中山氏の知略【その傾向編】(沼津戦プレビュウ❶)

昨日、職場で。

山雅サポーターのおひとりに出逢ったら、

彼女、沼津戦について、ずいぶんと楽観的なんでありました。

僕はとても強気にはなれず、かと言って、他人の期待感に水を差すようなことはしたくないから、こう返しておいた。

― 山雅が、中山さんのサッカーをきちんとスカウティングしていれば、(勝てる)望みは拡がりますよ。

そうなんである。

こと、アスルクラロに関しては、中山 雅史氏(監督) が、かなりの知恵者と思われ

(教師のような凡庸なスーツの着こなしは、理論家の証左のなにものでもない)

そのサッカーには、いろんな仕掛けが施してあるから、

丹念にそれを丸裸にして、そして対策を打てば、それなりのゲームに持ち込める、と診ます。

たとえば、沼津は、パス数、ボール保持率(ともにゲーム平均)が、リーグ1位。

これは、

ボールを我が物にして、パスで相手のゴールへ迫る志向性の結果ではありましょうが、

そういう数字を叩き出せる確固たる方策がなければ、そうはならない。

思うに、単にパスワークの練達が、ずば抜けているのではなくて、

プレイヤーの動きが相手の予測を上まわって意表を衝くような連動性、が落とし込まれているのです。

素人のこの僕が、一見しただけでも、

4 – 1 – 2 – 3 の攻撃的な初期布陣(最近の山雅とおなじ) を採るが、

攻撃に向かう(つまりボールを持ったら)、

3バックを形成する。

これが、センターバックふたりと、基底に降りて来た、左右いずれかのサイドバックの、3人であったりする。

この時、もう一方のサイドプレイヤーは、高くあがってバランスを取り、攻撃に備える。

最終ラインからアンカーにボールが渡ると、高い位置を取ったサイドバックに、さらにボールが供給されたり、

または、サイドバックのひとりが、横断的に中央に入ってきて、ボールを捌き、サイドを変える。

そうやっておいて、

究極、最もアクティヴな左サイドへとボールをやって、そこから奧へ侵入、をやってみせる。

もともと3トップなので、4人くらいが常にペナルティーエリアに入ってくるから、

クロス、または、縦スルーパスに反応する枚数は、豊富。

で、守備にまわると、

4 – 4 – 2 に変容、前線には、カウンター要員としてふたりを残す。

……以上、要約すると、相手からすると、非定型、非定常のパスを積んでゴールを襲ってくるから、なかなか捕まえ切れない、というサッカー。

もちろん、沼津自身は、こういったことを定型的、オートマティカリイにできるまでに仕込んであるから、相手を置き去りにすることが可能

持つことを考える、というより、相手が対応できないから持ててしまうサッカーを編み出したところに、沼津躍進のヒントがある、と言えましょう。

観ていて、チンタラしたパスはあまりなく、高速でズバっと通す、そんな感じ。

あと。

岐阜戦の時は、攻撃のギヤを上げた 65分過ぎになるまでは、

(肩より高い)ハイボールは封印していた。(除く,ゴールキック)

こういったゲームの流れをこっちに持って来るための、指揮、および、チーム意思の統一、これには脱帽というしかない。

……ですから、僕が切望するのは、今週かけてアスルクラロが分析され、

しかも、それへの手当てが、非公開練習の中で落とし込まれたのか?、

ただただ、そのあたりなのです。

では。

吟味を迫る時代に。

家人から、しばしば苦言されることがありまして。

僕が、なんでも(彼女の発言に対する) 批判から入る、という。

いったん、そうだよね、と受けとめておいて、

次に、おもむろに(しかも穏やかに)、でもね、こんな考え方、観方もあるよ、とやれば、きっとご機嫌を損ねることはないだろうが、

レストランの評価でもあるまいし、

あれもこれも、という生きかたに僕は疑問を持っているので、

今後も同じことをやって、家人のご不興を買うに違いない。

最近。

読みだしたばかりの、デカルト(1596~1650年) の『方法序説』の冒頭には、こうある。

良識(=理性)は、ひとに公平に分かち与えられたものであって、
だれでも十分にそれを備えていると思っているので、自分がいま持っている以上を望まない……

この説の真意がどこにあるのか?

それは、これから読み進めていかないと知れないことだろうが、

こういう書き出しは、かなり魅力的でいい。

というのは、

書かれてから 400年経っても、読む者を、有無を言わせず

〈理性〉といわれているものを吟味させるかのように、誘うからなんです。

もちろん、これは、今現在の、僕の問題意識に、ぴったり来た!、というに過ぎませんけれど。

では。

過ぎたるは,なお及ばざるがごとし。

某市の図書館には、山雅(とアンテロープ) に関する掲示コーナーが設けてある。

この前、本を借りたついでに、立ち寄ってみたら、

対鳥取戦の試合結果が、(たしか)イーゼルに立ててあったが、

ありゃ!、となったから、

早速、受付の女性のところへ行って、

― 誠にお手数ですが、あのぉ、スコアが違っているようなので、よろしく……。

と言い置くと、図書館を出た。

4 – 0、のところが、5 – 0 と誤記してあったのです。

 

……ありがたい間違い、とはいえ、過ぎたるは猶及ばざるが如し、とはこの事。

ところで、大量得点で勝利するのは気分もいいし、悪くはないが、

サッカーの特質上、

大量失点で敗れたゲームが、内容的に箸にも棒にも掛からないか?、というと、そうでもなく、

他方、1点の僅差で敗れたゲームが、救いがたく貧相だった、のも多い。

たとえば、先月の対金沢戦 ( 0 – 6 )。

多失点したことには、それ相当の不足はあったんだけれど、

攻撃的な動きは、むしろ、山雅のほうが活発で、金沢にかなわなかったのは、ゴール数、および枠内シュート数くらいだった。

後者だと、八戸戦が、それ。

リードされて押し返すべきなのに、相手の圧力に負けていた。

そして、前節。

FC岐阜は、ホームで沼津に、1 – 5 と敗れるも、

アスルクラロを事前に評価するため、DAZNの見逃し動画を観たところ、

それほど悪くないゲームをしているんですね、岐阜さん。

アルウィンでうちと対戦した内容よりも、格段とやり方が深まっていて、魅せ場は多い。

ただし、(山雅に勝ったのを最後にリーグ8戦で勝ちなしが、なんとなく想起されるほどに) ペナルティエリアに侵入してからの詰めの雑、甘さ、それは感じた。

……で。

5得点をあげて、気分もよく、アウェイでの連勝をもくろむ沼津さん相手に、

じゃあ、どうするの?

そこらはプレビュウでも紐解くとして

少なくとも、今言えるのは、ふたつ。

ひとつ。

バタバタと行ったり来たりで忙しいサッカー、そういった潮流を、みづから作っるのはいいが、受動的に引きずり込まれないこと。

ふたつめ。

ゴールキーパーと最終ライン間の、信頼に基づく意思疎通と、連携の確保。

そこに齟齬を来さないこと。(先季の対沼津2ゲームは、キーパーの不出来が痛かった)

では。

変わることなく聴いてやる〈Back in The U.S.S.R〉

Back in The U.S.S.R

ビートルズ、1968年発表の 2枚組アルバム『The Beatles』の冒頭に収まっている曲。

〈ソ連邦に帰国して〉

マイアミ(米国)から、BOAC(今は亡き英国の航空会社)機で出発すると、

機上、膝に紙袋を抱えて、それはひどいフライト。

昨夜は一睡もできなかったけれど、

こうして、やっとこさ、祖国ソ連に帰国して、なんとラッキー……、

と、ソ連のビジネスマンが、自国を讃える。

歌詞の中で、各地の女性を採りあげてあって、

そこでは、ウクライナは ユークレン、グルジアを ジョージア、モスクワは モスカウ、と英語読みで押し通すのは、興味深い。

かの時代、世界は、冷戦中。

東西陣営が対立し、ソ連は東の親玉。

そんな状況を、リアルタイムで見聞きしているのは、現在、アラウンド50歳以上の皆々様に限る?

カーテンの西側に居て、東を礼賛風につづった皮肉、あるいは、まったくの無思想。

歌詞には、新味はないけれど、

チャック ベリーの、Back in The USAのパロディをやっちゃえ、だけで、これだけの作品を創れるところが、出色の才能です。

人気の絶頂にあったビートルズであったからこそ、俺たちにはなんでも歌えるぜ、という自負もあったのでしょう。

これを、軽快なロックンロールに、彼ららしいコーラスを乗っけた曲、というんだろうが、

僕など、通ってた高校の音楽の授業が、なぜか自習の時間となった日、

クラス委員みたいな級友が、じゃあ、今日はこれ流します、といってクラスで聴かされたのが、

このアルバム〈The Beatles〉だった。(僕は初聴でした)

天候のためだろうか、なんだか陰鬱な曲調に思えてしょうがなかった記憶がある。

たとえ、その後に、オブラディ オブラダが続いても、です。

たしかに、たしかに、優れたバンドには違いないが、

このアルバムに到達してみてはじめて、

このグループの力量は、

ポール マッカートニーの音楽的素養とセンス、

それと、プロデューサーのジョージ マーティンの、クラシック音楽の造詣、

これらふたつに大きく依存していたことがわかる。

でなけりゃあ、これほど多く、出来の良い楽曲は生み出せなかったことが。

なにも無理して、ここ2年あまりやってる戦争を引っ張りだす必要もないけれど、

かつての我が祖国ソ連は、いまもあまり変わらない?

では。

ほとんど,デジャヴの公式化 (鳥取戦レビュウ❸)

〈もっと懐疑的になろう〉

先の記事で取りあげた、4 – 3 – 3 (守備時は、4 – 2 – 4 へと変容)が、

まるで、新たな基軸のように、喧伝され、認識されそうなんだが、

実際は、従来も多分に観察されてきた、あるいは、プレイヤーの機転によって表現されたであろうこと

たとえば、山本 康浩のサイドプレイヤーとの連動、

ファーストディフェンス時の 最前線プレイヤーによる遺漏なき連携、

加え、菊井 悠介に高いポジションを与えること、など。

……それらを、システム的な観点から、オーソライズしたようなものなのだ。

そこへもってきて、スコア(4 – 0) がスコアだったから、

新システム = 絶対的な手当てのように受け取る向きもあるやも知れず、やっかい。

ま、このへんは、

最近、ガンズ諸氏は、ずいぶんと(成功には)懐疑的になっていて、単純で、しあわせな救済策、とは考えないだろう。

相手の出方、得失点のあり様によって一変するサッカーにおいて、しかも、実力伯仲のこのリーグにあっては、〈打ち出の小槌〉的な道などあるものか。

だから、仮に、これを採用し続けるにせよ、毎ゲーム、それをより高める努力が重要であり、状況によっては、棄てることもあるに違いない。

〈単純は、時として有害です〉

鳥取ファン&サポーター諸氏は、

今節のゲーム結果を受けて、どうチームを見なしているんだろうか?

願わくば、彼らがひたすら〈精神論〉に走らないことを祈る。

つまり、プレイヤーには、気迫、勝利への意志が足りなかった、とかの結論だ。

でなくて、むしろ、サッカーの方法論と、技量が議論されることを。

(競技者ではない)観戦者が、目の前で起こる事象を直観する際には、

ほとんどみづからの経験によって内面化された規則性に囚われてしまう。

この、いわば、超思考的な制約を、僕らは、たいてい忘れてしまう。

(☞ 超思考的とは、相手の心情をうがつ時に、自分の感じ方を深く投影している、と気づかないこと)

特に、不都合な事実(敗戦など) について、

自己の心象を、あたかも、プレイヤーの心もちとして決めつけておいて、

そして、批判しやすい。

……以上、いま時点での、考え方ふたつを整理しときます。

では。