プレミアリーグの創設?

大分トリニータさん、ありがとう!

佐藤、小手川に続き、なんと、山雅へ、町田 也真人が再加入か、明日4/2の移籍ウインドウ締切を前に。
……、は、もちろんエイプリルフール、ってやつ。

―Jリーグでね、プレミアリーグ創設を検討するんですって(家人)。

ほう、丹念に情報を拾っているではありませんか。

そこで、チョイとニュースを斜め読みした。

斬新なアイデアのひとつとして、これを議論の俎上に乗せる、ということらしい。
14~15チームを想定か。
現状20チームから資金的に青息吐息の6チームを削る、ってことかいな?
楽天ヴィッセルなんかは、参入に即手を挙げそう。

議論はどんどんすべきでありましょう。
ただし、ここまでは行く、という限界点を明確にした上で。

どうも、イングランドをお手本にしている感じ。
最上級リーグ(1部相当)を、プレミアと呼ぶところなんかに、露骨ですな。

イングランドのプロサッカーの構成は?、というと……、

・プレミアリーグ (1部相当 20クラブ)
・EFL(English Football League)チャンピオンシップ (2部 24クラブ)
・EFLリーグ1 (3部 24クラブ)
・EFLリーグ2 (4部 24クラブ)

……、計92クラブからなる、4階層のピラミッドを成していて、各リーグ間には昇降格のはしごが在る。
以下に、実質5部のナショナルリーグ(プロアマ混在?)と続いていて、裾野は広く、深い。
渡英した息子の友人は、このあたりのリーグでプレイした、と聞いた。

EFLの創設は、1888年(世界最古)。

1992年になってプレミアリーグが創設されるにともない、EFLはその下部リーグとなった。

要は、歴史は古く、全英フットボール協会が管轄するリーグは 11部まである、というハンパなさ。

こういう先達を横目にみながら、Jリーグはいろいろ模索しているのだ。

ところで、プレミアリーグ導入とともに、外国籍プレイヤー枠の撤廃も検討されるらしい。

現行は、登録は制限なしで、ゲーム時は、J1は出場最大5人、J2&J3は最大4人。

これを、ゲームに何人出てきても良い、としたいわけか。

面白い構想だとは思う。

けれど、獲得資金面の問題はさておき、外国籍プレイヤー枠が撤廃されても、イングランドプレミアリーグのような外国籍盛況の図は、おそらくは生まれない。

いまだに、手垢に汚れた用語〈助っ人〉で、外国人差別をしている社会では、門戸開放において、放っておいても歯止めがかかるだろうから。

だから、いますぐにでも、外国籍プレイヤー枠なんか取っ払っても構やしない、というのが萬年持論。

いざとなると、先生!、と呼ばれて出てくるやくざお抱えの用心棒は、せいぜい2~3人ではないか。

イングランドプレミアリーグをベンチマークとするのなら、まづは最初に、膨大な資金を投入できる外国資本(組織&個人オーナー)参入を許容すべき。

でないと、差別化されたビッグクラブは生まれないし、チームの大半を外国籍プレイヤーで編成する、という発想もみなぎらないだろう。

※英国プレミアリーグにおける外国籍プレイヤー活躍は、EU加盟国のクラブチームでは、ボスマン判決(1995年)により、外国人扱いされない事情が決定的な要因になっている。

では。

この春を 忘れない。

― あれは、梅でもなくて、やっぱり桜なんだ……。

沿道で、花をつけている樹を眺めては、我ながら間抜けな自問自答をしている。

3月の末、そこそこ満開な櫻花を観るのは、静岡や山梨での話、と思っていたので、どうしてもにわかに信じられないでいる。

今年は稀有な春だった、とせいぜい憶えておこう。

おかげで、西行(1118 ~ 1190年)の短歌が、当地でも同じ季節感で味わえた。

    ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ

『山家集』(巻上 春) に収められている。
詞書は、花の歌あまたよみけるに、とあり、桜を詠んだ多数の中にある一首。
(当時、和歌の世界で、ただ花といったら、桜を指した)

読みやすいように濁点などを振って、訳すと……、

    願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ

(できることならば、桜の花の下、春に死んでいきたいものだ、如月(二月)の満月の頃に)

西行は、文治6年2月16日(1190年3月31日)に亡くなった。

まさに、この歌に詠んだとおりの往生は、当時の学芸世界の住人に、かなりの感動を呼び起こした。たとえば、藤原 定家とか。

大げさにいえば、文学史上の奇跡、であったわけです。

なお、昨晩は、薄曇りの中、満月の翌々日の月(居待月)がぼうっ、と浮かんでおりましたよ。

西行の没後、ちょうど831年が過ぎたその夜は。

※西行と同じ年に生まれたのが平 清盛と憶えておくと時代感がわかりやすいか。清盛は西行よりも9年早く亡くなった。

では。

ひと粒で 二度おいしい理由。

― かならず二度楽しめること、それはなにか?

答えは、孫の来訪、というのが、萬年式ナゾナゾだ。

子の子、すなわち孫は、来ても嬉しく、帰って行く時もまた、嬉しいもの。

そのワケは敢えて言わないけれど、実感をお持ちの読者諸氏は多い、と思う。

ある日、5歳になった孫に、ナゾナゾ遊びを仕掛けてみた。

― 道端に、赤い顔をして立っていて、葉書を食べてしまうものは?

こういうのは、説明を加えながら、正解にたどりつくことができる。

次に、

― 大きいものは入れて、小さいものは入れないものは?

と言いかけ、途中で言葉を飲み込んでしまう。

正解は〈蚊帳〉なんだが、きょう日、とても使えないネタなことに気づく。

ナゾナゾの古典も、いまや風前の灯だ。

では。

水は運べるんだから (2021.3.28 水戸戦レビュウ)

0 – 3 の敗戦。

来客があったり、荷物の搬出があったりする中で、DAZNの画面をちょいちょいと観る、そんな慌ただしさとなった。

前半は、なかなかの出来ではないか、風を利することができる後半が楽しみだわい、と思っていた。

しばらくして戻ってみたら、なんと、ペナルティスポットにボールが置いてあって、その向こうに圍 謙太朗が構えているではないか!

77分の失点。
水戸がボールを右サイドに散らしておいて、受けたプレイヤーが、駆け上がって来るサイドバックに渡すタイミングをみているのが自明な攻撃。

そこ、外側からクロスを入れるであろうプレイヤーに、誰も詰めに行かないの?、と思っていたら、案の定。
フリーで中に入れられて、失点。
この2点目が、ゲームの帰趨を決定づけました。

必死に両手で掬い取ろうとしていた勝ちが、無残に抜け落ちる、そんな感覚。

運動量をいとわない、献身的な中盤、つまり、有能な、水を運ぶ者はいるんだから、詰めるべきは、ペナルティエリアのラインにまで、ボールが到達した時。

シュートなのか、セカンドボールを予測したアプローチなのか、シュートを打たせるお膳立て(シュートコースを開けること)なのか。

最終の直前、黒子は誰が担うのか。

たとえば、岩間 雄大のような存在を、誰が引き受けるのか、割り当てるのか。

3分2敗。

こうなると、この世の常で、どうしてもネガティヴな雑音も湧いてくるが、チーム山雅はどうかギスギスせず、着手したことに突き進むのみ。

前 貴之の負傷もあまり重篤でないようであるし、橋内 優也は復帰できたし、さらに、平川 怜はインテンシティを有することがわかったし、篠原 弘次郎のロングフィードは、シャープで気が利いている。

その意味で、ターニングポイントのゲームなのかも知れませんよ、後から振り返った時には。

では。

道 についての雑感。

ここ数日来、せいぜいその内容はハイライト映像で観るくらいなんだが、大量得点ゲームの報せが多い。

大宮 4 : 長崎 0 (3/27)
新潟 7 : 東京ヴェルディ 0 (3/27)

これらは、同じリーグの話ゆえに、けっこう胸が高鳴るけれど、むしろ大量失点した側の心情が思いやられてしまう。

海外に目を向けると、リーガ エスパニョラ (スペイン1部)では、

レアル ソシエダ 1 : FCバルセロナ 6 (3/21)

ダビド シルヴァを擁し5位あたりで健闘しているソシエダがまさか、とは思ったが、このゲーム、シルバはベンチ入りさえしていなかった。

6点も獲れば、最後のほうは得点時のセレブレーションはごく醒めたものになるもんだが、全員がきっかりとひとつに集まってくる律義さ。

入れて当然、といったスタープレイヤーの驕りを、全く感じさせないバルサには、感動する。

こういうゲームが気にかかるのは、おそらく得点産出に苦しむ我がチームのことが、抜けないトゲのように、いつもココロの底に在るからだ、きっと。

4~5年来ずっと、得点の乏しい山雅であるから、ここへ来てことさら気にすることでもないはずだが、〈新生〉に、いつかしら得点力の向上、を勝手に描き込んでいる自分がいる。

本日のアウェイ水戸戦にしたって、自分を失わずに平常心でプレイすれば良く、出口の勝敗をあれこれ気にするな、とチームには申し上げたい。

雨中、水戸へ出向くチームとファンサポーターには、心から感謝します。

こんなことを寝転がって考えていたら、ちょうど今から100年前に書かれた短編の末尾が、胸に去来した。

〈希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る〉(『故郷』魯迅  井上紅梅 訳)

では。