不祥事とか、事故とか、なにかとてもマヅイことが起きて、
関係した者が、それに対応している様子を観ている。
すると、あぁ、こんな組織だからこそ、こんな者たちが絡んでいるからこそ、こういったことが起るんだろうなあ、と思うことが、しばしば。
だが、自分の中の、そういう決めつけが、果たして的を得ているのか?、最近よく考える。
デカルト的な、事象 ⇒ 実験による再現 ⇒ 定理としての確認、といった手続きの考え方に染まると、どうしても、結果には、必ずその原因があるはず、といった態度におちいる。
ここ300年くらい、人間がそういう思考態度を、いかに巧緻、精密にするかに腐心してきた結果、僕らは、事実を良くかみしめる前から既に、何故?、を求めることに馴れてしまった。
だから、あることの原因をそれらしく示している記事に出逢うと、ひどく安心してしまって、まるでその説を〈神〉であるかのように信奉する。
そうか、皆で、神を探しているんですな。
そうではなくて、
前もって存在した不足などにはおかまいなく、たまたま、その事が、そこに起こっただけ、といった考えを見直してみようか、と考えているのです。
ただ、そのデカルト (1596 ~ 1650年 ) は、
人が、神性について思い及ぼすこと自体が、神の存在を証明している、と言っていて、これは、人間の思考を絶対視した言葉なのか、それとも、神の実在を認めた発言なのか、僕は、いまだにわからないでいます。
では。