終わり方の見本『Golden Slumbers/The End』

ビートルズが、みづからを終わりにして魅せたのが、アルバム『Abbey Road』(@英国 1969年9月26日の発売)。

なによりも、曲ひとつひとつの編曲と、曲のつなげ方のアイデアが素晴らしい。

最後の最後で、― 女王陛下は素敵な女、いつかはモノにしたいもんだ― なんてことを放言する。

そんな皮肉をやってしまえるほどに、時代の寵児だったのかも知れない。

Golden Slumbers から始まって、Carry That Weight (繰り返し)へと移って、そして最後に、The End で締める大団円。

ま、一度は、原曲をゆったりと聴いてみることをお薦めします。

k.d.lang (k.d.ラング 1961年~ )は、その中野サンプラザ公演を観に行ったことがある。

たしか、90年代の半ばの頃だった。

開演早々から聴衆が立ち上がってしまうので、仕方なくその後方で立ちっぱなしのまま聴くハメになった、のを憶えている。

この歌い手のパフォーマンスには、もっとひっそり、くつろいでつき合うもんでしょうに……、と思いながら。

ここでは、Carry That Weight を省いて歌っているけれど、萬年の言わんとすることをお解りいただけるでしょう、きっと。

では。

なぜラブソングか? 『Unchained melody』

この曲、1955年に公開された映画『Unchained』(米国)のテーマソングとして作られた。

これ、刑務所を舞台にした作品。
そこから逃走して、家族との再会を果たそうとする主人公を描く。

unchained、とは解き放たれる、といった意味。
監獄につながれる囚人であることからの命名だろう。

ただ、歌詞は、長年孤独であったために会えなかった恋人への思いを綴る内容だ。
ちょっと意味不明の題名と、その生い立ちからか、気の効いた日本題がひねり出されず、ここまで来ているようです。

そしてもはや、映画はほとんど忘れ去られて、主題歌が独立して世に残る。

1965年に、ライチャス ブラザーズが取り上げて、再ヒットさせている(プロデュースはフィルスペクター)。

ちょうど、松本城下で、かの喫茶店たむろの蹴球クラブが結成された年ですな。

20世紀においてもっともカヴァーされた曲のひとつらしい。

ウエディングパーティの定番ソングのような趣きがあるが、あと4年は、著作権で稼げる模様。

今回は、サム クックのヴァージョンで。

では。

『1941』逃げる快感。

『1941』は、1979年公開の米国映画。

ヒットメイカー、スピルバーグがメガホンを取った作品なんだが、興行的には失敗した模様。
米国およびカナダにおける収入では、製作費を回収できていない。

そりぁ、そうだろう。
日本による真珠湾攻撃から6日後、今度は本土攻撃を受けるだろうという不安におびえるカルフォルニア州沿岸の街。
(時代設定は、いまからちょうど80年前のこと)

そこへ、日本海軍の潜水艦が迷い込んで始まった 一夜の惨劇(コメディです)、といったストーリーに、米国人が好感を持って接するとは思われない。

太平洋のこちら側、日本帝国海軍を有した国の子孫にとっては、けっこう面白いネタと配役ですけどね。

追っかけを筋に練り込んだ脚本で、スラスプティック(ドタバタ劇)を古典的なるままに踏襲して魅せたスピルバーグは、映画好き少年そのままのなれの果て、という感じです。

追っかけが、喜劇の手法として成り立つのは、逃げる快感を誰しもが体験しているからだろう。

鬼ごっこ、かくれんぼに熱中したご幼少の日々……。

そうしたら、ポール マッカートニイの『Band on the Run』(1973年発表)を思い出した。
監獄から脱走して、逃げ続けるバンド、という歌詞。

ちなみに、同名アルバムのジャケット写真には、クリストファー リーが、バンドの一員として写っている。

彼、『1941』では、日本の潜水艦に同乗する、ドイツ海軍の観戦武官を演じているんです。

では。

First of May (1969年)

5月の朔日(ついたち)、という曲名だから、今日採り上げるにふさわしい、というこじつけ。

まだ幼かった頃 クリスマスツリーを見上げていた

みんなが遊びに熱中する中、僕らはいつも一緒だったっけ

どうして?、って訊かないでおくれ

ただ 時間は過ぎ去ってしまう

他の誰かが  遠くからやって来たんだ

僕らはもう大きくなって クリスマスツリーは 小さくみえる

君が幾度確かめようとも  僕らの愛に変わりはないよ

けれど、五月最初の日が来ればきっと 涙が こぼれるだろう……

では。

山雅らしさ、というゲーム。

たしか、25日の朝のこと。

家人が隣家へ出かけていって、中信エリアだけの新聞(読み終わったもの)をいただいて来た。

山雅の、鐵戸編成部長のインタビュウ記事が、お目当。

前日、京子さんからのメールでは、この記事について否定的な言及があったので興味が湧いたらしい。

おこぼれに預かって斜め読みした。

記者の執筆要旨が定まっていないことが(おそらく)原因で、記事の中身がちっとも腑に落ちないので困ってしまう。

ちょうど、毎朝15分やっている公共放送のドラマ主題歌、日本語で歌っているようなんだが、歌詞が頭の中で日本語として一向にたどれない、まさにあの感覚。

一体、どういう切り込みでマイクを向け、テッちゃんに何を言わせたかったのか?

どうやら〈山雅らしさ〉がキーワードらしいことはうかがえた。

スランプに陥った時におこなわれる、この確認作業。
山雅を取り巻く一帯では、キャッチコピーのごとく、ひんぱんに登場する。

  Gans  asks  What  makes  Yamaga   time  after  time.

山雅らしさ、が蒸し返されるのには、以前から食傷している。

それがいまや、自分探し、いや、あら探しのゲームの観ありで、笑える。

らしさ、の認定根拠はもっぱら、勝敗、順位という結果から導きだされるようだ。

となれば、ほとんどが情緒的な印象論ばかり。

数値としてのデータはほとんど示されない。

好不快、悦楽と落胆などの感情は否定しないけれど、その基準で仕事が一刀両断されるとしたら、ゲームをやってるほうは浮かばれないんじゃぁないか?

虹の彼方の理想郷、実は家に居た青い鳥、掬い取れない手桶の満月。
……、実体なき願望でないのか、自問するのもいいかもね。

ただ、このテーマについては、語れないこともなくて、らしさの根源はおそらく、〈後からやって来たアマチュア集団〉に在ることだけは確か。

たとえば、昨日リリースされた、2020年期 株式会社松本山雅の、最終的に黒字を確保した決算内容。

より詳細が公表されれば、そのやりくり上手に迫れるんでしょうが、流行り病の逆風下で、こういった通信簿を報告するところに、山雅らしさを観察できなくてどうするのか、とは思います。

では、また。