悩みどころが違うでしょう?

ここ数日外気温が落ち着くと、途端に、電力不足が言われなくなってしまう。

かわって、某通信会社が、いいように叩かれる。

でも、暑さが戻れば、きっと、また蒸し返すのだ。

なんとまぁ、僕らの時代は、浅薄で、移ろいやすい論調で溢れていることか。

節電が求められると、
いやいや熱中症はそれこそ命取り、困って追い詰められた国民をどうしてくれるのよと、マスメディアは、あたかも(弱い)民の味方を装いながら、為政者やリーダーを批判する。

けれど、この事案の出口は、原発再稼働でしかあり得ないことは、ちょっと考えればわかること。

でも、いままで脱原発の流行りに乗っかって論陣を張ってきたメンツがあるから、容易に原発にまで言い及べないメディア。

なんとも切ない光景、ですなあ。

でなくて、メディアがすべき主張は、政治的リーダーに対し、いかに計画的、かつ、日本技術の巧緻を結集して、限りなく安全に原発を稼働していくのか、その道筋を明確にさせることでしょう。

この点は、為政者も同罪で。

今回の国政選挙で、国家の存立の視点から、エネルギー安全保障を最大論点にしないのは逃避以外のナニモノでもない。

家計やりくりの悩みにとって、電気料金が低減、安定するのは、相当な仕合せでしょうに。

こうなったら、高騰しつつある電気代は、脱原発論者が負担すべきでは?、とさえ思うが、どうだろうか?

僕は、化石燃料を使った発電に背を向ける必要は決してない、と思っているけれど、効率と環境へのダメージからいけば、原子力が総合的に優れる、と考える。

自然エネルギー、たとえば、太陽光の利用は、家庭レベルで風呂の湯わかしくらいならば罪もないが、これを大規模にやって、現在どのくらい、山野、畑、隣近所の住人にダメージを喰らわせていることか。

太陽光、風力などの非効率で一定しないエネルギーのために、いままで膨大な資金が投入されてきている。

けれど、そのお金を、原発の安全立地や、運営/稼働技術に投じていれば、ヨーロッパの戦争や、外気温上昇などでこれほど右往左往しなくても済んだはず。

東北大地震から10年も経って、こういう観点からの総括は誰もしていないし、今後もしないような気がする。

そういう仕事では、決して人気や誉れは獲れない。

というのは……、

大衆はいつでも、耳ざわりの良い言葉を好む  (by  萬年)   から。

でもね、たとえ不人気のそしりを負ってでも、責任をキチンと引き受けるリーダーが、時間をムダにせず、マジメで地道な議論に取かからないといけない。

戦争はイヤだ、平和は大事、を繰り返すだけでは、夏目 漱石が『三四郎』(1908年発表) で予見したとおり、この国は終わる。

では。