やっぱり前方向だよね (鳥取戦レビュウ❷)

ゲームの総評。

前半に 2得点したので、

そのままゲームを支配できたら、後半も 得点可、と期待できた。
(そのまま逃げ切りをはかるサッカーでもないし、山雅)

特に、後半のなかば、鳥取側にいったんは傾いたゲーム潮流を、引き戻したのが奏功。

80分過ぎのゴールは、終盤に得点する割合が高い山雅の、データとおりの姿。

❶前志向の、細かいゲームワークのいくつか。
①上手くコントロールされた、連動による最前線からの追い込み。

②中盤では、相手が後ろ向きでボールを受けようとする瞬間を狙い、後方からボール奪取を試みる(4点目は、安永のそういうプレイが起点となった)

③自陣深くのスローインでは、(競らずに) 近くの味方にそのまま渡し、前方へパント気味に蹴り出させる。

④サイドバックは、ムダに後方へボールを下げず、タッチアンドゴーを使うなどして、前へとボールを運ぶ。

⑤縦パスによる中央突破であろうと、クロスからであろうと、ゴールマウス正面から、シンプル(ファーストタッチ)に、シュートを撃つ。

前へ、という姿勢をいちばん強烈に感じさせたのは、センターバック 2試合目の 宮部 大己。

プレイからは消極的なものが一掃され、サイドプレイヤーへのボール供給に冴えを魅せた。

にばんめは、樋口 大輝だろうか。(プレイエリアがとにかく広いのが、彼の武器)

❷4 – 3 – 3 というけれど。 (スタイルはシステムを選ぶ)
初期的、ボール保持時には、それでいくが、

相手がボールを持った状況では、4 – 2 – 4に変移して、前線からのディフェンスをおこなう。

スリートップに、菊井が加わり、4人で、相手のパスコースを限定する。
その際は、中盤は、ダブルボランチに。

ボールを手中にすると、ワンアンカー(米原☞安永)となって、

これができるには、特に、米原の成長(ボールの動かしの沈着、視野拡大、ヘディングの強み) が大きいと診る。

加え、山本 康裕が、右サイドで攻撃参加をする。

前半38分頃の、山本、樋口、そこへ村越が絡んで、右サイドを侵入していく連携は、このゲームの魅せ場のひとつ。(後半にもあった)

山本の、執拗なサイドバックとの入れ替わりによって、

最終的に菊井のシュートまでいった一連の攻撃は、山雅の定番のレベルに到達した感がある。
(大宮戦では、藤谷との間でこれをやることで、ゴールに結実した)

……かような、前志向と、出来る限り高い位置からの攻撃の発動

これがこの先、筋金入りのホンモノに成り得るのかどうか?

それを証明しなくちゃならないのは、特に、

沼津(次節)、福島(7月)、琉球(11月)、岐阜(9月)、奈良(9月)、これらとの対戦。

あぁ、精進は続きます。

では。

あっけらかんの 4ゴール (2024.6.8 鳥取戦レビュウ❶)


画像版権帰属先 ☞ ラムズガーデン

アウェイ鳥取の地で、4 – 0 の勝利。

まづは、現地参戦のファン&サポーターの皆様に感謝申し上げます。

……DAZN画面のこっちでは、

確かに勝ったんだが、見事なゴールの数々もあってか、

なんだか狐につままれたような非現実感がぬぐえない。

いやいや、それでもそこには、確かな勝因がありまして……、

❶ガイナーレの攻守切替えの遅さに助けられるも、その緩慢に下手につきあってしまうことをしなかったこと。
87分に 2ゴールとは、セレブレーションに時間を費やすことなく、ゲームをひたすら遂行したことの象徴。

良い意味でも悪い意味でも、今の山雅流サッカーは、こういったゲームの有り様になりやすい。

❷萬年が推奨した〈前志向〉サッカーを貫いたことを筆頭に、

そこには、チャレンジが仕込まれていた。(いままでのやり方のオーソライズ)

それは、次節アスルクラロ戦の予習、という意味でも価値がある(☞プレビュウで)

❸勝たなきゃあなんでもBOOの、(アルウィン名物) 頭脳の退化と硬直化が著しいゴール裏からはきっぱりと解放されて、自由な天地で闘えたこと。

これらみっつの重要度と、寄与度の軽重は、

❷>❶>❸、となりましょう。

では、チャレンジの中身については、レビュウ❷で。

どうやって前へ? (ガイナーレ鳥取戦プレビュウ)


今治戦のゲーム前、数年来の念願、魂込めた署名をいただく。

その今治戦。

今治は、後半になると、ゴールキックをすべてロングにして、山雅のハイプレッシャーを無力化した。

こうなると、最前線から追い込みをかけての攻撃圧を使うことができなくなる山雅。

前々々節の大宮戦。

ここでは、山雅が、大宮の強固な中盤を無力化するために、ロングキックを多用した。

大宮戦の勝因のひとつは、

馬渡、佐相のモチベーションを上手く活かした点にあったと思うが、

菊井を欠いても、それを補って余りある先発メンバーが組めたこと。

アウトサイドに、馬渡、藤谷、山口、佐相を配した、強力な布陣。

その意味で、現在、馬渡、滝が離脱?しているのは、痛い。

……、愚痴で始まってしまいました。

が、鳥取戦のポイントは、現状みられる行き詰まりを打開することを含め、

❶どうやって、最前線からの守備を機能させるのか?

❷サイド攻撃と、縦パスによる中央突破を共存させながら、
どうやって、ゴールマウス正面からシュートを撃つのか?

……この2点に尽きると診ます。

山雅流では、相手がボール保持した、保持させた状態から始めるのが居心地が良い。

鳥取は、リーグで3番目にボール保持をするサッカーを志向するから、その点、やりやすい、とも言える。

これ、決して、奪って反転のカウンター攻撃を狙っているのではなく、とにかく高い位置から攻撃態勢を採りたいのだ。

たとえ、相手がこちらのハイプレッシャーをスカすためにロングボールを、サイドへ散らす戦法で来ようと、

それを回収することを含め、陣形全体を間延びさせずに、相手ゴールにより近い場所から、ボールを持って攻撃にとっかかりたい。

これが今治戦では出来なくて、先制点も、結局は、ロングカウンターによるものだった。(本来の狙いにあらず)

もちろん、カウンターだって有り、だけれど、それを最大武器とはしないサッカーを究めようとしているはず。

では、ボールを手に入れたら、どうやってシュートまで行く?

クロス、シュート数ともに、リーグトップであるならば、

つまり、量はそれなりにこなしてるんだから、次は、クオリティ。

たとえば、サイドからやるなら、相手守備に時間的余裕を与えないようなクロスの投入にチャレンジ。

サイドで、しかたなく後方へパスせざるを得ない状況は観たくない。

そのためには、たとえ、藤谷を左で使ってでも(その場合、右は佐相) 、機会と時間のロス低減を!!

逃げの一手にみえるようなパスワーク、そのズレや齟齬。その印象が、観戦者には、直観として、闘えていないかのような直観として残ってしまう。

さて、クロスの、その先のこと。

ドンピシャで合わせて、シュートができりゃ世話ないが、

クロスだけで終わらずに、ボールをゴール正面で撃てるような工夫、が要る。

それがディフェンダーに当った撥ね返りであっても、中途半端なクリアであっても、こぼれ球であっても、

願わくば、中央で踏ん張って収めた自分のボールでありたいが、

波状的にやって、ゴールになる確率を高めなくちゃあ。

コーナーキックの本数も、山雅はリーグトップ

鳥取の守備がマンツーマンか、ゾーンかは承知してませんが、

その都度、大切に、工夫を凝らして打ち込みましょう。

では。

自分にできること。

先週のこと。

山本 康裕の、Jリーグ400ゲーム出場の記念グッズを予約しに、喫茶山雅へ出向いた。

注文とは別に、他のグッズの、取り扱いで不明な点を訊ねたところ、

お店を出てから 30分もしたら、携帯にその回答が入ったので、気分の良い日をもらえた。

あと、とりあえずやっておくのは、アウェイ相模原戦のチケットの購入か。

リーグ前半戦の締めの 6月。

チームはできることをやってるんだろうから、こっちもできることを進めておこう。

思えば、プレイヤーはすべて、サッカーについて、僕らとは隔絶したような技量の持ち主。

それを、ああやれ、こうやれ、と言いたい放題な世界なのが、ファン&サポーター。

それはそれで、いい。

ただ、技量は及びもつかないのに、挙句の果ては、精神論に走る。

気迫、執念……。

どれも、持つに越したことのない〈気持ち〉なんでしょうが、

それらは、技量と方法論に裏打ちされなていないと、どうしようもない。

プレイヤーはゲーム中、(おそらくは)対峙する敵と、最初にガツンとやった瞬間から、その相手の技量を感じ取り、計測しながら、

彼に競り勝ち、出し抜き、置き去りにすることに、自分の保有する技量を使いつつ、没頭していることだろう。

どんなに精根込めてやっても、技量とチーム連係で劣ると、終わってみれば、

0 – 2、1 – 3 みたいな、なんとも味気ないスコアで、負けです。(過去の経験)

実は、山雅のサッカー自体には精神論を持ち出したくなる要素もあって(☜加筆)、重要なヒントは、チノ氏の言葉、つまり、

いまやってるサッカーが、腰が引けたような印象を与える、そこにあります。

決して、それは、気持ちの類いのことでないので、

あくまで、サッカーのスタイルと、その実践が、議論されるべき。

明日の鳥取戦プレビュウは、そんな観点で。(いつもそうありたいが)

では。

女王は孤独に死す。

過日、初夏の陽射しの中で。

玄関わきのヤマボウシにたまたま、スズメバチの巣を見つけたのである。(地上高 2.5mくらいのところ)

子どもの握りこぶし大の、薄褐色のフラスコを、逆さにしたような格好でぶるさがる。

筒状の突起が、巣の下側についていて、これが、蜂たちが出入りする入り口か。

この時季、巣では、女王蜂がひとりで、巣作りと産卵にいそしんでいる。

このまま放置すれば、

数百匹の働き蜂(すべてメス)と、交尾専門の、(全体の10%程度の)オス蜂が棲息する、立派な巣になるだろう。

しかし、

攻撃的なスズメバチと、これほど身近に生活するのは、とても勘弁。

蜂に刺されて死ぬのは、なんとも気が進まない。

そこで、いまのうちにと……、

脚立を隣家から拝借してくると、

巣のついている枝を切り取った。

異常に気付いたか、巣からそそくさと出て来た女王蜂ともども、袋をかぶせて捕獲する。

で、袋の口からジェット式の殺虫スプレーを噴霧して、一気に殺害した。

入り口から巣の中を照らして見ると、1ミリ程度の、小さな卵(白色)が3つ、仕切られた部屋に産みつけてある。

数日中にはふ化するだろうが、もうママからは栄養をもらえず、餓死するしかない。

……このようにして難を逃れた一部始終を、

やって来た小学二年生に、残された巣をみせながら話したら、

自分は、もうこれ以上、そのスズメバチの巣を見るに堪えない、と言う様子をみせる。

この出来事で、ふと、僕に、

〈死〉についての、幼少時の感覚がよみがえる。

この年代では、

死を、生命活動の停止といった現象ではなく、

もっと切実な、まるで世界の終わり、と感じていたということを。

だから、

― 太陽と死はじっと見つめることができない。
by ラ ロシュフコー (1613~1680年)

といったような言葉を、気の効いた言葉として喜ぶのは、

実は、大人になり切れない子どもに似た感性であることがわかる。

死を直視し、それに対処できなけりゃあ、いっちょ前の大人とは言えない。

もちろん、子どもの心で生きることをいやしめるつもりもありません。

では。