ISS ビューイングのおすすめ。

この前、ISS(国際宇宙ステーション)を見上げた話をしましたが、
ごく近いうちに、そのチャンスが、またまたあるんです。

職場のトンビ氏が教えてくださった。

しかも、軌道を描いたメモ(下の画像) までいただいたのだ。

二夜連続で日本列島、本州の上空を通過するんですな、これを見ると。

チャンスは、6月の1日(火)と、2日(水)。

6月1日。
ISSは、20時50分に、北北西の空から現われて、南東に向かう。
すると、3分後、仰角79度(=ほぼ真上)の位置にやって来たあたりで、姿を消す。
軌道が、地球の影(夜)に入ってくため、という。

6月2日。
ISSは、20時02分に、北東の方向に現われる。
そして、南東へと向かい、3分後の仰角は、54度。
昨晩よりはだいぶん東山に近づくように見えるんだろうか。

とにかく、両夜ともに、最初の時刻には北方の空を凝視できる態勢で待つ。

これが見逃さないための、ポイントでありましょう。

もちろん、その夜、松本上空が雲に覆われていないことを今は祈るのみです。

グッド ラック !!

では。

 

心あらば つばくろよ 。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて 足乳根の母は死にたまふなり

【読み】のどあかきつばくらめふたつはりにいて たらちねのははは しにたもう なり

斉藤 茂吉。歌集『赤光』(1913年 発表) の中にある。

玄鳥の、〈玄〉とは黒色のことで、燕を意味する。

〈足乳根の〉は、その後にかならず〈母〉が続く。

はじめは女性の胸の描写だったが、いまや意味を失い、〈母〉を導く紋切りの五文字。
こういうのを枕詞(まくらことば)と呼ぶ。

けれど、枕詞を、字数のムダと思わずに使い、しかも、それが成立するところに短歌の根強さがある。

ところで、職場の、大型トラックが出入りするプラットホームの天井では、今年も燕たちが多くやって来て、子育てに忙しい。

先日、ひな鳥が一羽、足許のケースの中、さかんに啼いている。

どうやら誤って巣から墜ちたのを、誰かがそこへに入れたんだろう。

でも、巣は地上数メートルの高い場所にあって、とても差し上げてやることもできず、まして、どの巣に居たのかも皆目わからない。

近くに寄って来る親鳥もない。

今は盛んに動いているが、次第に消耗すれば、その行く末は目に見えている。

捨て置くこともできず、ひょっとしたら、隣家にやって来ている燕夫婦の温情にすがれるかも? と思い、持ち帰った。

主人に頼み込んで脚立を貸してもらって、玄関の上方にある巣の中へ入れてやった。

巣にはいまだ雛の気配は無かったけれど、毎日電線に止まっては、萬年を見下ろしているよしみで、なんとかお願いしたい、と実に虫のいい気持ちだ。

その後、ひな鳥がどうなったのかを確かめる勇気もなくて、幾日かが経っているのです。

では。

五月雨に 忘恩悔ゆる 無花果かな (萬年)


註:標題の句は、無花果(いちじく)を、ムカカ、と音読みで。

光風舎主人、田中 博文氏のツイッターは、2014年5月13日を最後にして、今も残る。

ご逝去によって、途切れたまま。

病を知って、長野市の病院に田中さんを見舞ったのは、その少し前だったか。

癌と闘うベッドの上で、かなりやつれていたが、いつもと変わらず飄々として、淡々。

万事、成り行きに任せるよ、といった風情で、切羽つまらない態度に、かえってこちらが救われた。

帰り際、その著書『真田一族外伝』を下さると言うので、自署をねだった。

長野で、編集者、フリーランスのライター、そして古書店経営とキャリアを重ねた田中さんだったが、もともとは、松本は村井のご出身。

墓所は寿地籍の菩提寺に在ると、ご遺族から聞き、かつて訊ねてみたがわからず。

日々のせわしさで、そのままになっている。

忘恩を悔うのならば、今度こそは伺わないとな、と自分に言い聞かせる五月……。

では。

石川に秘密? あり。

5月14日(昨日のこと)、と聞いてピンと来たら、その方は相当な日本史通だ。

高校時代、日本史の教科書を一度も開いたことがなく、で、見事に赤点をいただいた萬年など、どんな日なのか、まったく無知で今日まで生きてきた。

今回、この日の出来事について知ることで、実は、ご幼少からの疑問が解決した、というお話をひとつ。

1878(明治11)年5月14日 午前8時30分。

馬車で皇居に向かっていた、内務卿(実質的な首相) 大久保 利通は、紀尾井町清水谷において、士族6名によって暗殺された。

大久保は1830年生れだから、享年47。

世に〈紀尾井坂の変〉と呼ばれる、テロリズム。

事件直後、現場に駆け付けた者のひとりが、前島 密(1835~1919年)。

大久保の遺体について記しているけれど、その惨状には息を呑む。

ところで、実行犯の内、5名は、石川県の出身。

携えていた斬奸状(ざんかんじょう)には、政治家としての大久保に五大罪あり、との告発がしたためてあった。

さて、事件発生当時の石川県は、現在の石川県(旧 能登と加賀)に加え、富山県(旧 越中)全域と福井県(旧 越前)の大半を含んだ、それは大きな県だった。

けれど、事件がきっかけとなって、不平士族が多く、しかも大県なので統治するに厄介なエリアだ、と明治政府に認識されることになる。

結局は、数年後、現在のとおりの、福井、石川、富山、の北陸3県に分割された。

だから、紀尾井坂の変なくば、石川県は今頃、全国屈指の大きな県だったはず。

例えば、静岡県(駿河+伊豆+遠江)や、岐阜県(飛騨+美濃)をしのぐくらいの。

小さい頃、日本分県地図を眺める度に……、
口を開けた、鼻の長い横顔そっくりな、この石川という県。

なぜ、喉元を富山県によってひどく狭めれられ、また、腰から下は、福井県に乗っ取られたような格好なんだろう?、とよく気になった。

昔の能登と加賀をそっくり引き継いだ県境線、といってしまえばそれまでなんですが、ツエ―ゲン金沢のお膝元が持つ、深く、密やかな歴史ではあります。

では。

100年前に学ぶ 模範解答はこれ。

緊急事態宣言といったところで、内容は〈お願い〉ばかり。

うむを言わせぬ実行もないから、発令するたんびに、新鮮味と権威? も失っていくのでむしろ逆効果、とは、真っ当なご意見。

80年前の戦争にしたって、民の協力と忍耐を取り付けていたのは、結局のところ、隣近所や世間から〈非国民〉と指をさされる恐怖であったことを思えば、民を動かすこの国のやり方は、100年近く経っても、ほとんど変わっちゃあいないことに、むしろ感動する。

こういった、子供だましみたいなことを真剣にやっている世のリーダーたちを、こどもたちは、一体どういう思いで観察しているんだろうか?

前にも書いたが、本当にヤバい!、人の移動を止めたい、と思っているのならば、都営メトロも都バスも止めて、JRイーストともダイヤ変更について真剣に協議するはずなんだが、そういう話は、あまり聞かないのはなぜなんだろう?

およそ1世紀前(1918~1920年)、A型インフルエンザ(H1N1亜型)が世界的に大流行した。

今では季節性インフルエンザと呼ばれ、毎冬ワクチンを受けて予防する(それでも罹ることがある)が、当時、人類はその抗体をほとんど持っていなかった。

人口5,500万人の日本では、2,380万人あまりが患者として報告されて、39万人弱の人々が亡くなった。(45万人とする説もある)
人口の、47%が感染したことになる。

スペイン風邪、と呼ばれたパンデミックだが、100年も経てば記憶の彼方へ行ってしまう。

日常的に風邪に苦しんでいる日本人ならば、コロナウイルスを制するなんことを考えないのがむしろ賢いわけで、

せいぜい自身でできる予防策を怠らず、
国や他人をあてにせず、
噂や雑音に惑わされずに、
基礎体力をば温存しながら、
おとなしく3年間を耐える、
さういふひとにわたしはなりたい ― これが模範解答なり。

ところで、画家エゴン シーレ(1890~1918年)とその妻エーディトは、スペイン風邪の犠牲者だ。


稀有の才能。
個性的な人物描写を試みた
シーレは 当時28歳、ようやく世間に売り出し始めた矢先の落命だった。

シーレは、ウィーン美術アカデミーで学んだ。

彼が入学した次の年とそのまた翌年に同校を受験して不合格になったのが、アドルフ ヒトラー(1889~1945)だ。

ヒトラー政権がナチス時代に退廃芸術展を開催した際、シーレの作品は、堕落した芸術として没収される。

彼の作品は多く性的な領域に踏み込んでいるから余計に攻撃の対象になったんだろうけれど、いまでも、オーストリアからは、ドイツ国内の美術館に対して返還請求がなされているらしい。

では。