そんなに 黙祷させたいか。


広島や長崎の街が、オリンピック主催者に、期間中の6日、9日に黙祷を願うような話は、ずいぶん前からあったようだ。
県とか市から陳情の動きもあったんだろう、きっと。

そして最近、IOCとしてそのような儀式は行わない、と決したことをニュースで知る。

IOCの判断は、きわめて適切なものに思う。

会長の某氏が、来日早々に広島を訪れ、平和公園に弔問したのは、その代替行為の意味合いがあるはずで、慰霊の意はきちんと示された。

この国のメディアがお話しにならないのは、〈日本中が怒り〉といった見出しを掲げ、国民に媚び、かつ、偏重的な態度を取り続けていること。

原子爆弾の投下は、100%が連合国(=米国)が責を負うべきことがらには違いない。

投下の約一箇月前に終結した沖縄戦は、日本側に民間人を含め、200,000人超の死者/行方不明者を出したが、他方、米国側も、20,000人が命を落としていた。

だから、本州アイランドでマトモに地上戦をやったら損害はそれこそ多大、だから、空からまづ強烈に叩かねば、という切迫感が、米国にあったのは事実だろう。

けれど、核兵器選択は、100%連合国の裁量なんだから、その使用と結果については、言い逃れできるわけがない。

ただし、あの戦争を始めたのは、こっちなのだ。

その終結近くの惨禍を、人類の大罪として一方的に断ずる資格が、はたして僕たちにあるんだろうか。

加害者でもある自分、そこを忘れてはまづい。

そもそも国際大会で、開催国が始めた戦争の犠牲者を弔う儀式をば、参加者全員におこなわせるってのは聞いたことがない。

それとも、そこで核兵器が使われたから?

それが核兵器による殺傷ゆえと、格別に声高の文句をいうのはおかしい。

もっと圧倒的多数の人命が、一般的な銃器や火器で、むごく吹っ飛んでいるのだ。

いい加減に、核兵器を人質にとったような、さも、まっとうな平和主義者面はもう止めにしたほうがいい。

もしも、6日と9日、何か、戦争による犠牲について訴えたいのであれば、例えば、こういうのならわかる。

表彰台に立った日本人アスリートが、核兵器をその完成からわずか数週間後に、同胞に対して使用した米国等に対し、なんらかの格好で抗議の意を示す。

そっちのほうが、殺された方々の気持ちを、よっぽど代弁できますよ。

(もちろん、日本人が、あの戦争で亡くなった300万人余の自国の民を弔うことは、記憶から失われない限り、当然でありましょう)

では。