我がチームを知る ❶(やがて#10 を)

これでもか!、って感じの、完全移籍のリリースには、少々驚いた。

おいおい、こんなにやって、お金は持つのかいな?、と下世話な心配もしたくなる。

昨季は水戸でリーグ第4位の 15得点をマークした、山口 一真の入団がそれだ。

山口は、11/29対愛媛戦で負傷し、その後、左膝の前十字靭帯および外側副靭帯損傷と診断された
全治は不明だが、とにかく治療と回復に専念するのが、当面の仕事。

山雅にフィットすれば、おそらく将来的には、#10を背負う才能には違いない。

水戸では#10だったゆえに、加入の報に接した時は、喜びよりも先に、水戸ファンの落胆が思いやられてしまった。

(他チーム経由を含め) 山口に加え、安東 輝、浜崎 拓磨、戸山 凌、佐藤 和弘の面々が揃えば、我が山雅は、ホーリーホックの資産を運用している、と言われても仕方なしか。

こうなったら、そんなヤッカミもむしろ、すがすがしく受け止めてしまえ、ってもんだ。
アウェイ茨城のスタジアムで、風とブーイングを心地よく感じる日、が戻ってくることを期待して。

さらに、出身校で串刺ししたら、外山(2016年卒)、山口(2017年卒)、大野(2018年卒)は、阪南大学で括られるんですな。

ついでに、アントラーズから、レンタル終了を狙って3年連続でプレイヤーを獲得とは。

―柴田さん、84ゴールとぶち上げちゃったけどさぁ、今回の補強で、これ、冗談事でもなくなるかもよ。

―そんなこと言って。あなたを真に受けて期待した挙句に、がっかりさせられることばっかり。

もちろん、物事そんなに単純でもないけれど、現在籍プレイヤーの昨季のゴールを合算すると、これが、50得点。

山雅の2020年の得点は、44。

つまりは、なんとか昨年並み以上のゴール、というところにはたどり着いた、とするのは、楽観的過ぎますかね?

たとえ道は暗くとも、少しは、僕のこと信じてくれてもいいだろう?

この曲に乗せて言いたい夕暮れもあるさ。

では。

青森山田が主役だった? (高校サッカー選手権)

常田 克人の完全移籍による加入は、グッド ニュース。

DF内の競争もより激しさを増し、かつ、相手の攻撃を摘むだけの役割でなく、(サイドのプレイヤーと連携することで)攻撃の起点としても期待されるだろうから、ますます奮起を望みたい。

その常田の母校、青森山田高が、決勝戦(1/11)で 山梨学院高と対戦していた。

さらに、山梨学院は、大野佑哉の出身高。

他の用を足しながら、たまに画面に見入る、といったおすすめできない観戦になってしまう。

局面局面でのプレイでは、青森山田が優っており、終始優勢を保つようにみえた。

山田は、相手がどうのこうのではなくて、あくまで自分らが積み重ねてきたサッカーを敢行。

対し、山梨学院は、力量に劣ることを前提にして、ゲームをやりくりしているような感じだった。
少ないチャンスを決め切り、一点を大切にする作戦、といったような。

〈学生〉スポーツには、それほど感動を覚えることのない萬年からすると、この試合、シーソーゲームになったのは、たがいの守備が脆弱であったため、に過ぎない。

ペナルティエリア内やゴール前での密集と混戦。
こういうことへの対処は、ディフェンスとして実に厄介。

となると、多くのチームがこういうシーンを作ることに腐心するのは当然のなりゆき。

延長をやって引き分け、結果、PK戦で敗れた青森山田であったが、
そもそもPK戦までいく、なんてことは頭の中にないチームなんだから、工夫もあまりなくて散ったのは、当たり前でありました。

では。

目からウロコの、共闘宣言。

目からウロコが落ちる、とは新たな理解力や観方が備わること、の譬え。

出典は、バイブル(新約)の使徒行伝、第9章。
クリスチャン迫害の急先鋒であったパウロ(旧名サウロ)が、神によって失明し、その後、視力が与えられた場面に、そう記されている。
(であるから、ヘブライ文化がこの言葉を産み出した)

まぁ、実際には、普段からそれについて思考していることが根底にあって、なにかのきっかけで、インスパイアされたり、確信を深めることが多い。

たとえば、ニュートンの林檎は、その例。
日ごろ引力の速度計算について思い悩んでいたからこそ、林檎の落下に確信を受けたのだろう。(ただし、そのエピソードが本当かどうかは怪しい)

新加入の、#7田中パウロの挨拶に触れた際、個人的に目からウロコ、という感銘を受けた。

力を合わせて戦いましょう、という文言がそれ。

どんなメンバーであっても山雅は山雅、それを言い表す最高の言葉だとあらためて教えられた、といえばよいのか。

すべての場面で〈共闘〉、まづは、共闘する舞台アルウインの再来を。

ひとりのファンとして、この気持ちを持って開幕を迎えたい。

では。

突き詰めて、#10。

相方にとって、音楽分野における昨年いちばんの収穫は、吉 幾三の才能に開眼したこと。

その吉の、『雪國』。
たしか、追いかけて~、雪國。と歌詞にある。


それとおんなじノリで、突き詰めて~、#10(が空いて)、が、山雅の2021シーズンの入り口となった様相。

この記事を書いている時点(1/10 16:00)で、セルジ―ニョと森下 怜哉ふたりの去就が不明。

森下は、移籍期間の満了が確実視。
新監督下、C大阪の編成遅れによってリリースが延びているのだろうか。

さて、(きっと新加入メンバー記者会見ハイライトを観たはずの) 家人いわく、

―今年も期待して応援できそうだわ。

前#8 の流出の痛みを癒しながらも、いちファンとして前を向く姿勢へと変換できたのは、おそらく、加入会見から受けた、確かな手ごたえのようなものによって、というのが萬年の推定。

それほどに、鐵っちゃんは、編成部長として厳しく落ち着いた容貌をみせているし、各プレイヤーからは、静かな、けれど確固たる闘志が伝わって来た。

ふむふむ、既存戦力との融合かぁ、たしかにね。

新体制の序章としては、まぁまぁ上手い仕上がり方だったように思う。

かなり前から助走していたとは言え、リーグ戦終了から20日。

その間、出入りや更新のリリースを積み上げてくる手順も、そつがなかった。

時間が限定されて切羽詰まっていると、案外、仕事の出来栄えも良い、という好事例なのかな。

そういってしまうと、編成部長に失礼か。

では。

いまだに儲けたい? Get Back Session

映画『Let It Be』(1970年公開)。

この作品は、前年の1月、ビートルズが ロンドン市内でおこなった〈ゲットバック セッション〉と、アップルビル屋上で演ったライヴコンサートを記録したもの。

ドキュメンタリー、というふれ込み。
演奏の合間の、意味のない会話、ヤラセを思わせるようなおふざけ、そういうものは、初めて観た当時からやたらと気に障った。
ジョークとしての質も低く、ああういうのは要らん。
彼らにしたところで、どうでもいいサーヴィスなんだろうし。

演奏(セッションとコンサートの)シーンだけをつなげたほうが、100倍魅力的なものに仕上がったと思う。

※これは、ザ バンドの解散コンサートを記録した『The Last Waltz』(1978年公開)にも言えること。
『Woodstock』(1970年公開) の編集スタイルに固執するマーティン スコセッシの映画つくり、と言ってしまえばそれまでだが、ことさらに時代感を取り込むやり方には賛成できない※

一緒にやっているビリー プレストンが、周囲からあまりリスペクトされている風がないのも、おおいに不満。

映画の撮影中に、ジョージ ハリソンはグループから抜けることを公言したらしく、そのジョージが連れてきたキーボード奏者となれば、あまり歓迎もされなかったのかも知れない、というのが、勝手なうがちなんです。

で、この映画のために撮られ、いまだ陽の目をみていない未編集のテープが多量にあるらしく、これが引っ張り出され、作品化される。

金儲けのネタは、いつになっても探されているらしい。

You Tubeに、それをチラ見させる格好で予告されているので、興味があればご覧あれ。
The Beatles Get Back – A Sneak Peek~、という題名。
ゲットバック セッションをこっそり覗く、とずいぶん煽るではありませんか。
ご丁寧に、日本語版も公開された。

観てやらないでもないけれど、演奏シーンのみで十二分、という萬年からしたら、半世紀前の、どうでもいい会話や冗談をいまさら饒舌に紹介されてもなぁ、とあまり気乗りはしていない。

はたして、どういったご観客から興行収入を期待しているんでしょうかねぇ。

ではなくて、彼らが創り出した音楽にこそ、集中したいのに。

では。