見下せる価値について。

SUV、と呼ばれる自動車群がある。

これ、Sport Utility Vehicle(英語)、の略称

スポーティな利便性を備えた車、くらいの意味に受けとればいい、と思う。

では、スポーティな利便とは何か?、と問われても、カッキリした解答も思い浮かばない。

それに乗って、スポーツライクなことをしに行ける、くらいの気持ちで命名されているからなのだろう。(つまりは、べつに、行かなくともよいのだ)

……という僕も、SUVを愛車としているひとり。

まぁ、この10年、満足して使っている。

もっとも、僕がクルマに求めることは、

〈走って、曲がって、止まる行為を、フラストレーションなく、できれば、自分の意思通りに応えてくれること〉

だから、特段、SUVが推し、のドライヴァーでもない。

……では、なぜ、SUVに乗るのか? を、暇つぶしに考えてみた。

で、その答えは、こうなる。

❶自動車メーカーの多くが、このカテゴリーの車種を、フューチャーして販売していること。
プジョー社などは、SUVしかないのでは?の車種展開で、なんとも切なくなる。
ボルボ社も似たようなもんだ。

❷いままでは、セダンやフツーの乗用車を使っていたが、一度くらいは、SUVを試してみよう、という購買層があること。

(これが決定的な要因)最低地上高が、他カテゴリーよりも大きいこと。

たとえば、僕のクルマは、家人の愛車からのSUV派生車なのだが、

僕のは、地上高200mmで、家人のよりも、70mmほど高い。

つまりは、7㎝は腰を落とさずに、乗降ができて、

それと同じく、運転者の視線が、地上から 7㎝ほど高い。(シートポジションが同じとして)

これこそ、たまに家人のクルマを運転するので、実感できる。

たった10㎝に満たない高さが、大きな違いを生む。

結論。

SUVが好まれる最大原因は、周囲をより見下して運転できることであって、

ライフスタイルだの、ラゲジスペースの使い勝手だの、全輪駆動だの、そんなのは、後付けの、枝葉末節な理由に過ぎない。

したがって、軽カテゴリーであれ、ミニバンであれ、

現状、運転視座をできるだけ高い位置にしようというのが、メーカー戦略のはず。

いづれにしたって、

資本が集中した経済では、購買者は、在るものの中から選ばざるを得ないのですがね。

では。

閑散,のしあわせ。

一昨日、アベちゃん(仮名、職場の同僚)が来て、

― ロートレック展、行ってきましたよ。

ほほぉ、それで、どうだった?

彼、スマフォの画面を取り出して、

特別気に入った素描を何点か、見せてくれる。(この展覧会は、写真撮影が許可されている)

― これはね、このマントのボリューム感、そこがいいです。

ふむふむ。
画用紙への素描と、石板への描線はまったく別で、後者は、一本で決める、というテクニックだもんね……などなど。

― でも、いちばんよかったのは、場内に人が少なかったこと!!
これが、東京だと、幾重にも観覧者の列ができて、自由に動けませんから。

― まったく、そうだよなぁ。
観客よりも、展示を監視している係員(なぜか女性) の数が多い.、とかだよね。

とにかくも、人混み皆無の、自由気ままな回遊

これが、ご当地開催の、いちばんの旨味なのだから、

松本市民には、どうか、ロートレックに熱くなることもなく、ソッとしておいてもらいたい、と願うばかり。

では。

カフェは,必要だった、

先日ご紹介した、職場でご一緒している彼氏にとっては、切実に。

最近の、非番の日における行動の一端を話してくれて、

……材木屋さんの不要物置き場の中から、

欄間などを見つけたので、貰い受けると、

それを、なじみのカフェ(どうやら、オーナーが、大工仕事との兼業らしい)に持ち込んだ。

欄間は、さらに彫りと表面磨きを施す必要があるらしいのだが、

1,500円也、で買い取ってもらえた。

そのお金を握りしめると、

次に、これまたなじみの寿司屋に出向き、(おそらくランチタイム)

それを代金にして、から揚げをこさえてもらう。(その店のから揚げは絶品!!)

贅沢な食事の後は、某公園へと足が向く。

そこで、いつの間にやら寝入ってしまい、寒さで目が醒めた……。

― お金を倹約して、かつ、美味しいものを食するには、それなりの努力が必要なのよ、と彼。

こういった話は、妙に筋の通った説得力があって、

僕は、感心しきりであります。

では。

プロテストソングそのもの『Blackbird』(1968年)

この曲は、ビートルズのアルバム『The Beatles』(168年発表)に収められた、

2分あまりの小曲。

実は。

この曲が、リトルロックハイスクール事件(1957年) と呼ばれる、

米国の高校における、人種差別と隔離策に触発されて、ポール マッカートニーが創った、という裏話をつい最近になって知った次第。

学校から排除されたアフリカンアメリカンの女性を擁護し、その解放を願う、

純然たる、人種的な差別を問うたメッセージソングなのだ。

けっして激烈ではなく、美しく穏やかな旋律と曲調が、

かえって、事の重要さをこころに届ける、そんな趣き。

ゆえに、美なるメロディを楽しむのはかまわないとしても、

漠然とした〈援歌〉とみなしてはいけない。

これは、同じ作者による『Let It Be』(1970年)が、

亡き母への追想と思慕を綴ったものであって、

宗教心や人々の苦悩への共感を、漠然と歌うものではないと同じ……。

では。

なぜ,カフェに居るのか?

職場の同僚に、カフェまわりをしている(らしい) 御仁がいて、

先日は、きのうは、どこどこに行って、誰々と話し込んでね、とご報告してくれる。

そもそも、僕の辞書には、〈喫茶店〉〈茶店〉しかない。

それが、カフェになると何が違うのやら、皆目わからん。

で、その使途とは、待ち合わせの場所にする、友人知人との談義、あるいは、次の仕事までの時間つぶし、それくらいしか思い浮かばない。

同僚によれば、そこでは他人との出会いがある、とのことだが、

かつての栄華(のように聞こえる)に関する昔ばなし、羽振りの良さなどを聞いてなにが面白い?、と訊くと、

そうやってご高齢者の話を聞いて差し上げる、ということ。

でもさぁ、松本あたりの政財界の(☜加筆)、裏事情を入手したところで、今のあんたには、どうなるものでもないだろう、と突き放しつつも、

ますます、出かけていく気が知れない。

僕の偏見によれば、上に記した目的以外で喫茶店に出向くのは、時間の使い方をほかに知らないがゆえの、時間浪費に過ぎず、

それならば、室温15℃を確保した自室で、

読んだり描いたり(書いたり)していたほうが、よっぽど楽しく、息抜きになる。

ただひとつ。

そこのオーナー(マダム)や、そこに集う誰かさんの気を惹きたい、というのであれば、

それはそれで、至極健全な目的だ、と共感できる。

では。