天国と地獄 その続き…… 『Hotel California』

4/12の記事中、This world Can be A Heaven、みたいな願いを記したついでの、今日のお話です。

天国と地獄、と聞けば、黒澤 明による、1963年公開の映画を想い出すお方もいらっしゃるに違いない。

仲代 達也(警部)ら捜査陣と、山崎 努(誘拐犯)の知力を尽くした対決。
特急こだま(新幹線はまだ走っていない)車内、まるで素人っぽく揺れたカメラ撮影でもたらした緊迫感。
あんた(被害者)の住んでる高台の邸宅はまるで天国、それに比べ、俺の住む処は地獄のようなもんだよ、と誘拐犯は、脅迫の電話口でつぶやく……。

つい脱線しました。

1976年に、イーグルスが発表した『Hotel California』には、

And I was thinking to myself “This could be heaven and this could be hell”
〈ここは天国かもしれないし、地獄でもあるかもな、と僕は自分に訊ねたんだ〉……の一節がある。

砂漠の、暗いハイウェイを走っていたら、遠くに煮えたぎったような光を見た。近づいてみると、そこは、ホテル カリフォルニア。
女に案内されて進んでいくと、多くの住人たちと無数の部屋。
ようこそ、ホテルカリフォルニアへ。
1969年以来、ここには酒を置いてないけれど、素敵な人々、愛すべき場所。
チェックアウトはいつでもどうぞ、けれど、あなたは出ていけない。

暗喩がちりばめられた謎解きを強いるような歌詞が続くのは、ドン マクリーンの『American Pie』(1971年)と似ていて、これこそ、クラシカルロックが生み出したおとぎ話たち、とも言えましょうか。

でも、歌詞の解き明かしは、つまるところ、解釈者の素養の浅薄が見え透いてくるばかり。
ゆえに、あまり相手にしないようがよろしいかと。

この曲であれば、不思議な歌詞をそのままに、荒涼な寂寥感を楽しめば、それでいいんでは?

では。

萬年= COVID-19 の理由。

久しく眠っていた、ルノワール氏のスキー熱が、この冬になって覚醒した。

そのきっかけは、ホームゲーム抽選に当選していただいた野麦峠スキー場のリフト券。

スキーをやらない萬年は、これを、ルノワール氏に進呈したのだった。

(ちなみに、萬年におけるホームゲーム抽選当選率は、約2% )

野麦峠が呼び水となって、シーズン直近は、はくば47 を楽しんでいらっしゃるわけ。
はくば47は、ロケーションからして、雪が遅くまで残るのだそうな。

― それとですね。コロナ騒ぎでマラソン大会が軒並み中止。
そこで浮いた資金をスキー行にまわしている寸法です、とルノワール氏。

よって、ルノ氏のスキー回帰の、根本的な理由とは、萬年とCOVID-19 のふたつ、ということになるのであって、

要は、その意味で、萬年とCOVID-19 は、彼の中にあって等価、すなわち、イコールなんでありまする。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (4/14 19:12)
萬年さんから頂いた野麦峠スキー場の無料券のおかげ様で今年はスキーを楽しむことが出来ました。
有難う御座いました
🌸が散る季節なりそろそろシーズン終了です
スキーシーズン終了後何をするか?がスキーヤーの大きなテーマですが
鹿島槍スキーヤーの
(つーさん)はじめ全国のスキーヤーはオフ📴をどのように過ごしているのでしょうか?
人それぞれだと思いますが
興味有ります
私は来月から
マラソンランナーに戻って
10月03日開催の
松本マラソンに向けて日々の練習に励みます
リフト券有難う御座いました

天国と地獄は……、『Tears In Heaven』

(以前記事の、部分的なリライトです)

……、同じような箸を使って食事をしている、というお話。

どんな箸かというと、これが1メートルもの長さがあるようなシロモノ。

地獄では、その長い箸で、ひたすら我先にと食物を口に運ぼうとするから、隣同士の腕や肘がぶつかってしまって、結局、誰もがきちんとした食事ができないでいる。

他方、天国では、食物を長い箸で、目の前に座る人の口へと運んであげるので、皆が苦労せずして、食事ができる。

この寓話、天国と地獄といった、二者択一の世界観を押しつけるのでなく、むしろ現世だって、生きようによっては天国にできるんだ、という希望を与えてくれる。

ということは、次の世に行っても、僕たちは今と同じようなことをやっているんではあるまいか、としばしば考える。

『Tears In Heaven』(天国の悲しみよ)

天国で逢ったら 僕を憶えていてくれる?
天国でも  同じようにだよ
強く 持ち堪えようとしている僕
なぜって、僕は今 天国には居ないのだから

天国で逢ったら   抱きしめてくれるかい?
僕が踏ん張れるように 助けてくれるかな
いつだって  道を探している僕
なぜって、僕は今 天国に住めないのだから

時に 君は落胆して  崩れ落ちてしまい
時に 君は絶望して  助けを乞うだろう

ドアの向こう  そんな場所を信じる僕
悲しみのない天国が  きっとある と

映画『Rush』(1992年公開)のサウンドトラック主題歌として、エリック クラプトン(1940~ )が作った曲。
これより前の半年間、クラプトンは、一切の音楽活動から遠ざかっていた。

1991年3月、4歳半だった息子が、自宅アパート(53階)の窓から誤って転落して亡くなり、その後、失意の日々を送っていたのだ。

もちろん、このエピソードを知らなくたって、この曲の価値は変わるはずもない。

では。

桜ばかりに眼を奪われて。

桜の開花ニュースばかりが伝わってくるけれど、もっと大切な兆しを見落としてはならない。

記録を調べたら、我が庭の辛夷(こぶし)は、昨年よりも20日ほど早く花をつけている。

要は、ことしの春は、ほとんどの樹木で、開花がいままでよりも半月くらいは前倒しになった、とみてよい。

半月分の、このフライング。

大自然は、寒さへの回帰によってどこかで帳尻を合わせていくのだろうか、はたまた、炎暑の夏をもっと苛酷にしてくれるのかい?

COVID-19 にとっては、どうなるのがいちばん嫌なんでしょうかねぇ。
ひとつ聴いてみたいものです。

https://youtu.be/yx0ixwh3SRE

では。

光と影の共存を (千葉戦レビュウその❸)

ゲーム評もこれで4回目にもなれば、書く本人も食傷気味。
ならば、読者にしてみたら、さぞやうんざり、かと。

まぁ、今回で締めますので、御つき合いのほどを願います。

さて、〈月影〉といえば、月の光。
〈人影〉は、人間の姿。
ここで、かげとは、光の源や光線、物体そのものを指す。

他方、〈物影〉とは、光が遮られて暗く陰になったところ。

かように、同じ言葉〈かげ〉が、光明と陰影の双方に使われるのが、日本語の絶妙さ。

光陰矢の如し、ではないが、光と影は互いにかならず寄り添うことが、僕たちの祖先にはごく自明の悟りだったんですな。

で、山雅の攻撃においても、光と影を共存させよ、というのが、その❸末尾の論旨なのでした。

ボールホルダー、あるいは、それと密接に動くプレイヤーが脚光を浴びる〈光〉とするならば、もう一方にはかならず、黒子のように、相手の注意をそらす、惑わす役割の〈影〉を引き受けるプレイヤーが必要。

クロスとは、ディフェンダーの首振り角度を最大にすることで、視野のスキを衝くやり方。

これと同様、黒子が動くことで、相手ディフェンダーの注意を拡散させるか、デイフェンダーを誘き出すことでスペースを創り出すことをしないと、堅い守備網に穴は開きません。

皆が一斉にボールに集まってもダメ、皆が同じようにボールにアプローチしてもダメ。
密集における事故のような得点ばかりを狙うなら、別ですがね。

ここらへんの陰日向の役割をキチンと与えること、引き受けること、それが、チームとしてまだまだ詰められていないのを感じます。

光と影の役割分担を、あらゆる攻撃パターンの中に織り込む。

それも、あたかもオートマティカリーに、何人かが幾重にも連動して動かないと、寄って集って来る守備の傾向があるJ2では、突破がむずかしい。

まづは堅く守ってボール奪取即カウンター、を基軸とするならば、速さ鋭さをひたすら追求すればいい。

けれど、堅守はそのままで、最終ラインから組み立てていって、どこかでスイッチを入れる攻撃に着手している以上、効果的な攻撃発動の方式に、とことんチャレンジしましょうよ。

光と影といえば、思い出すこの曲『Both Sides Now』(1968年発表、邦題「青春の光と影」)。

ジョニ ミッチェル(1943~ )らしい、プライベートな歌詞。

…loveを、与えるともらうの両方から眺めていた私。人生を勝ち負けの両側から感じている私。でも、loveや人生など、なにも悟っちゃいない……

では。