キチンと大きな画を描けない国。

絵画の世界では、大きいサイズの作品をモノにすることが、たしかに力量の証明ではある。
造形力を誤魔化せませんからね。

けれど、ここで言う、〈大きな画〉とは、世の中全体を、ダイナミックに、全体最適の視点でとらえた発想のことなんです。

先日、家人が醤油を購おうと、なじみの醸造店に出向いたら、そこの社長が、或る書類を見せてくれた。

もらって来た資料の見出しには……、
〈日本国内においてコロナワクチン接種後、急に発症し、医学学会で報告された疾患〉(2022年 4月~ 7月)  ……とある。

要は、この社長、ワクチン接種は止めたほうがいい、と勧めてくれたんだが、

― あら、でも、2回目まで受けちゃったんですよねえ、と家人は答えたらしい。

でも、(3回目以降の)ブースター接種については、思いとどまっているのが、我が家。

対COVID-19 施策については、2年半が経過しているのに、いまだフラフラとしているし、かつ、怪しいことが多過ぎる。

(後年振り返った時は、知見に乏しいがゆえのことであった、と言い訳が入るだけか?)

気がつけば、集団免疫、なんてことは、いつの間にか誰も言わなくった。

あまり公言されないけれど、厚労省の資料をのぞけば、新規感染者のうちで、3回接種済みの者が、多数。

こういう数字はもっとキッチリと報道すべきなんだが、そうしないのはワクチン接種にブレーキがかかることを怖れて?

もはや、社会全体が免疫力を獲得するんてことは、非現実なのだ。

地域的、年齢的なバラツキがあるにせよ、日本人の12人に1人は、感染済みなんですよ。❶

この流行り病で騒ぎ出してから約900日。

で、亡くなった方は、累計 30,000人。

一日平均だと、30人の死者。❷

これは、(基礎疾患などによる)二次的な死因でカウントしたのではなくて、COVID-19感染していれば、すべて、〈COVID-19による死〉にぶっこんだ数字なのだ。

従来の季節性インフル死者を、そのようにして計算し直すと、年間最大10,000人、という推計をどこかでみた。

ということは、なんだかんだで、後遺症うんぬんといってみたところで、所詮究極の指標であるところの〈死亡〉視点からして、社会的にそれほど重いことか?

厚労省は、〈日本の1日〉という統計を発表していて、その平成28~令和2年版だと、1日あたりの死亡原因別死者は、

がん   ☞       1,034人
心疾患  ☞            562人
脳血管疾患  ☞      291人
事故   ☞            104人
自殺     ☞              58人

COVID-19とのつきあい方も、こういう観点から見直す必要もある、というのが先の社長のご意見なのであった。

医療界は、なにかと言うと、現場崩壊を盾にした見解しか示さず、政治リーダーは、行動制限はしない、としか言わず。

現在、感染しても、よほど重症化しなければ、家に居て治せ、ということでしょう。❸

だから、上記❶❷❸の理由で、僕は、新型インフルエンザとは、もはや風邪と同様なつきあい方をすべき、と思っている。

宣言は出ないが、社会だってその方向に進みたいのは、明らか。

日本人はもともと、風邪と一年中慣れ親しんでいる。

ここのところの感染者急増は、ようやく欧米並みの感染状況になったまでの話。

ただ、向こうは既にマスク無しの生活、こっちはいまだ自主規制だのみの生活。

このまま、ワクチン接種を何回させれば、気が済むのだろう。

弱毒化した?異物を、この大人しい民は、これから幾度、体内に注入するのか。

いろんな規制緩和や基準引き下げを、仕方なくやっているようなフリはせずに、こうなったら、こうします、とキッパリと何故言えない?

向こう(ゴール)から観た発言や〈画〉の提示は一向になくて、ただ、国がやると言うから、民もそれに粛々と従う。

80年前のいくさでも、やはりこんな感じで流れていったのか?、その頃の大人に訊いてみたいのは、僕だけ?

もしそうならば、敗けた後で、自分は反戦主義だった、嫌々協力したなどと、後出しで平和論はぶたないことだ、特に、これからのシーズン。

では。

畳の上で死んでいたら。

死者を鞭打たない、というのが礼儀、とは思っている。

すくなくとも、やがて時が経ち、歴史的にその人の評価が定まってくるまでは。

弔い方をどうやろうが、そのことで、逝った御方の人生の重みが変わるわけでもありぁしない。

そもそも葬儀なんてのは、生きているこっち側が、内外の区切りをつけるためにやることであるから、眠っていらっしゃるご本人からしてみれば、腑に落ちないこともあるんじゃあないか?

だから、他人の告別式についていろいろ語りたくもないけれど、ただ、ひとつ。

畳みの上でフツーに亡くなったら、はたして国葬、などと言い出したのかね?

あの犯罪ひとつで、どうこうなるような民主主義ならやめたほうがいい。

(本来、ふらふらしながらやっていく政治的妥協の手続きが、民主主義なのだ)

お国のために殉じたのならともかく、幹部政党内の割り当てとして現場に出向いたのではないか。

不慮の死を、国を挙げて悼むとしたら、アルトイン セナ級でないと〈国葬〉の二文字が泣く。

まぁ、秋風が立つくらいに、どうでもいい話ですけどね。

では。

註;画像はセナ搭乗機にはあらず。

北関東の 果報者。

昨日は、学生時代からの親友K君と、関東平野の北端あたりをうろうろしていた。

ひと月前は、
― 内陸部のあの辺だと、灼熱地獄。
オッサンの干物が出来上がるのがオチだね。
とか言っていたのに、ずっと時々雨の曇天で、最高気温は26℃。

おかげで、干上がることもなく、まづまづの過ごしやすさ。

朝、桐生市を出発、国道122号をたどり、足尾銅山(日光市) まで行く。

そこから、山越えをして鹿沼へ下り、さらに栃木市を通過して、渡良瀬遊水地へと向かう。
で、栗橋駅からJRで帰京するK君を降ろして、解散。

こう書くと、なんともそっけない旅程ですな。

― 君に連れて来てもらわなければ、こうやって群馬、栃木、さいたまを巡るなんてなかったですよ、と、東京人(渋谷在住) のK君が言う。

でも、そんな寂れと朽ちれの中にたたずむ街々を観てまわるのも、今のK君には苦痛であるはずもない。

― 実はね、今度の土曜日に、婚姻届けを(渋谷区役所へ) 出しにいくのよ、大安、ってことで。

聞けば、長年のつきあいで、20歳年下のお方、とのこと。

― いろいろな事情があってさ、とおっしゃるが、いと佳き事ではないか、K君。

K君と別れ僕は、東北道へ乗ると、北関東道、上信越道へと回り、三才山を越えて松本に戻った。

サイモン&ガーファンクルを流しながら来たんだけれど、こういった一節が、なぜか心に沁みるのではありました。

And here’s to you, Mrs. Robinson
Jesus loves you more than you will know

ミセス ロビンソン、申し上げたいことがあって、それは、
神様は、あなたが思う以上に、あなたを愛して下さる、ということなんです。

では。

夏のおごり。

昨日の夕方。

東の空には、しばらく大きな虹が立ち上がると、今年はじめて、ヒグラシの鳴くのを聞いた。

もしも、平和を表現したいのであれば、

― 今日ね、虹を見たよ、とか、ヒグラシの声があったよ、なんて些細なことを、夫婦や家族、近しい人々と会話することが、それなんだろうな、と思う。

平和を、いくさのある無しで語るのは、もう、うんざりだ。

先の日曜日、所用で長野市まで行って来た。

国道19号を使ったけれど、路傍には、ノウゼンカズラの花の橙が、やたらと目についた。

家ごとに  のうぜんかずら   狂おしく      萬年

同じ頃、ジャガー氏は、蓼科山でガイドにいそしんでいたのだが、ビーナスラインの山は、ニッコウキスゲの黄が、いつになく盛んだった、と聞いた。

(すでに秋が潜み込んだ)  この夏。

自然は、黙々と奢っている。

僕等が、気づこうが見逃そうがには、おかまいなく。

自然は惜しみなく奪い、惜しみなく奢る……。

では。

たまに 一服。

気分転換する際、なにを服用するのか。

これに関しては、世の中、ここ30年くらいでずいぶんと変わりました。

煙草が第一線からご退場。

と思ったら、白い錠剤や粉は、ますます健在。

そこへ持って来て、オーヴァ―ドウズですか。

大勢は、電車内でも食卓でも、下を向いてスマフォ画面をひたすら見つめる、これでしょうかね?

そして、人は、ますます空を見あげなくなった……。

いえ、なに、本当はどうでもいいことなんです。

もちろん、若く見えればすべて善し、ってのも信じちゃあいませんよ。

では。