予想的中も 痛しかゆし (2022.9.10福島戦レビュウ)

ゲーム開始早々の4分、右サイドのカウンター攻撃が発動される。

ルカオからのグラウンダークロスに飛び込んだ、左サイドバック外山 凌の、左足一閃によるゴールで先制。

それが、決勝点となって、1 – 0 の勝利。

さぁ、これで、今季2度目の4連勝を達成だ。

ゆえに、DAZNによる勝利インタビュウは外山だったんですが、ゲームを勝ち切れた立役者は、ゴールキーパーのビクトルだから、彼がスポットを浴びてしかるべきゲームでした。

ここらは、ゲームが止まるセットプレイと、ゴールキーパーの出来良し悪しが勝敗を決めるかも、という萬年予想が当る。

けれど、ゴールキーパーが目立ったということは、やはり、ゲーム中に、致命的な難が在った証拠。

ゲームの入りはほぼパーフェクト、前線からの追い込みが奏功して、福島のパスサッカーを裁断することに成功しました。

ツートップと2列目が、福島センターバック3人とボランチ間のスペースを巧く埋めて窮屈にしながら、パスコースを失くしていた。

かつ、ボール奪取もねちっこくて、グッジョブ。

これだけやったもんだから、福島をして、前線へのロングボール戦法への転換へ追い込めたわけ。

ただし、相手をそうやって誘導するならば、ロングボールとワントップとの競り合いでボロを出した、大野と常田の守備はいただけません。

まぁ、これら失策のいづれも、ビクトルの好セーブで事なきを得られたわけで、今後、攻撃的なチームとやって、相手が窮地のロングボール戦法を採った場合の対処としては、緊急的な要改善事項と考えます。

時節、常田がイエロー累積で出場停止ならば、これ幸いと、新たなカードを開発するくらいの采配があっていい。

それから、あとふたつほど、苦言があります。

❶せわしない、ボールが行ったり来たりのサッカーとなるなか、
パスがずれる、あとはなんとかしてよ、といった無責任なパス出しが目立つ。

主導権をシッカリと握るためには、こっちへ時間軸を引き寄せるべく、もっと丁寧なプレイをしないと、大きな破綻が生まれます。

こういう場合は、浜崎 琢磨を活かすことで、山雅独特のペース創りを期待するんですけれどね。

❷それと関連して、前線へとボールを動かす場合、たとえば、小松 蓮にどういったミッションを負わすか、ということ。

それが、裏抜けなのか?、あるいは、ポストプレイなのか?、繋ぎの役目なのか?

これは、好調さを取り戻したルカオとの役割分担、という面で考えるべきなんでしょうけれど、とにかく、中途半端なプレイが散見された。

しかるべき場所にランニングしないとか、小松へのボールの出しと受けが合っていないとか。

横山 歩夢を欠いて、小松等FWにアピールの場を与えるとしたら、そこらへんの立ち位置を、個々もっと明確にすべきでありましょう。

残り10戦を勝ち抜くには、勝ったので全て善しとしないで、地道に課題をやり遂げないとなりません。

では。

4連勝を賭けて (福島戦プレビュウ 後編)

この一戦をモノにすれば、4連勝という局面で福島と対戦するというのは、前回(7/17)と、まったく同じ……か。

なにかの因縁を感じます。

昇格にまつわる議論は、残り10ゲームぐらいになって始めよう、と以前書いたけれど、いよいよその入り口に入ってきた、今節(第24節)。

そんな覚悟をまで利用して、自分の気を引き締めるんですが、とにかく、3位につけてここまでやって来られたことには感謝しないと。

〈得点のチャンスはかなりころがっている〉
前編で、ボール支配率について触れましたが、山雅 35~40 :  福島 65~60、を基調としてゲームは進むと思われます。

パスで繋いでゴールを仕留めるサッカー(福島)と、ボールを奪取したら、即反転のカウンター攻撃で相手を沈めるサッカー(山雅)とのぶつかり合い。

その構図を、敢えてひっくり返しもしないでしょうから、お互いに。

いままで観てきて、この3部リーグは、そこまで戦術的ではありません。

前回の記憶では、山雅がカウンターを仕掛けたものの、前線の連係が思わしくなくて、好機をつぶしていた。
これ、複数得点が生まれない要因として、いまだに引き摺っている課題であるから、ここらへんの改善はひとつの見ものでしょうか。

福島は、3バックシステムの布陣。
これは中盤より前を厚くしておいて、攻撃に力量を傾けるための手段と診ます。

ということは、相手にボールが渡った瞬間はほとんど、センターバック3人が守備に残っている光景となる。
しかも、攻めていればいるほど、けっこう高い位置に居残っている。

アルウィンでやった時も、そんなシーンが観られた。

それこそが、山雅の狙い目。

となると、ロングカウンターが効くことになるが、横山 歩夢の怪我や去就が一切不明なので推断もできないけれど、誰が前線に置かれるにせよ、より長い距離のカウンターを狙い続けることは、かなり重要。

〈野々村 鷹人はデカい〉
その身体を言っているのではなく、野々村が定着しつつある3バックに、かなりの安定感が備わってきた価値のことがまづ一番。

これによって、下川や、宮部をサイドに配置ができるようになって、攻守に厚みが増しているのは、かなり大きいと思います。

今節もそれが踏襲されれば、守備はもちろん、セットプレイ時、高さの優位性がより加わるのも、デカい。

両者の対戦では、パスとか奪取とかに目が行きがちになりますが、案外、コーナーキックを含めたセットプレイが勝敗の分かれ目になりますよ、きっと。

その意味では、ゴールキーパーの働きが注目される一戦となりそうです。

では。

あえて〈信州人〉の名を捨てて (福島戦プレビュウ 前編)

他人の知識をあらかじめ決めつけないで会話することについて、ずいぶんと気を使う話、その第二弾です。

(小倉っ子の)ジョー氏に、坂(さか)に、城(しろ) の町と書いて、なんと読むの?と訊かれ、

― サカキマチ。上田と長野の中間くらいに在るよ、と答えたら、

―〈おしぼりうどん〉って、知ってます?、ときた。

ジョー氏が送ってくれた紹介動画をみたら、手打ち風のうどんを、ねずみ大根のしぼり汁につけて食すので、おしぼりうどん、と呼ぶことを知る。

うーん。
伝統野菜を喧伝しようとして、無理して麺つゆに使っているようにしか思えないなぁ、というのが、僕の感想なんだけれど、
そのあたりは、ジョー氏と意見が一致。

たとえば、カツオダシ風、フツーの麺つゆで、いいんじゃあないか。

帰宅して、これを話したら、家人の言うには、
― 信州人なのに、おしぼりうどんも知らないの?
北信の方では、大ポピュラー、と思っているけど。

と、暗に、北信がルーツの萬年を、挑発するのです。

しかも、
― 昔、(あたしの)実家でやっていたように、ねづみ大根タップリで仕立てたうどんを出したら、もう、こういうの要らないから、と言ったのよね、あなた。

へぇー、数十年前に、おしぼりうどんを拒絶した自分がいて、しかも、二度と食さないと宣言して、更に更に、その事実をまったく忘失していたとは、なんともあっぱれなことと感心してしまった。

さてと。

僕としては、信州人などと呼ばれなくとも、〈山雅人〉(やまがびと)でけっこう。

だから、たとえば、信州ダービーで舞い上がる気が知れない。

損得で言えば、ダービーによる恩恵は、当方にはほとんど無いのだから、むしろ、チームもファン&サポーターも頭を冷やして臨戦しないと、余計な怪我も負いかねません。
リーグ戦残り3分の1の、落とせないゲームのひとつ、でいいですよ。

……ところで、明日は、ベビーシッターの役を仰せつかっている都合上、DAZNでリアルタイム観戦の予定。

で、ルーチンで、福島ユナイテッドFC様の公式サイトに目を通しておく。

すると、今節を、両指揮官同士の〈盟友激突〉とぶちあげて煽っていらっしゃる。

しかも、松本山雅ファン&サポーターに向けて、専用ニュースをリリース、アウェイユニフォーム着用可の席種については、赤字で強調するなど、なにかと手厚い。

これもまた、お決まりで、公式ツイッターを覗いてみたら、9/7時点の、チケット販売比率、なんてものまでご教示くださっていた。

それによると、福島側 43%、山雅側 57% 。

とうスタを赤く染めろ、と盛り上げも盛ん。

松本山雅を使って、最大限のセールスをもくろむ。
こういった営業努力には、頭が下がります。

……、でこれの、どこが、プレビュウなんだ?

このゲームの、見逃せない潮流は、すなわち、ボール保持。

これがイコール ゲーム支配では決してない。

が、両者スタイルの結果としてどのくらい、どちらにボール支配のシーソーが傾くのか?、は重要なポイント。

どちらが、スタイルを表現できているのか、ということにおいて。

前半戦、ホームアルウィン(7/17) では、山雅 35 : 福島 65 だった。

2箇月経って、さて、今回は、チケット販売比率の真逆にほぼほぼ近い、

山雅 40 : 福島 60 、くらいになるんでしょうかね?

では、明日の後編に続きます。

身勝手な常識を 押し付けるな。

相手がそれを知っていて当然、といったような勢いで会話に入って、途端に、家人の反撃に遭うことが、しばしば。

こういう切り口で話を強要されるのは、相当に不快なことには違いない。

いま流行りの言い方で、

― それって、〇〇じゃあ~、ありませんか。

と、まるで、暗黙に了解を押し付けられる気分がして、

― そんなの知らねぇよ、それ、あんたの勝手な前提でしょうに、と言いたくなりますからね。

それと、まったくおんなじことでありましょうから。

そう言う訳で、最近、もっとも気をつけている態度と物言いではありますが、フト同じ過ちを繰り返している自分には呆れるばかり。

では。

最上の尊称 とは?

先日、職場で、取るに足りないような話題を交わしていたら、

― 詩人だねぇ、と言われ、思わず、

― あぁ、それ、いただいていちばんありがたい呼ばれかたです、と返してしまった。

ほんの些細なことであっても、人生が、ふっと、立ち止まる瞬間のひとつ。

今から、95年前の、7月25日。

ひとりの作家が、みづから命を絶った。

今でも、年に何度かは、その名を聞くことがある その人。

芥川 龍之介 (1892~1927) だ。

僕からしたら、その自死の理由もよくわからず、深追いする気にもなれないけれど、当時の文学青年(少年も) にとって、芥川の自殺は、けっこう衝撃的な出来事だったらしいんですね。

現在、芥川の作品がどれほど読まれているかわからんが、その頃、最も目立つ作家のひとりだった。

約一世紀前の、30代の人間がどのくらい成熟していたのかは、ほとんど承知していない。
(少なくとも、2020年代の同年齢よりは早老だったのかも知れないが)

なので軽々に語れない。

けれど、自死するに値するような出来事が、芥川とその周囲には在った、と思うしかありませんな。

詩人の萩原 朔太郎(1886~ 1942) は、晩年の芥川にとって、比較的新しい友人だったらしい (と、本人がそう書いている、下の作品の中で)。

で、朔太郎は、芥川逝去の後、ひと月ほどのうちに、タイトル〈芥川 龍之介の死〉という文章を発表する。(『改造』1927年9月号に掲載)

それを読むと、生前の芥川は、朔太郎に対し、自分を詩人である、と評価してもらいたがっていたようだ。

ところが、萩原は、芥川に向かって、君は詩人ではなく、〈典型的の小説家〉だ、と言い放つ。

これに対し、芥川は、自分は詩人であり過ぎるのだ、と言って応戦した、と朔太郎は書いている。

当世第一級の詩人(朔太郎のこと) から、詩人として認められたい、とはなんともけなげなエピソードではないか。

けれど、『蜜柑』(末尾に大正8年、つまり1919年4月の注記あり) なんかを読めば、芥川に詩人の資質は乏しい、と僕には思われる。

電車で乗り合わせたみすぼらしい少女が、主人公の作家にとって、一瞬、神々しい存在に変化(へんげ)するといった内容の短編。

けれど、(主にその表現手法からだろうが) 作品の読後感として、詩人の特性である〈心の舞い上がり〉というものに、どうしても欠ける。

ああいう題材を、太宰 治だったら、もっと巧い語り口でまとめられるだろう。
(太宰が詩人であるかどうかは別にしても)

……、実は、ホンネを申せば、芥川詩人論など、どうでもよい。

今回、必要があって、萩原朔太郎の文章(交友録のような随筆?)を読んでみて、そこそこの作品を生みだした詩人でありながら、彼の紡ぎ出した散文は、おそろしくつまらないなぁ、と感じ入ってしまった。

あまりに散文的で。

それが、感動的なまでの、相当な意外感であったことが、よけいに僕を、憂鬱にしている。

では。