3月15日の 出逢い。

― 狐って、冬眠しないのかしら?

調べてみると、どうも彼ら、冬眠はしないようだ。

この日の朝、6時頃。

家から出ると、すぐ隣の畑の中、狐が一匹、鼻先を地面にこすりつけるようにしながら、進んでいく。

距離にすると、30mくらい向こうのあたり。

熱心に食物を捜しているんだろうか、息を殺して見つめていたわけでもないのに、こちらには一向に気づきもしない。

道を渡ると、そのままの格好でずっと歩いていった……。

大した食べ物にもありつけていない様子に、餌付けの誘惑にかられたが、そうしたらきっと、あいつの自由と自立を奪うことになる。

僕にできることはせいぜい、新見 南吉の『ごんぎつね』(1932発表)を読み返すくらいだろう。

そして、二日もすると。

庭の隅に見つけたふきのとうを、天ぷらに仕立てて食している萬年なのだ。

では。

湯温バトル 今昔。

ご幼少の頃、内湯のない長屋に住んでいた時期があった。

そういう子が数人つるんで、午後、開いたばかりの銭湯へと繰り出す。

沸かし立て、こなれていない湯は、硬く、猛烈に熱い。

すかさず、水道の蛇口をいっぱいに開き、湯温を下げながら浴槽で遊んでいる

すると、そんな時間に常連らしき老爺が、ムッとした形相でやってくる。
さも渾身の力を感じさせるかのごとく、無言で蛇口を締めると、また、洗い場に戻っていく。

子らはその勢いに押され、しばらくは静かにしているが、やがて蛇口に手が向かう。

こんな繰り返しが何度かあって、こちらは遊びにも飽きてしまい、浴場を後にするのであった

先日、バスタブに入った途端、わぁっ、となった。

モニターをみたら、湯温41℃に設定してある。
これじゃあかなわん、というわけで、40℃に落とす。

ホンネは、39℃ぐらいにしたいのだが、おそらく、誰かの逆鱗に触れるだろうから、40℃で手を打つことにした。

どう考えたって、ぬるい湯にぐったりと浸かるのが極上、と思うんだけれど。

湯温に関するつばぜり合いは、人生の今も続く。

では。

【コメント】
☞ジョー 氏より
実はここ2ヶ月前から、”林檎の湯屋おぶ〜”に通っておりますよ
なかでも少し熱めの石芝の湯に、どっぷりとハマっております。

自分は熱めの湯が大好きで、長時間浸かっては、外に出て体を冷ましての繰り返しで。
やっぱり醍醐味はサウナに入った後の水風呂。
焼けるようなサウナに入った後に、水風呂に全身浸かるのって最高じゃありませんか、萬年さん?

昭和の頃の銭湯。
思い出しますよね、ケロリンの黄色い風呂桶に、風呂上がりの瓶のコーヒー牛乳、腰に手を当てて。

ケロリンの風呂桶ってネットで買えるんですよね。

フルーツ牛乳派のジョー。

心底 無用なモノが三つ。

かつて、入営した新兵(大学生)を前にして、日本帝国海軍の将官が、

― 海兵は、タフネスとスマートネスを本分とする!、と訓示をタレた。

敵性語として市中で禁止されていた英語を、軍隊では平気で使っていてたまげた、という逸話。

もうひとつ。

日本帝国海軍内には、戯れ言葉があって、それは、

〈世界の三大無用物。ピラミッド、万里の長城、戦艦大和〉だった、と聞いたことがある。

制空権を握る時代に、いまだにでっかい戦艦を建造した後進性をみづから笑う、とは、なかなか自省的なる批評精神ではないか。

今日、萬年がそれを言うなら、オリムピック、平和賞、世界遺産、となるだろうか。

ただし、世界遺産にも功績がなくもない。

それは、富士からゴミの山が消えたこと。

では。

ゴージャスな午後を (全豪オープン)

― 残業になりますが?、とメールすると、

― 了解です。私は、午後セリーナとなおみのゲーム観戦、と家人から返信。

― それは、ゴージャスな午後!!、と返しておく。

ここのところ、拙宅の居間における殺人は、ひと休み。

かわりに、午後から夜にかけて、テニスのゲームが延々と続いているのだ。

帰宅すると、ジョコヴィッチが、準決勝を闘っていた。

息子に風貌と雰囲気がよく似ているからだろうか、男性プレイヤーでは、家人のもっともお気に入りらしい。

ジョコちゃん、とか画面に向かって呼んでいる。

確かに、すべての部分でクオリティが高く、クレヴァーなテニス。

これと言って弱点のない、好選手だと思う。

それに比して、錦織 圭君にはひと頃の輝きがなく、心配ではあります。

しかし、あまり熱心に観ていない者の偏見なのかも知れないが、
テニスの試合は、観客が入って盛況であっても、無観客でも、プレイヤーのパッションに、あまり落差や変化を感じない。

なぜだろう?

では。

答えは無数、竹藪の中 (本能寺政変論)

某公共放送が一年かけて放送した、日向守 明智 光秀が主人公のドラマが、つい最近終了したらしい。

光秀といえばとにかく、主君であった上総守 織田 信長を本能寺に襲った逆臣として、人口に膾炙するその人。

となれば、その顛末がどう描かれたのか?、というのが、興味の大半。

で、家人が観ていた様子なので、物語のラストがどんなだったかを、聞いてみたんである。

すると、だいたい次のとおり。

秀光は信長を本能寺に攻め、死に至らしめた。
その理由については、歴史上提出されている仮説を、おおよそ丁寧に網羅して描いてはいたが、いづれかが決定打、としてはいなかった。
信長が亡き者となるについての秀吉の思惑にも触れていた、という。

さらに、現実か幻視かも説明されない一瞬で、光秀が山崎の戦い(1582年)の後にも生き延びていた、ともとれるようなシーンもあった。

家人評は、こんな。

― 観ている人の判断に任せるような趣きだったけれど、それなりの、つまり、好い余韻が残る、って感じだわね、あたしにとっては。

なるほど、なるほど。

それくらいが、公共放送における冒険の限界でもあったのかも知れぬ。

信長の遺体が確認されていないことを根拠にして、信長生存、とまで突っ走る戯作性は期待できまい。

あるいは、『忍者武芸長』(1962年完結)のように、信長を襲った後、秀吉軍に敗れ、ついに京都の小栗栖(伏見区)で百姓に殺害されたのは、実は、秀光の影武者であった。
本物は、どこかに遁走したのであった、という結末も、やっぱりアウトに違いない。

推定の素になる材料を落ち度なく示し、あとは観る者に判断させる手法を採ったこの度のシナリオ。

そうなったことの真の理由は、いやいや、もっと深いところにある。

おそらくは、こういうこと。

すなわち、織田 信長に仕えた期間をのぞくと、その人生には、かなり謎の多い光秀を描くとなれば、今の社会が、これだ、っという明快な正解を許さない、のである。

なぜなら、行動や問題がこれだけ複雑になってしまった現代社会では、これが唯一の正しい答えである、という思考態度はもはや通用しない。

せいぜい、答えはいくつかある、というのが現実で、かつ、そのどれもが、圧倒的な正当性を主張できないでいる。

なによりも僕らが、唯一絶対の正答を期待することなくして問題を読み解こう、という態度でいるのだ。

戦国時代とはいいつつも、髷を結った、現代人の感性を持った者たちが行動するドラマ相手ならば、なおさらだろう。

では。