍手は控えました。

なぜなら、拍手でもした日には、彼らの本気を愚弄することになりますからね。

では。

もはや背信… (2020.9.23 FC琉球戦レビュウ)

…に等しいゲーム、という声が、おそらく内外から湧きあがるんでしょうが、

みづからのサッカーをやり遂げたチームが、(結果として)準備と行動にまったく不足したチームに勝利したのだから、勝負の世界では、あるべきまっとうな姿に過ぎない。

大騒ぎするんだったら、せいぜい昨夜のチケット代を返せ、だろう。

だから、FC琉球のプレイヤーこそを、最大の献辞で称賛したいと思う。
萬年プレビュウにおける危惧をことごとく具現化したことにおいて。

ただ、6 – 1 の 壊れたようなスコアを叩き出しちゃったもんだから、アウェイの地という事情もあってか、チームに激烈な歓喜表現もなくなってしまったのは、かえって申し訳ないことではあった。
(ロッカールームや、帰途のバスの騒ぎは知らない)

ゴールした都度、琉球のプレイヤーの挙動には、この程度の相手ならば得点して当たり前、といった趣きがあったことは確かで、そういう部分にチームスタイルの一貫性と自信をみました。

大宮を 5 – 0 で下したのがフェイクでないことを、昨夜、山雅が逆証明できたのか?
これが、残念ながら、少々疑問であることは、下に述べたい。

繰り返しになるけれど、彼我が、数年前まで、あるいは、昨季はどのリーグにいた、というような無用な色眼鏡をそろそろ外さないといけません。

つまり、過去はどうあれ、負けるべくして負ける現在地を受け入れないと。

我がチームを、いったい何様と思っているのか?、
手練手管で切り抜けて来たことを、自分の実力と勘違いしちゃった、かね。

ここを自省しないと、おそらく無駄な落胆と議論を重ねるだけだろうなぁ。

さて、負けるべくして負けた山雅に目を向ける。
〈昨夜のサッカーを戯れに示すと……〉
ミスは一流。臆病、二流。
三、四がなくて、守備五流。、そんなところか。

アルウィンに居た身として、これこそが実感!

❶チームとしての意思疎通と連動のこなれ感が希薄で、それがパスミスを多発。

守備や、組み立てに関する約束事が、どうしてもこちらに伝わってこない。
一体、なにを徹底してやりたいのか?
攻撃は、せいぜい ふたりでなんとかやってくれ、みたいな様相になって、単発感、場当たり的なパスにみえるんですよね。

特に驚いたのは、3失点目を喫した直後、GK村山が数人のプレイヤーを集めてなにかの調整を仕掛けたこと。

ゲーム中の修正といえば聞こえはいいが、それってゲームの前に終わらせておくことだろうに、という雰囲気がありありで、なんとも痛々しい。

❷突破されることを怖れてだろうか、ボール際にチキンと迫らないので無様にはがされる。
相手の先手先手を一向に阻止できないので、振り回されては、クサビのパスやサイドチェンジをやすやすと成立させる。

チーム全体から地滑り的にチャレンジと覇気が消え失せてしまうと、観客席からは、(怒りを通り越した)失笑が漏れてきた。

(手)拍手しか許されず、(たとえ鼓舞するものであっても)ヤジや罵声が禁止されると、最後は、失笑や、憐憫の苦笑になるのは、人間性の自然ななりゆき。

〈スコアは、本質なんかじゃあない〉
戦術的な側面にも目を投じよう。

0 – 3 で終えた前半の出来を挽回すべく、後半開始に、指揮官は 4枚替えを敢行。

左右のサイドバック、ボランチひとり、左アウトサイドハーフの 4人。
さらに、ラスト20分に、ボランチ(米原→山本 真希)ひとり で計5枚。

この交代によって、サイド攻撃はかなり活性化され、ボランチの奪取機能も上向きになったかも知れないが、テコ入れすべき最重要点には手が入っていない。

その証拠に、前半同様、後半だって3失点なんだから、交代策が十全に機能していないか、ピッチに残したカードのプレイにカイゼンがなかったということ。

要は、センターバックのところ。
この場合、乾 を残すべきであった。
リスクを冒してもサイドバックが駆け上がらねばならぬ状況の時、センターバックふたりの連携には特段の意を払うべきであるから、常田―大野のセットは明らかに悪手と考える。

もっと言えば、誰がピッチに在ったにせよ、ディフェンス網を敷く場合、誰が誰を捕まえるのか、そこの部分が出来ていないように思われて仕方がない。
逆に言うと、最終ラインでボールを我が物にして、さぁ、これから反転、という組み立ての決め事、これがどうか、ってことです。

アプローチされると怖気づいて、ボールをまづは手近な味方に渡してしまうような安易と無責任さに、スタジアムが気づいていないとでも思っているんだろうか。

……、以上、チーム総体の意思疎通、戦術的な側面を述べた。

観ている側の感情に沿ってみても、もしも、昨夜の最終スコアが、0 – 3、あるいは、1 – 3 であったと仮定しても、まったくもってゲームを創れなかった内容に対しての不満は、かなり切実であった、と思いますよ。

先失点(造語)を、20分近くまで我慢できたこと、龍平と真希の両山本にはプレイに気概を感じたこと、不甲斐ないゲームへのセルジ―ニョの憤懣。
さらに、明後日には次のゲームが来てしまうので、落胆に沈潜する暇もないこと。

―この 4 点にわづかな希望を見い出した、昨夜。

セルジ―ニョと村山のキレることにはまったく同意。
というわけで、ゲームの拍手は控えました。

なぜなら、拍手でもした日には、彼らの本気を愚弄することになりますからね。

では。