水は運べるんだから (2021.3.28 水戸戦レビュウ)

0 – 3 の敗戦。

来客があったり、荷物の搬出があったりする中で、DAZNの画面をちょいちょいと観る、そんな慌ただしさとなった。

前半は、なかなかの出来ではないか、風を利することができる後半が楽しみだわい、と思っていた。

しばらくして戻ってみたら、なんと、ペナルティスポットにボールが置いてあって、その向こうに圍 謙太朗が構えているではないか!

77分の失点。
水戸がボールを右サイドに散らしておいて、受けたプレイヤーが、駆け上がって来るサイドバックに渡すタイミングをみているのが自明な攻撃。

そこ、外側からクロスを入れるであろうプレイヤーに、誰も詰めに行かないの?、と思っていたら、案の定。
フリーで中に入れられて、失点。
この2点目が、ゲームの帰趨を決定づけました。

必死に両手で掬い取ろうとしていた勝ちが、無残に抜け落ちる、そんな感覚。

運動量をいとわない、献身的な中盤、つまり、有能な、水を運ぶ者はいるんだから、詰めるべきは、ペナルティエリアのラインにまで、ボールが到達した時。

シュートなのか、セカンドボールを予測したアプローチなのか、シュートを打たせるお膳立て(シュートコースを開けること)なのか。

最終の直前、黒子は誰が担うのか。

たとえば、岩間 雄大のような存在を、誰が引き受けるのか、割り当てるのか。

3分2敗。

こうなると、この世の常で、どうしてもネガティヴな雑音も湧いてくるが、チーム山雅はどうかギスギスせず、着手したことに突き進むのみ。

前 貴之の負傷もあまり重篤でないようであるし、橋内 優也は復帰できたし、さらに、平川 怜はインテンシティを有することがわかったし、篠原 弘次郎のロングフィードは、シャープで気が利いている。

その意味で、ターニングポイントのゲームなのかも知れませんよ、後から振り返った時には。

では。

道 についての雑感。

ここ数日来、せいぜいその内容はハイライト映像で観るくらいなんだが、大量得点ゲームの報せが多い。

大宮 4 : 長崎 0 (3/27)
新潟 7 : 東京ヴェルディ 0 (3/27)

これらは、同じリーグの話ゆえに、けっこう胸が高鳴るけれど、むしろ大量失点した側の心情が思いやられてしまう。

海外に目を向けると、リーガ エスパニョラ (スペイン1部)では、

レアル ソシエダ 1 : FCバルセロナ 6 (3/21)

ダビド シルヴァを擁し5位あたりで健闘しているソシエダがまさか、とは思ったが、このゲーム、シルバはベンチ入りさえしていなかった。

6点も獲れば、最後のほうは得点時のセレブレーションはごく醒めたものになるもんだが、全員がきっかりとひとつに集まってくる律義さ。

入れて当然、といったスタープレイヤーの驕りを、全く感じさせないバルサには、感動する。

こういうゲームが気にかかるのは、おそらく得点産出に苦しむ我がチームのことが、抜けないトゲのように、いつもココロの底に在るからだ、きっと。

4~5年来ずっと、得点の乏しい山雅であるから、ここへ来てことさら気にすることでもないはずだが、〈新生〉に、いつかしら得点力の向上、を勝手に描き込んでいる自分がいる。

本日のアウェイ水戸戦にしたって、自分を失わずに平常心でプレイすれば良く、出口の勝敗をあれこれ気にするな、とチームには申し上げたい。

雨中、水戸へ出向くチームとファンサポーターには、心から感謝します。

こんなことを寝転がって考えていたら、ちょうど今から100年前に書かれた短編の末尾が、胸に去来した。

〈希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る〉(『故郷』魯迅  井上紅梅 訳)

では。

その後方を攻略せよ (水戸戦プレビュウ)

〈懐かしき日々よ〉
ホーリーホックとは、いままでに、14回対戦して 8勝5分1敗。

たった一度の負けは、2017年6月11日のホームゲーム。

水戸には、前田 大然がレンタル契約上ピッチに立てないハンディもあって、山雅が放ったシュート20本は、相手の倍。ボール保持はこちらが 56%だった。
けれど、たったひとつのセットプレイから失点して、0 – 1の敗戦。

……、それから4年の歳月が流れ、あの日ピッチにいた山雅戦士は、(出場機会があれば) 田中 隼磨と橋内 優也のふたり。

むしろ、当日水戸戦士として先発した、佐藤 和弘、外山 凌、浜崎 拓磨の3人が、いまや山雅のユニフォームを纏ってプレイするかも知れない、ってことに、なんとも感慨は深い。

ただし、ゲームの様相は、決してあの日には決して帰れないものとなるだろう。

〈水戸攻撃の ダイナモは?〉
ホーリーホックは、4 – 1 – 2 – 3 の布陣を採る。

4バックの前に、アンカーを基底にして逆三角形の格好で、3人の中盤。
そのまた前のトップには、フォワードが3人、ピッチに開く。

攻撃的な体勢を、モットーとする感ありの、水戸。

となると、どうしても、まづは3トップに目が行きがちになる。

もちろん最前線の強力さは間違いないが、攻撃を厚く、迫力あるものに仕立てているのは、実は、中盤3人に負うところが大きい。

攻撃時、この3人は連携を取りながら、グッと上がってくる。
まるで、フォワードの枚数が 5~6枚くらいになったように……。

さらに、これに連動して、サイドバックも猛進してくるので、センターバックふたりを残して、あとはすべて攻撃参加、といった趣き。

3トップは、横一線でなく、斜めに位置を取る。
おそらくは、相手守備を交わして、パスが通せるようにする狙いからだ。

互いの距離感さえ巧く保てれば、素早く、かつボール配球の選択肢を多くして、相手ゴールに迫れる、という寸法。

〈水戸の中盤後方を 攻略せよ〉
攻撃時は、まるで3トップをも追い越すように突進、で、守備にまわるとセンターバックをフォローするために背走。
水戸中盤は、基底ラインと最前線の間を、実に精力的に行ったり来たりする。

前節の千葉ほど露骨ではないにせよ、ボール保持にそれほどこだわらない水戸ならば、こちらがボールを持って組み立てるシーンを起点、と考えよう。

水戸がボール奪取に出て来る時とは、すなわち、その中盤が競り上がって来る場面だ。

この時に、相手中盤の後方、すなわち、センターバックの前、あるいは左右両端に生まれるスペースを狙うのだ。

そのためには、ワントップ(阪野)にして、2列目に、河合、佐藤、前の3人を並べれば、かなりの機動性が確保できると思います。
サイドは、外山(左)、表原 or 田中パウロ(右)とし、アンカーに平川。
そして、3バックの、3 – 3 – 3 – 1 といった塩梅に。

相手3トップに、こちらは3バック。

となれば、同数対決といった守備面での切実さ、辛さはあるけれど、とにかく、まづは得点しなくちゃあ勝利できないのだ。

前節の宿題を片付けつつ、活路を見い出して進むとなれば、これでいかがなものでしょうか?

では。

COVID-19との一年。

この流行り病とのつきあいも、一年あまりが過ぎた今。

ひとつの備忘録として、書きつけておきたい。

COVICD-19による国内の死者は、8,938名。(3/25現在、厚生労働省 発表)

この数字は、感染して亡くなったすべての人をカウントしたもの。
COVID-19が直接の死因となった人に加え、感染がきっかけで持病が悪化したことで亡くなった方、他の病気で命を落とした人を全部含む。

いままでの(季節性)インフルエンザによる死者は、2000年以降、だいたい2,000~3,000人で推移してきた。
ただし、この数字は、インフルが直接死因となったケースの合計に過ぎない。

これに、インフルエンザの感染がきっかけとなったが、持病とか別の病気によって亡くなった人を加えると、おおよそ、年間10,000人くらいらしい。

……、となるとですよ、死という最悪(だろう)の結果からみると、その数字は、旧来のタイプとほとんど変わっていないんだな。

これを、どう評価するか?

日本は、よくできているんでは?、と公言する政治的なリーダーが出て来てもよさそうなものだが、そういう議論はなかなか聞けない。

まぁ、そういうことを言った日には、猛烈な批判を浴びるに違いないが。

〈気の緩み〉とかいう、情緒的な煽りにはうんざりはするけれど、結局、この国では、誰が先頭に立ってやったとしても、たいして変わらない施策をやるのではないか。

政府の無策や無能を言っている側にも、おそらく画期的な代案がなさそうだし。

ひたすら気持ちの引き締め、それだけで押し通せる国って、かなり特徴的な部類だろうな、と思っている。

では。

光と影の共存を (千葉戦レビュウその❸)

ゲーム評もこれで4回目にもなれば、書く本人も食傷気味。
ならば、読者にしてみたら、さぞやうんざり、かと。

まぁ、今回で締めますので、御つき合いのほどを願います。

さて、〈月影〉といえば、月の光。
〈人影〉は、人間の姿。
ここで、かげとは、光の源や光線、物体そのものを指す。

他方、〈物影〉とは、光が遮られて暗く陰になったところ。

かように、同じ言葉〈かげ〉が、光明と陰影の双方に使われるのが、日本語の絶妙さ。

光陰矢の如し、ではないが、光と影は互いにかならず寄り添うことが、僕たちの祖先にはごく自明の悟りだったんですな。

で、山雅の攻撃においても、光と影を共存させよ、というのが、その❸末尾の論旨なのでした。

ボールホルダー、あるいは、それと密接に動くプレイヤーが脚光を浴びる〈光〉とするならば、もう一方にはかならず、黒子のように、相手の注意をそらす、惑わす役割の〈影〉を引き受けるプレイヤーが必要。

クロスとは、ディフェンダーの首振り角度を最大にすることで、視野のスキを衝くやり方。

これと同様、黒子が動くことで、相手ディフェンダーの注意を拡散させるか、デイフェンダーを誘き出すことでスペースを創り出すことをしないと、堅い守備網に穴は開きません。

皆が一斉にボールに集まってもダメ、皆が同じようにボールにアプローチしてもダメ。
密集における事故のような得点ばかりを狙うなら、別ですがね。

ここらへんの陰日向の役割をキチンと与えること、引き受けること、それが、チームとしてまだまだ詰められていないのを感じます。

光と影の役割分担を、あらゆる攻撃パターンの中に織り込む。

それも、あたかもオートマティカリーに、何人かが幾重にも連動して動かないと、寄って集って来る守備の傾向があるJ2では、突破がむずかしい。

まづは堅く守ってボール奪取即カウンター、を基軸とするならば、速さ鋭さをひたすら追求すればいい。

けれど、堅守はそのままで、最終ラインから組み立てていって、どこかでスイッチを入れる攻撃に着手している以上、効果的な攻撃発動の方式に、とことんチャレンジしましょうよ。

光と影といえば、思い出すこの曲『Both Sides Now』(1968年発表、邦題「青春の光と影」)。

ジョニ ミッチェル(1943~ )らしい、プライベートな歌詞。

…loveを、与えるともらうの両方から眺めていた私。人生を勝ち負けの両側から感じている私。でも、loveや人生など、なにも悟っちゃいない……

では。