凡庸を責めることの 危険。

8月15日を、終戦の日、と呼ぶことが、なんとも滑稽に思われる。

もう戦いは終わりにします、と自分で決めたような格好にはなっているけれど、実際は、窮地に追い込まれた挙句に、待ったなしの無条件で掲げた白旗だったんだから、どうみたって、〈敗戦〉でありましょう。

敗戦、つまり、完全な武装解除と被占領、から始まったこの76年、という現実をどこかに置き忘れているので、平和論、国家論、果ては死生観までが、不毛な袋小路に入り込んでしまっているのが、僕たちの現実ではあるまいか。

人命はなによりも重い、とか言いながら、心身両面で平気で人を抹殺するような事件や事故が、この〈平和〉の国で跡を絶たない。

あの壊滅的な結末を迎えた戦争をおっぱじめ、そして戦った世代が、この世から去って久しい今。

各界の権威、有識者とか呼ばれる者はすべて、当時、物心もつかない幼児未満だったわけだから、いろんな意味で、戦禍の辛さや深刻さも軽くなるのは、これはもう、当たり前でして。

そうだな、特に、40歳以下の若い世代は、今大きな顔をして語る老人のほとんどが、あの戦いにまつわるところの苦労などしていない、と思って、その言動や教えにつきあったほうがいい。

特に、メディアを通して行われる、浅薄で、民に迎合的な情報操作が、真実を余計に見えなくしているから厄介だ。

COVID-19についても同様で。

人口1億2,600万人に対して、死者15,402人だから、人口100万人当たり 123人。

他方、人口3億3,000万人で、死者614,267人は、人口100万人当たり 1,861人。

日本に比べ、米国の、この流行り病における致死率は 15倍、というリアル。

なんらかの国家戦略が効いてこうなった、と言い切れないところが辛いが、

死亡という最悪の結果からみる限りは、現政権の対応や施策をガタガタ言うようなことでもない、と僕は思っている。

感染状況を災害と同じだ、とセンチメンタルな発言をするリーダーの姿勢。
または、専用の病床を増設もせず、ただただ狭いコップの中で困った困った、とうろたえているのはどうか、とは思うけれど、

批判の多くは、切迫感なき緩慢さとか、対策の不徹底をついているようだ。

けれど、どの政権や首班がやったにせよ、この国の制度下ではおそらく、諸政策は大差ない内容に落ち着くことは間違いない。

ここ数十年かけて日本は、多方面で護送船団方式の経済活動をぶっ壊してきていて、それを多様性の尊重、とかいって称揚してきたんだから、なにをいまさら、制限(規制)と補償をセットでとか、全員が救済されるべきとか、ムシのいいことを言っているんだか。

凡庸、愚策、無策内閣と、あげつらっているうちはまだ良くって、こういう状況の下、颯爽と、期待を浴びるように個人や集団が出現するほうが危険、というのは歴史が証明している。

そういう意味では、出ては叩かれる、足の引っ張り合いがマシな場合もある、と割り切れ。

この国では過去、おそろしいことに突っ込んで行く時、かならず誰かの権威や、他国による圧迫が理由として使われるのが常だった。

これからも、そこのところには注意しないと。

では。

感動は、ここに。

ちょくちょく目に入って来たオリンピックのシーンでいちばん不快だったのは、テーブルテニスでポイントを挙げた時の、奇声をともなったガッツポーズだ。

得点するたびあれをやられたら、対戦相手は、うるさくてタマラナイだろうし、お互いに対して、挑発的かつ非礼な振る舞いのように思えてしまう。

武道でいうところの〈残心〉からは遠く隔たった態度で、どうも好きになれない。

止めるように言う人間は、周りにいないのかねぇ。

そんな中、孤高のランナー、ルノワール氏のイチオシである、田中 希美さんが、1,500m決勝で、8位入賞したハイライト映像を観て、たまげてしまう。

外国人選手の中に入ると、ひときわ小さく華奢な身体が目立つものの、まったく物怖じもせずに、軽やか、かつ、ダイナミックに繰り出すストライドに魅せられた。

格別の競技会において自己記録を更新する仕事、それも大したもんだが、インタビュウを聞いていると、その視線は、既にもっと先へ向かっている感じ。

この迫力が、21歳という若さゆえの、ほんの一瞬でないことを祈りたいけれど、驕りもなく、かなり自己分析ができる人格のようだから、さらなる研鑽と上級な走りが期待できそう。

希美さんを、驚きをもって知った、という愉快と爽快。

ガッツポーズや号泣に、もっとクールに飄々とやったらどうか?、と残念に思っていたが、あの快走が、いくぶんかはそれを救ってくれる。

では。

【コメント】
☞ ルノワール氏より (8/10 16:33)
日本陸上競技に受け継がれている素晴らしき伝統
その昔から
私が陸上競技選手(1500、800㍍)現役の当時から現在までずっと受け継がれている良き伝統です

日本選手は自分のレースを精一杯走り
ゴール後
回れ右をして
自分を走らせてくれたトラックに向かい
(有り難う御座いました)
と語り一礼をする
田中希美選手の声は
特に大きい!

一昨日の五輪閉会式の最中に葉巻タバコを吸っていた
◎◎国の5人に
日本陸上の文化伝統を教えたいですね

私は今でもレース終了後の伝統を守っています

有り難う御座いました!

そんなに 黙祷させたいか。


広島や長崎の街が、オリンピック主催者に、期間中の6日、9日に黙祷を願うような話は、ずいぶん前からあったようだ。
県とか市から陳情の動きもあったんだろう、きっと。

そして最近、IOCとしてそのような儀式は行わない、と決したことをニュースで知る。

IOCの判断は、きわめて適切なものに思う。

会長の某氏が、来日早々に広島を訪れ、平和公園に弔問したのは、その代替行為の意味合いがあるはずで、慰霊の意はきちんと示された。

この国のメディアがお話しにならないのは、〈日本中が怒り〉といった見出しを掲げ、国民に媚び、かつ、偏重的な態度を取り続けていること。

原子爆弾の投下は、100%が連合国(=米国)が責を負うべきことがらには違いない。

投下の約一箇月前に終結した沖縄戦は、日本側に民間人を含め、200,000人超の死者/行方不明者を出したが、他方、米国側も、20,000人が命を落としていた。

だから、本州アイランドでマトモに地上戦をやったら損害はそれこそ多大、だから、空からまづ強烈に叩かねば、という切迫感が、米国にあったのは事実だろう。

けれど、核兵器選択は、100%連合国の裁量なんだから、その使用と結果については、言い逃れできるわけがない。

ただし、あの戦争を始めたのは、こっちなのだ。

その終結近くの惨禍を、人類の大罪として一方的に断ずる資格が、はたして僕たちにあるんだろうか。

加害者でもある自分、そこを忘れてはまづい。

そもそも国際大会で、開催国が始めた戦争の犠牲者を弔う儀式をば、参加者全員におこなわせるってのは聞いたことがない。

それとも、そこで核兵器が使われたから?

それが核兵器による殺傷ゆえと、格別に声高の文句をいうのはおかしい。

もっと圧倒的多数の人命が、一般的な銃器や火器で、むごく吹っ飛んでいるのだ。

いい加減に、核兵器を人質にとったような、さも、まっとうな平和主義者面はもう止めにしたほうがいい。

もしも、6日と9日、何か、戦争による犠牲について訴えたいのであれば、例えば、こういうのならわかる。

表彰台に立った日本人アスリートが、核兵器をその完成からわずか数週間後に、同胞に対して使用した米国等に対し、なんらかの格好で抗議の意を示す。

そっちのほうが、殺された方々の気持ちを、よっぽど代弁できますよ。

(もちろん、日本人が、あの戦争で亡くなった300万人余の自国の民を弔うことは、記憶から失われない限り、当然でありましょう)

では。

残暑の中で『夏の終わり』を。

今年は昨7日に、秋が立った。

僕が思っていたよりも、2日ほど早い。

なので、昨日になるのを待って、残暑見舞いとして何通か書き送った。

周りの景色も、人々も皆、気温30℃越えにへばっている毎日。

けれど、歳月は確かに、次のシーズンに踏み込んでいる。

疲弊の夏のあとからやって来る、癒しの秋。

それを、こんな曲で早取りしよう。

とは言いながら、午後、近くの野っぱらへ行っては、キリギリスの声を探して、あの逞しい下肢、つややかな褐色のお腹、鮮やかな羽根の黄緑を想像しながら、幼き日の虫取りを懐かしんでいます。

では。

ユリについて。

黒田 三郎(1919~1980年)には、詩集『小さなユリと』(1960年)  がある。

娘にユリと命名するところなんかは、詩人を感じます。

その娘ユリと、ふたりで生活する(奧さんは入院加療)中から、つむがれた詩群。

できたらご一読、をお奨めする。

ただし、今回のお話しは、花のほうのユリのこと。

登山ガイドのジャガー氏は、この春に右膝の切開手術(内固定)をしたため、いまのところ、プライベートの山行を織り交ぜながら、日常生活でリハビリに励んでいらっしゃる。

で、先日は乗鞍岳へ登ったとのことで、ありがたいことにお土産をいただいた。

それが、これ。

黒百合、とは高山植物であるから、登山で分け入って採取するのはご法度であるが、これは、販売用に栽培された球根。

おかげで、来夏は黒百合の花を楽しむんだと、あと一年は、生き延びる立派な口実ができたわけ。

ところで、いまは夏山シーズン真っ盛りのはず、首都圏あたりで非常事態宣言発令が続いているが、山行ツアーはどうなってるんでしょう?、とジャガー氏に訊いてみた。

氏曰く、たとえば、団体が新宿発の場合はね、現地集合(登山開始地)といったプログラムを組むようです。

このご時世、とても、バスタ集合とか、あずさにまとまって乗車、というのはまづいでしょうから。

ふむ、皆さん、別々に当地まで来てから合流、ということか。

でもそれって、泥棒が、玄関が施錠されていなかったから、入り込んで物色しても窃盗でありません、と言い訳するようなのものではないですか?

もちろん、登りたければどうぞ、とは思いますが。

では。