『ジャコ萬と鉄』観戦記。

つーさんの、つーさんによる、健さんに捧ぐ レビュウなんである。

(当ブログでは、この作品について 6/22に論じた。ご参照あれ)

以下、引用です。

萬年氏にお借りしたDVD楽しく観させていただきました。
感想を簡単に。
久兵衛とその家族、鉄とジャコ萬の登場とぶつかり合い、ヤンシュ達のストライキ、海での嵐そして漁のシーン、ユキのジャコ萬への恋心等々、沢山の要素がテンポ良く語られ、最後まで一気に観させてくれました。
とくに番屋での宴会シーン、待遇をめぐる団交のシーンは、黒澤明得意の群衆劇を彷彿とさせ、また鉄の踊りが一番の見せ場であろう場面は、全員の合いの手もぴったりあい大変圧巻でした。高倉健もここは大事なシーンと、かなり気合いをいれ張っちゃけているのが伝わります。
名優浦辺粂子の名演技で、九兵衛一家も以外に暖かみのある家庭に描かれています。仕事一途、儲けが全ての九兵衛も決して悪人ではないようです。威厳の中にも時折人間的な感情とユーモラスな部分を見せ、山形勲会心の演技かと。
アイヌの血を引く娘ユキの一途な恋心、破天荒ながらややユーモラスに描かれ、特に何度か馬橇ですれ違う鉄とのやり取りが何とも可笑しい。
最後のアクションシーン、斧で網に繋がるロープを切る事は、ヤンシュ達の生活の糧を失わせる事、ジャコ萬と鉄の駆け引きは秀逸でした。
最後、鉄の粋な計らいでユキと共に立ち去るジャコ萬、貫禄のある演技と流暢な台詞回しで、落ち着いた役が目立つ丹波哲郎も若い頃はこんな役もこなしていたのですね。この最後のシーン、西部劇のラストシーンを思わせます。
そして、高倉健はいかにも若く、明るく爽やかな、人望の厚い、そして女性にはやや純情な好青年を演じていました。それでも、やはり北海道が良く似合い、喧嘩が強く、人から慕われる健さんは偉大な不世出な俳優であると再認識させられました。
原作を読めば、多分映画以上のスケール感を味わえると思いますが、映画は真面目に忠実に原作を再現しているように感じます。
また高倉健、丹波哲郎以外の沢山の俳優陣も一体となって、全員で作り上げた感が強い作品でした。
番屋内でのシーンは、どれも印象的で、舞台劇にしたとしても、迫力ある面白い芝居に成りそうな気がします。
原作、脚本がしっかりしているからこそ出来る完成度の高い映画だと素人ながら思います。
最後に、キーパーソンとなる大阪こと江原真二郎を忘れてはいけませんね。
では、また。

〈コメント〉
☞萬年より
そうです!
この作品のポイントは〈西部劇〉であって、そこを見抜くとは、さすがつーさんです。

最後、ジャコ萬とユキが山のだんだら坂を登っていくシーンは、シェーンへのオマージュとも読み取れるんですね。しかも、ハッピーエンドな。
(註:シナリオ自体は、シェーンより数年早く成立している)

さて、『赤い谷間の決闘』(1965年 日活)は、裕次郎と、最近亡くなった渡 哲也の主演作。
舞台はこれも北海道(留萌)で、石切り場の労働者群像が描かれる。
渡が大学を卒業し立ての詰襟でご登場だ。
最後の、決闘におもむくシーンが、これまたシェーンからの翻案というのがみえみえの、ウエスタン仕上げ。

~決闘は、1966年のお正月映画として公開されていて、併映作は『四つの恋の物語』です。
こちらは、芦川いづみ、十朱幸代、吉永小百合、和泉雅子と、看板女優を4枚揃えたサーヴィス。
プログラムピクチャーによる興業の全盛期。

なお、ジョー氏は、ジャコ萬と鉄、とても日本語として聴き取れないため、途中で投げ出したとのこと。当時の録音技術の限界なのか、世代的な言語感覚のズレなのか、なかなか面白い現象だと、思っています。
では。

 

たとえ無残であっても (2020.8.29徳島戦レビュウ)

―観るに値しないゲームでしたね。

ゲーム後、駐車場への道で或るご家族に、こう挨拶してお別れした。

山雅としては、返金に値するゲーム。
でも、見事なゲームをやって魅せた徳島イレヴンがあったから、チケット代はくれてやる、という意味だ。

―ゲームの途中から、観る気が失せてしまって……。(そのご家族の娘さん)

―去年(トップリーグで)つまんない試合ばかりと文句言っていたのが、今となっては、ごめんなさいだわ、これ。
たとえ敗けても何かが残るようなゲームとは程遠いし。(二人組の青年)

―だれが、拍手なんかするものか。(ゲーム後、近くで観戦していたご婦人)

1 – 3 のスコアそのものよりも、サッカーをさせてもらえなかった、ゲームにならなかったことへの痛ましさと憤慨なんですよね、アルウィンを支配していたのは。

かと言って、単なる先祖返りや途中で投げ出すことを、皆さん望んでいるわけでもないでしょうから、次のゲームにも、やはり足を運ぶんだろう。
けれど、一番怖いもの、プレイに観たくないもの、それは〈諦め〉かな?

ゲームを総括するならば、プレビュウで悲観的に予想したまんまのサッカーを徳島に遂行させてしまった、これに尽きるでしょう。

徳島の3バックは、センターバックふたりに、ボランチ岩尾が降りてきて構成する。この三人と、もうひとりのボランチ小西が菱型を形成してボールの起点となって、他のプレイヤーはワイドに高い位置を取って前に向かう、そんな感じ。
守備から攻撃へと起動する流れが、すでに出来上がっている。
特に、岩尾は底辺と中盤を自由に行き来して、配球を切り盛りする。

この陣形の術中にハマったのが、昨夜の山雅。

ボールを狩りに行こうとしても、前線と中盤、さらには最終ラインが、相手への寄せに向かうことで間延びさせられ、連動性を削がれ、かつ左右に振られる、これの繰り返しでした。

ボールを奪ったり、手に入れても、味方の距離感が悪いので、次なるプレイヤーに展開できない、というありさま。

当方のボランチのところで奪取がなかなか機能しないため、米原から藤田に変える。そして、より厳しく岩尾をマークにかかると、事態は少々カイゼンしたものの、スコアが動くと、徳島はよりリラックスして選択肢が増した。

捕まえきれず、交わされて逃せば、そのまま持ち込まれ……。

4年かけてここまで作り上げた徳島スタイルを、まづは辛くとも認めるべきであって、次回対戦ではそれをひっくり返す戦略と戦術を身にまとわないといけない。
ですが、なんと、わづかひと月後(9/26)には、その試練が控えているとは。

挽回のポイント、と思われるのは?

ひとつは、ボールを狩れるプレイヤーの配置。
ふたつとして、狩ったその次、さらに、そのまた次のプレイヤの連動性を可能にする組み合わせ、これしかないでしょう。

相手は、みっつ先まで考えてプレイしているわけですから。

では。

失敗から学べる特権。

たまにメールのやりとりをしている旧友からのメール。

彼が昔から(おそらく嫌になるほど)たくさん聴き、あるいは演ったであろう、
ビートルズのナンバー(Hey Jude) をカヴァーしているYouTubeのテスト動画が添付されている。
動画の出来について意見を訊きたいとのこと。
これからじっくりと視聴して、思うところを書き送ろうと思っている。

ビートルズかぁ……。
すると、ジョージ ハリソン(1943 ~ 2001) の詞の一節が頭に浮かぶ。

―With eyery mistake, we must surely be learning
 失敗するたびに、学ばないとな。

僕たちの世代の大方は、退屈な高校の授業からでなくて、こういう歌詞で英語のイディオムを多く識った。

老いぼれた山雅ファンとなった今、現在の苦闘に、この言葉が重なって想起されるとは。

さらに、こんな歌詞でみづからを元気づける。

―I have to admit it’s getting better
    良くなっているって 認めていいんじゃないか。(by レノン&マッカートニー)

点でなく線でみれば、山雅の目指す地点と進歩は可視化されている、と思っているのだ。

たとえ、勝ち点は、点であるゲームの結果で積む、としても。

今回は、フィル スペクターの『To Know Him Is To Love Him』(テディベアズ、1959年発表)を ビートルズがカヴァーしたやつ。

お、マジメに演ってるじゃん。

なお、元歌は女性がリードヴォーカル、ここは男性が歌うので  him ➩her となります。

では。

〈コメント〉
☞つー さんより (8/29 16:50)
性格の向上より生活の向上を
人生に躓く度に、これは神が与えた試練、それを乗り越えれば人は成長する、などと言われるが私の場合、失敗から学んだと言う事があるのだろうか。
失敗の度、「逃げるが勝ち」「触らぬ神に祟りなし」「君子危うきに近寄らず」と言ったマイナス思考を深めるばかりで成長の痕跡はほとんど見られないように感じる。
けれども、成長しないまま老いぼれを自覚するこの歳まで来てしまって、それにも関わらず今居る場所の居心地は決して悪くないと思うようになった。
むしろ良くなっていると認めていいんじゃないかと思う。
性格は向上せずとも、人生なんとか成るものだ。
では、また。

【加筆です】徳島戦プレビュウ 。

……先のプレビュウに、蛇足をば少々。

〈攻撃面で 変調を多用せよ〉
ヴォルティスが、その思うようにゲームを進めれば、こちらに勝ち目は限りなく少ない。

リーグで3位につけているのは伊逹じゃなく、自分たちのスタイルで戦えるゲームを重ねている証拠だ。

だからと言って、徳島スタイルを分断するために、あまりに汲々として守備的になるのもどうか?
相手=攻撃的、なので当方は専ら守備的に、では工夫がなさ過ぎでしょう。

しかも、下手に守備ラインを下げた日には、ディフェンス時身体の張り方に不満がある現状では、ペナルティエリアに押し込まれて万事休す、が目に見えている。

我慢して後方に下がらないで、高い位置でボール奪取することに注力、あとは手早くサイドへ、中央を経由してサイドへを多用して、シンプルに決めきる。

いくら足元から足元へパスを重ねても意図を読まれて、脅威にはなりにくい。
パスワークのリズムに変調/乱調を生み出すのは、ダイレクトパスによる加速と、空いたスペースにボールと人が同時に入っていくことの2点か。

〈イーヴンなボールを敢えて使う〉
そのまた先のボールを獲るために、意識的にボールをどっちつかず(=イーヴン) にしておいてから回収。
ロングフィードによる競り合いの価値が、ここに在る。
徳島は飽くまでボールを支配したいのだから、その流れに石を投ずる、という策。
で、競って落ちたボールの回収に徹する。

〈フォーメーションの選択は 重要〉
これ、スタッフの悩みどころでしょうね。

徳島が3バックで来ると予想して、4バックを採用した前節京都戦の成果をさらに深掘りするのが良いか、と思います。
フタを開けてみて違ったら、必要に応じて修正ということで。

ひょっとして徳島が2トップで来たら、3バックにするにせよ、その時でも、
3 – 4 – 1 – 2 で、攻撃的にやってもらいたいですね。

すくなくともこのリーグにあっては、切羽詰まっての劇場開幕を必要としないようなゲーム運び、つまり、主導権を握る時間を長くするやり方にもっと習熟していかないといけません、山雅は。

J2の土俵でヒイヒイ言っているうちは、上のステージに落ち着くのは尚早というもの。

では。

山雅流に徹せよ (徳島戦プレビュウ)


〈あえて総括を……〉

3分の1を終えて、多分に印象論になるが書いておきます。

❶友人の奥さん曰く、
山雅の闘いぶりが、あっさり(失点)、淡泊(ボールへの執着心)なので、とても熱くなって応援できない。
―なるほどな、と思う。

❷例えば、Aチームと対戦する。
すると、そことの勝敗に、A対B、山雅対Bの戦績がそのまま反映することがほとんどだ。
となると、千葉に対して前節2 – 1で逆転勝ちした徳島と、千葉に 0 – 3を喰らった山雅が対戦すれば、これは、なんとも切ない結果になる……。

萬年の中では、対町田戦(7/29)が、ワーストゲーム。
連動性に乏しいから、ほとんどの局面で後手を踏んで、強みを表出できず。
町田は、李 漢宰と中島 裕希を帯同までして準備、このゲームへの執着心でも優っていたのかも知れない。


〈徳島の容貌とは〉

監督4年目となると戦術理解と練度の深化、これをまづ受け入れる必要あり。

前節千葉戦の前半を観る限り、グラウンダーのパスで最終ラインから組み立てていって、ロングボールは、サイドチェンジか、相手DF裏を急襲する時以外は禁じ手。
攻撃は、究極、サイドを崩して侵入してクロス、あるいはカットイン。

千葉が堅い陣形をベースにして前からボール奪取に来ても、巧みなパスワークでかいくぐって前に向かう。
どこか大分っぽさを感ずるが、かと言って極端に誘うわけでもない。

徳島の攻撃思想は、数撃ちゃ当たる方式ではなく、確実な攻撃でしとめることを重視する。
やたらむやみに走らない。
巧緻なパスで交わしておいて、ここぞで裏かサイドを獲っておいて、スピードアップ。
ボールをイーヴンにするような局面を極力避けるので、ルーズなボールは多用しない。
―考え方としては明快だ。


〈狩って、そして前へ〉

これに対しは、ソリッドな守備にあまりにも体力を使うこと、これには賛成しない。
要は、できるだけ前方の、どこでボールを奪うかをハッキリさせて、そのポイントに集中だ。
ここではボランチとインサイドハーフが汗を流す。

今は、攻撃の仕上げのところをクリアすべき山雅。

ならば、失点もある程度覚悟しておいて、前へ前へ、と割り切ろう。

進化途上なのだから、ゲームの中で回数(=量)を伴ったクオリティ向上、それを行なうしかない。

徳島のリズムを削ぐためには、ロングフィードなどで乱調を演出しながら、当方が仕掛ける側に立つ時間を長くした上で。

セカンドボールを回収して、サイドへ、そこの回数を増やせ。

システム採用をのぞいては、それほど奇策に走らない徳島であれば、なりふりかまわず自分流に実直に、これで行きましょう。

山雅流を削り出す、そんなゲームになれば、と願う。

では、アルウィンで。