しばらく前のこと。
ヴァン氏(職場の同僚)が、
― これ、かなり昔のものだけれど、と、
松本山雅の〈のぼり旗〉をひとつ(未使用) くださった。
氏は以前、松本中心部でお店をやっていたから、当時配られたものだろう。
〈この街とともに〉と、あしらってある。
思えば。
強力な親企業や責任スポンサーを持たない山雅であるからには、
単に、松本に本拠を置くだけでは不十分であって、
地域の人々に受け入れてもらえる存在であること、これこそがいちばんの生命線のはずだ。
大げさには、不滅であるためには、
自称熱心なファン&サポーターが背を向けるより、地元一般の方々の不評悪評、これのほうが百倍も危険。
そこで、
オフシーズンだからこそ、
ファン&サポーターとしてできることを見つめよう。
単刀直入には、クラブの足を引っ張らないこと。
身も蓋もない、かなり消極的な表現で恐縮ですけれどね。
❶大局的なことで。
サッカーには取り立てて興味の無い人々のほうが、圧倒的に多いのだから、それを忘れてはいけない。
せめては、おおかたの市民から、好意と関心を寄せていただければありがたい、と思わなくては。
アルウィンは、お借りしているのであって、
広域公園は、山雅がやりたい放題に使えやしないもの。
山雅の公式ページで、サッカー観戦用に指定されている駐車場には、アルウィン周辺に配された、小さなスペースは含まれていないはず。
だが、毎ゲーム、観戦者とおぼしき車輌で占有されている現状。
堤防の決壊がはじめは針の穴から始まるように、こういう細かなところへの遠慮、気配りを欠いては、やがては、クラブの評判に影が落ちるだろう。
クラブには、この点は、見逃さないように願う。
たとえ、他でやっても、ここアルウィンでは、〈不適切発言〉を慎む、とか。
さらに、周囲を不快にするような野次、暴言もよ。
❷小局的な側面
ファン&サポーターが、みづからに(ほぼ無意識に)課した〈桎梏〉から解き放たれること。
桎梏(しっこく)とは、足かせと手かせのことで、要は、自由を束縛するものを指す。
ここでは、〈かつての山雅〉〈いつか見た山雅〉とよく表現される、
過去への憧憬と、その再来を渇望する気持ちや心象、を言います。
あるいは、当時のサッカースタイルを、クラブに永遠なものとする風潮。
ま、このブログでは、いつも指摘してますけどね。
昔を偲ぶのはちっともかまわないのですが、
時間の経過によってかなり純化されている過去によって、現状の良し悪しを云々するのは、かなり危険なところがありまして、
たとえば。
圧倒的な戦績を積みながら、終盤清水の猛追によって3位に転落、プレイオフで、6位の岡山に敗退した 2016季。
それと同様に、やはり、プレイオフで涙を呑んだ 2024季。
単純に、これを同等に比較できるのか?、といったこと。
指導者とプレイヤーの流動性(使いまわし)によって、3部リーグが、戦うに目覚ましく困難となり、
是非はともかく、
ピーク時の、ほぼ半分に近いクラブ収入とチーム人件費をやりくりしながら、
けっこう面白いチーム作りをしてきている、というのが僕の評価です。
これは、僕のサッカーの観方の深まりによるところも大きいのですが、
各プレイヤーの成長、という点で、かなり魅せてもらったのが今季の収穫。
シンボリックなのが、
高卒5年くらいの山本 龍平、村越 凱光、ユース出身のルーキー樋口 大輝、彼等の躍進でした。
その少し前を、野々村 鷹人や宮部 大己が歩いていて、
飯田 真輝が、山雅でキャリアを始めてから成長していった、その踏襲と期待してます。
今季末、レンタルに出した大卒入団者を一気に契約満了とした山雅。
それはそれで残念、
とはいえ。
かつてもこうやって頻繁に出し入れした山雅であることを、都合よく忘れてはいけません。
では。