見て見ぬふりをする 嘘 (その2)


濃厚な接客を求めて通うお店、多勢が押し込められる興業。

COVID-19感染を防ぐためには、それらの規制には反対しない。

しないけれども、他方で、通勤通学電車/バスに復活したすし詰めを放っておくのはいかにも怠慢でしょう、都知事さま。

東京の暮しの中で、もっとも密集が生じる場、それも継続的に。

ここを手当てしなくてほんとうに良いの?
利用者の自助努力にもたれかかるのも、いい加減にしないと。

首都の感染判明者のうち、半数は感染経路が不明なのに、
最大かつ日常的〈密〉に頬かむりしている限り、自粛要請にも迫力が出ない。

行楽や旅行ばかりを目の仇、仕事はしゃあないだろう、と黙認を決め込む。

あたかも将来的な布石があるような〈研修〉の名の下で、日本人がやりたがらない職種に限り、外国人を連れてきて当てがう。
―これとまったく同じゴマカシ。

国家を挙げての嘘に、皆が見て見ぬふりをしている国ならではのお家芸、と思っている。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより (7/24 15:22)
見ぬふりは簡単だけれど。
我が国ならではの国民性、見て見ぬふり。あの人そこが変だなと思っても、まずそこを指摘することはない。言って相手が気を悪くしたら悪いと思うからだ。日本人にとっては「和を以て貴しとなす」が、大切なのだ。
そんな見て見ぬふりが、いざ自分に災難が迫った時、まさか自分に振り掛かる事はあるまいと言う考え(正常性バイアスと言うらしい)につながるように思う。
自分の命を自分で守るには、身に近づきつつある災難の正体をまず、見ぬふりをせず直視する事、そして行動に移す事が肝要なのだろう。
では、また。

見て見ぬふりをする 嘘 (その1)


命を賭けているわけでもなく、たかが暇つぶしに観るに過ぎない。

だから、TV画面で〈過剰な演出〉が在ったとして、目くじら立てて責めることもあるまい。

メディアどうしで攻撃し合っているのだから、これこそ茶番。

観客は誰も、そんな摘発を頼んじゃあいない。

演出無きノンフィクション番組は、退屈で観る気も起らないだろう。

紀行や登山モノなどで、カメラがこちらへやって来る一行を写す、といった情景はわざわざ作り出しているわけで、定番的な架空。

さらに面白い画、面白いエピソードを入れてやれ、という意欲は自然に湧いてくるだろうから、そこに一線を引くことなど到底できやしない。

クイズ番組など、受けを狙ったおバカな役柄と答えが、既に仕込まれている。

テレビショッピングとか眺めると、露骨に煽るわ煽る。

こういう制作に走るメディアに、節度を期待するほうが間違いだ。

これは個人の感想です、と一瞬小さく画面に入れると同様、

〈演出のため画像/会話を選択して再構成しました〉と但し書きしたらどうか?

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (7/23 16:47)
過剰な演出を皆で笑おう。
演者にはまったく演出の意図はなく、製作者の演出のみで観る者に感動を与えた映画「東京オリンピック」市川崑監督。
選手の表情、息づかい、筋肉の動きなどを超望遠で捉える技法を駆使し、観る側に選手の緊張感、躍動感がストレートに伝わる傑作に仕上がった。
最近、極端な演技を製作側から強要され、世間の非難を浴び自殺した女子プロレスラーもいたが、過剰な演出を強要する作り手、それを何も疑わず、あるいは仕事と割りきって呆れる演技をする出演者。まったく視聴者を馬鹿にしているとしか思えない。
この深刻なコロナ禍、報道番組の裏側でそんなバラエティー番組、クイズ番組が、最近特に目立つ様に思う。こんな事では、テレビはますますマスメディアとしての価値を落とし続けるだろう。
では、また。

☞萬年より (7/23 17:02)
『東京オリンピック』ですか。
まさに、本日にふさわしい話題ですね。
その作品製作のエピソードをひとつ。
監督の市川は、閉会式も開会式同様、国別行進で始まるだろうから、スタジアムの撮影担当すべてには、その冒頭はカメラを回すな、と指示してあった。
ところが、当夜の閉会式は前代未聞で、選手らが一斉にグチャグチャにスタジアムに入ってきた。
市川、これはマズイ、と思ったが、時すでに遅し。
指示を変えることができず。
ところが後でフィルムを回収してみたら、撮影者すべてが式を最初から記録してあった、という。
演出の監督などおかまいなしのプロ魂、というお話。

10年を浪費するであろう民。

前を走る車の後部に、〈Baby in Car〉のマグネット。

よく見かけるやつね。

それを言いたければ、〈Baby On Board〉でないと、ネイティブスピーカーが読むと、頭の中が〈!?〉になる。

〈in〉だと、グローブボックスや、ドアトリムのポケットの中にベイビーが入ってます、という語感なのだ。

でも、読ませたい相手は皆日本人だし、かつ、英語で格好良くやりたいし、となれば、これで押し通してしまえ、で良い。

ところで、かつて、僕たちが最低6年(中高)もの時間を投じて習った英語。

ブロークンであっても英語で会話をやりきってしまえる者は、そうそうは見当たらない。

まさか、マグネットや看板を読むための努力だったとは。

しかも、本年度からはそこへ4年(小学校3年~)が加算される!

日本人は、よっぽど外国語学習得力に劣った頭脳の持ち主なのか?

否。

その理由は、110年前すでに、夏目 漱石が解き明かしている。

漱石によれば……、
自分たちの学生時代は、教壇に立っていたのは外国人教授ばかり。
したがって、全ての学科で英語を使って授業をおこなっていた。
しかし、今日(明治43年時点)では、日本人の教授が日本語で教えるから、学生の英語力が落ちるのは当たり前であるし、それが国家の近代化の道としてマットウなこと。
ナショナリズムを、たかが英語の知識と引き換えにしてはならない……。

ゆえに、これから幼児に英語を習得してもらいたいのであれば、答えは明々白。

すべての授業を英語でやってくれる学校に入れるか、あるいは、家庭における会話の一切を英語でやれば、オーライだ。

ただし、その場合、日本人固有の素養と民族意識が身に就くのかは、保証の限りではありません。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (7/9 16:05)
今だに鎖国を続ける男。
思うに、日本人に生まれたから、日本語が話せるわけではない。日本語のある環境の中で育つから、自然と日本語を覚えるのだろう。
流暢に英語を使えるようになるには、やはり幼い頃から英語のある環境に居なくては無理なのだろう。
恥ずかしながら、英語が得意だと思っていた中学、高校時代の自分、後年ハワイに行った時、連れの背中にへばりついていた始末。
勿論、学校の授業で英語を習得した人も沢山いるだろうが、そうなるには、結局個人の能力と志しの問題だろう。
一方、日本人だから流暢に日本語が使えるのか、日本の本当の良さを知っているのか怪しいものだ。
コロナ期は抜きにして、これだけ外人観光客が来る時代、日本人より本当の日本の良さを知り、日本語を丁寧に使いこなす外人さんも結構居るに違いない。
では、また。

☞萬年より  (7/9/17:24)
単に日本に生まれただけでは、〈日本人〉ではない。
ただし単一民族の国家に限りなく近いので、日本人に成りやすい環境。
米国の場合これが困難なので、国旗や国歌、ゴッドブレスアメリカを頻繁に引っ張り出す。今は、鎖国と孤立に向かっているようにみえます。孤立する自信があるんでしょうか。

公私混同の体質。

若ければ、一年に一度の逢瀬(七夕)とは絶望以外のナニモノでもないだろうが、そんな繰り返しこそ長続きの秘訣、などと思ってしまう昨今。

物事はその一面では測れない。

例えば、〈公私混同〉がそれ。

このコトバ、公的(組織)のものを、私的に流用することを責めて言う場合が圧倒的に多い。
会社のボールペンを家に持ち帰る、といったかわいいものから、数億円単位で会社の金を使い込むなんて大罪に。

でも、考えてみよう。
私的(プライベート)な時間を、会社が当てにしている、つまり公的に使わざるを得なくしたり、その成果を甘受してノウノウとしていることのほうが、ズッと多いのだ。

あらかじめ8時間以上の拘束が必至の業務分担/シフトが当たり前であれば、働く側も、それなりに体力と時間配分をせざるを得なくなって生産性を落とす。
すると、ますます残業の沼から抜け出せない。
残業代がないと生活が成立しない世界にハマる。

COVID-19の騒ぎでわかったことは、今の経済が、いかにゼニを多く使わせる思想で成り立っているか、ということ。

日本人すべてがお金を使いたくてウズウズしているとも思えないが、倹約できて良かった、なんて言葉は、一向に聞こえては来ない。

こじんまりでも内容は濃く、閑散は当たり前。

やがて来る社会が急に来ちゃった、と考えるべきなのに。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (7/6 6:45)
時は金なり。
鏡に写る時計を見て「あれ、何時?」と、一瞬間が空く自分の理解能力の無さを嘆くような今朝のブログでした。

飲食店がもしも、お客の数を制限しても、あるいは時短営業をしても商売が成り立てば。
もしも、リモート授業だけで、充分な学力を養えたら。
もしも、自宅でのテレワークだけで仕事がこなせたら。
今まで無駄な時間、無駄な出費が如何に多かったことか。
結果、自分の時間、家族との時間も多く取れ、このコロナ禍、あながち悪い事ばかりでは無いことに気付かされる。
そんな理解で良いのでしょうか?
では、また。
☞萬年 より  (7/6 16:04)
(経済)成長とか、豊かなこと、などは、とっくに国家/社会的に再定義すべきなのに先延ばしにして、やっていないな、という感じですかね。
そのため、未知の将来に備えなく突入してしまうんじゃあないか。
先が短い僕らはともかく、春秋に富む世代は大変だなぁ、と勝手に思っています。彼らにとって、大きなお世話であれば良いのですが……。

 

まっとうな言葉、教育。


かつて、知り合った米国人が言った。

―ユダヤ人の子はその賢さで、学校の教師をやり込めて困らせるのが、アメリカ社会に在る、ユダヤ人のイメージなんだ。

非ユダヤ系からの、多分に人種的な決めつけにも思われた。

アルベルト アインシュタイン (1879~1955) がそういう個性であったのかは知らないけれど、その名を聞くと、この話が思いだされて仕方ない。

彼には、まったくそうだよなぁ、と同感させられる言葉がある。曰く、

調べられることを、いちいち憶えておく必要はない。

大切なのは、その情報や知識はどこへ行けば、どのようにすれば獲られるかを習得しておくこと。

けれど、悲しいかな。
萬年の小中高時代、成績の基準は、調べればわかるようなことをどれだけ憶えているかどうか、それに終始していたように思う。

いわゆる知識の多寡と、記憶力に優れることを良しとする教育ですな。

知的な興味が向けば、特定の分野に関する知識は増すのが自然。

けれど、それだけを尺度とする学業評価は個人の持つ可能性を多く見逃す。

なぜ、そういう教育になってしまうのか?

理由は簡単だ。
教師にとって、知識の一方的な伝達がもっとも楽な教授法であり、自己の権威を保てるから。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (7/1 6:51)
風が吹けば桶屋が儲かる。
遠い記憶の中に「勉強は他人の気持ちが解る人間になるためにする」と言った先生がいた。あの難しい因数分解が、あの英語の文法が、何故人の心を…?と思ったものだ。
大人になって、人間関係や仕事の段取りなど困難に直面した時、柔軟に解決する力を養うため、子供の頃脳を鍛えておけと言うことだったのだろう。
人生をあまり上手く渡れていない私としては、もっと勉強しておくのだったとつくづく思います。
では、また。

☞萬年より (7/1 17:50)
学校は、いつかは去るもの。
大人になって〈勉強します〉と言ったら、商店主の値引きの言葉。
ま、それも、他人の気持ちを窺うことには違いないですね。