いまだに儲けたい? Get Back Session

映画『Let It Be』(1970年公開)。

この作品は、前年の1月、ビートルズが ロンドン市内でおこなった〈ゲットバック セッション〉と、アップルビル屋上で演ったライヴコンサートを記録したもの。

ドキュメンタリー、というふれ込み。
演奏の合間の、意味のない会話、ヤラセを思わせるようなおふざけ、そういうものは、初めて観た当時からやたらと気に障った。
ジョークとしての質も低く、ああういうのは要らん。
彼らにしたところで、どうでもいいサーヴィスなんだろうし。

演奏(セッションとコンサートの)シーンだけをつなげたほうが、100倍魅力的なものに仕上がったと思う。

※これは、ザ バンドの解散コンサートを記録した『The Last Waltz』(1978年公開)にも言えること。
『Woodstock』(1970年公開) の編集スタイルに固執するマーティン スコセッシの映画つくり、と言ってしまえばそれまでだが、ことさらに時代感を取り込むやり方には賛成できない※

一緒にやっているビリー プレストンが、周囲からあまりリスペクトされている風がないのも、おおいに不満。

映画の撮影中に、ジョージ ハリソンはグループから抜けることを公言したらしく、そのジョージが連れてきたキーボード奏者となれば、あまり歓迎もされなかったのかも知れない、というのが、勝手なうがちなんです。

で、この映画のために撮られ、いまだ陽の目をみていない未編集のテープが多量にあるらしく、これが引っ張り出され、作品化される。

金儲けのネタは、いつになっても探されているらしい。

You Tubeに、それをチラ見させる格好で予告されているので、興味があればご覧あれ。
The Beatles Get Back – A Sneak Peek~、という題名。
ゲットバック セッションをこっそり覗く、とずいぶん煽るではありませんか。
ご丁寧に、日本語版も公開された。

観てやらないでもないけれど、演奏シーンのみで十二分、という萬年からしたら、半世紀前の、どうでもいい会話や冗談をいまさら饒舌に紹介されてもなぁ、とあまり気乗りはしていない。

はたして、どういったご観客から興行収入を期待しているんでしょうかねぇ。

ではなくて、彼らが創り出した音楽にこそ、集中したいのに。

では。

四天王の行方と、新生。

― 太郎~~~ かなりのショック
ある意味で本当に新生山雅になったね。

……、リリースからわずかして、京子さんから家人に入ったメール。

そして、それから2時間後には……、

― 昨年と比較したら闘えるチームになってる、
楽しみでもありワクワク感はあるかな。

さすがに長年のサポートを通して鍛え上げた卓見、といえましょう。

新チームの編成は、ほぼほぼ最終局面に入った。

チームのスクラップ&ビルドは、トップリーグ復帰が叶わなかった次の年にやって来ると思ったが、やはりね。

プレイヤーの3分の1が毎年入れ替るのが、J参入以来の山雅の常。
であるから、それに輪をかけたぐらいのことなんで、そんなに騒ぐことでもない。

ファンサポーターの気持ちはともかく、トップリーグのクラブでもないのだから、クラブに対するプレイヤーの忠誠度を過度に求めてもなぁ。

ただ、昨季後半での挽回を観る限り、#10、#8、#17、#31は、サッカースタイルの蓄積と洗練、という視点から残したいカードと思っていたので、
勝手に、残留を望む〈四天王〉とか呼んでいた。

―このうち、2枚が契約更新してくれれば、御の字ですわ、と周囲には言いふらしていた。

さて、現時点(1/8 19:00)では、#31橋内のみが、契約更新。
残るセルジ―ニョの去就については、見守るのみ。

ただし、この願望は、#5 と#39 が、完全移籍に移行するだろう、という目論見を前提にしての話。

なので、このふたりの完全移籍こそが、今季の目玉なのかも知れない。

実は、一昨日、小手川完全移籍のニュースに接して、太郎は、ひょっとしたら大分かもな?、とフト思っていたんだが、アビスパとは。

寂しさも    中くらいなり    おらが春、と言っては失礼だが、

おそらくは、J1カツカツの力量チームへの移籍。
ということは、一昨季の山雅への加入と同じシチュエーション。

そういったチームに在って、存在感を更に増すこと、これが、杉本の渡るべき河であって、サイドハーフに圧倒的存在がいないアビスパで定位置をつかんでもらいたいものだ。

いつか山雅がJ1チームの風貌をモノにした時に、再会があれば、と願う。

もちろん、今季の編成の狙いはすべて、みづから変化の先頭に立とうとしている我がチームの意気込みのあらわれと信じている。

では。

父と娘と、音楽と。

ジョー氏の娘さんは、高校生なんだが、ペンタトニックス(Pentatonix)がお気に入り。
ゴスペルが、好きなジャンルのようだ。

この5人組のア カペラ グループは、賛美歌も多く取り上げているから、たしかに、ゴスペル風なアレンジは巧い。

なかなか良い趣味ではないか。
と思うんだが、オールディーズナンバーには興味が無いようです、とジョー氏は、残念そうに言う。

この親子の齟齬については、今日の若い世代が、ロックンロールのリズム感よりは、メロディアスな楽曲のほうにより惹かれる、としておこう。

で、そう言いながらも、レッド ガーランドのリリカルなピアノソロから始まる、マイルス デイビスの『My Funny Valentine』を、聴いてばかりの萬年ではある。

この演奏などは、相当にメロディアスだなぁ、と思うんですがね。

もちろん、ペンタトニックスは、またの機会にでも。

では。

〈コメント〉
らっこ さん より(2/8 19:56)
コメント失礼します。ジョー氏の娘、らっこです。
高校の体育の時間にダンスを習ったのですが、その時に踊ったのがPentatonixの「Can’t sleep love」でした。
初めてこの曲が流れた瞬間、なんてお洒落なんだ……と自分にビビっと来るものがありました。
人間の声とは思えないくらい重厚感のある安定したベース、スっと耳に入ってくる美しいハーモニー、それらに乗って自由に動く滑らかなメロディー……
今でさえ、聴いていると何とも言えない気持ちになります。
そして歌詞を調べてみると、この曲は「眠れないほどの愛をいつまでも渇望してしまう気持ち」がテーマにされているのだと思いました……。
眠れないほどの愛を渇望したら、愛を見つけた時、それが本当のものだとしても人間は不足を感じてしまうというか、渇望していたら愛が勿体ないのではないか、と私は思いました。
まぁ、自分はまだそんな愛を知らないから何とも言えませんが。いつか本当の愛を知ったあと「Can’t sleep love」を聴いたら今とは違う感じ方をするのでしょうか?
これも曲に出会うことの楽しさの1つだと思います。
コメント失礼しました。

困難が シンデレラ ボーイを。


註:ドライブスルーマルシェでもらった、#17直筆サイン入りカード。

ルーティン(日常の繰り返し)が心地よくなったら、みづからを新しいチャレンジに追いやれ、と書いたのは、P.F.ドラッカー先生だった。

あえて、こういう言葉が発せられるのは、僕たちが、たいていは生活をすこしでも居心地よくしようと、生きているからに違いない。

家人は(きっと口を滑らせたんだろうが)、萬年の部屋を、物置、と呼んだけれど、親密で雑多なものに取り囲まれてソファーに身を沈めていていいのか?、とたまには自問することだってあります。

さて、塚川 孝輝がオファーを受けて、川崎フロンターレへと移籍していった。

在籍2年、でも実際のつきあいは、昨季になってから。

飄々と、物怖じしない〈ノブイ〉(松本弁)プレイで、突き進め。

息子の指摘によると、あれだけの長躯と身体能力を備えて、センターライン(ボランチやシャドウ)を担えるタレントは、(日本では)稀ではないか、とのこと。

シレっ、とスペースに入り込んで来る切れ味は、たしかに光る。

2015年の船山の記憶は萬年に、新チームが塚川に、ボールの出し手と受け手のどちらかを求めているかを、大いに気にさせる。

川崎には、ボール保有の技量によってスペースを創り出せる才能が多いから、塚川の侵入能力を存分に引き出してもらいたい、とは願う。

ところで、今回の高校サッカー選手権のベスト8には、帝京長岡高と富山一高の名が在った。

このふたつを含む、全10チームで構成された、2020北信越プリンスリーグ。
(内訳は、高校が6つ、Jユースが4つ)

松本山雅U-18は、昨年ここで戦い、最終順位が、5位。

コロナ禍のため、変則的なゲーム日程となった中、この二校とやって、
対帝京長岡    ⇒ 0 – 1 (リーグ戦)
対富山一高    ⇒ 5 – 0 (順位決定戦) ……、という戦績。

で、今季も、このリーグで戦えることが、素晴らしいこと。

シンデレラボーイは、厳しい環境の中からしか生まれない、と思えば、より楽しみが増す、というものだ。

では。

いつか見た夢 になれ。

某自動車メーカーの、アジア担当としてシンガポールに在住の友人。
その年賀状には、こうあった。

―コロナで 一年間シンガポール島に閉じ込められていました。

文面から、改めて、ただ事ではない2020年だったんだなぁ、と察せられる。

で、興を覚え、シンガポールにおける感染状況をみてみると、
日ごとの感染者は、このところ20数名で推移している様子。
死亡者は累計で 28名となっていて、ここ3箇月くらい発生していない。
コメントには、死者を含めた重症例が少ないことをほのめかしたいのか、感染者は、20~30歳代が占めている、とある。

とはいっても、かの国にだって高齢者が大勢住んでいるのだ。
友人のように、皆が〈閉じ込められて〉ひっそり生活しているんだろうか?

情報はメディアやSNS上に溢れているようにみえても、現地の実相が、キチンと頭に入る報告がきわめて少ないのは、この流行り病に限ったことでもないけれど、COVID-19に関しては、あまりに酷すぎる。

思うに……、
❶この疾病対応について、総合的判断を下せる権威(とみなされる)者がいない。
(感染症専門家には、医学的所見だけが期待されている。ゆえに、社会的な対応策を論ずるドクターは反感を買っている)

❷ ❶の結果、
コロナウイルスの行動阻止の手当てのことよりも、ダメージとしての勤労/学業生活と、経済の苦境に関して議論が紛糾するが、最適解が見えてこない。

国政トップからはじまり市井の一個人が、遠慮なく持論を述べられる世界だ。

個人的見解を、まるでオーソリティを装って提示しても断罪されない、あるいは、存在を、社会的に抹殺されることもなさそう。

まぁ、いいたい放題で、責任を取らなくてもいいのであって、こういう分野、他にはあまりない。

新型コロナウイルスの行動は、医学的に解明されつつあるから、各自で薦められる対処をこの一年やってきた。
それがどのくらい切羽詰まったものどうかは人それぞれ、組織それぞれ。

ただ、入り口としての対処と、結果(出口)としての、累計死者3,500人。

これについては、どこの誰が評価してくれるのか?、となると、これがさっき書いたように、皆無。
だあれも、対コロナに関する社会経営の権威者たらん、とは望まない様子。

責任は取らないけれど、文句は言う、ってやつばかり。

予防の徹底度はともかく、一年かけて3,500人ならば、シーズンになると、数箇月かかって同等な死亡者で推移してきた季節性インフルとたいして変わりないじゃん。
……と割り切ったうえで、医療と社会生活で対応する、でよいのでは?、で何が悪い。

世界の大半が、枯れ尾花(ススキ)を妖怪と勘違いするような幻想にとらわれた挙句に、要らぬ社会的制限を強行した、そんな意見だって否定できない。

で、日本は、個の行動を強権発動で制限していない、という稀なお国。

これをとやかく言うつもりも今はないけれど、おそらく着地として狙っているのは、予防接種を使いながら、毎年数千人程度の死者で推移する世界なんだろう。

これを悪い夢、と思うことが甘いんだろうね。

では。