とらえどころの無さに悩むが (宮崎戦プレビュウ)

いまだに家人は、テゲバジャーロ、と一息で発音できないらしい。

テゲバ、と略しても失礼だろうし、かようなチーム名を発案するとは、罪づくりではありませんか、と文句たれても仕方がないが、

問題は、本日の、おぞい! 天気予想のほうで、まことに悩ましい。

悩ましい、といえば、対戦相手のテゲバジャーロにも言えて、

松田 浩新監督になって、どうなんだろう?

と、前節福島戦(1 – 0 で勝利)をすこし観てみるが、これぞ宮崎、といった印象がいたって薄かった。

おそらく、宮崎のやろうとしているサッカーは、きわめてオーソドックスで、見慣れたやつ。

4 – 4 – 2 を採用し、最終ラインからロングボールを前線に入れ、それを収めてゴールへ向かう、あるいは、サイドを駆け上がっていってクロスを入れる、といったスタイル。

Jリーグ参入3年目といっても、経験豊富なメンバーを含むから、プレイも落ち着いていて、ペナルティエリア近辺での、ここぞといった詰めには迫力がありそう。

しかるに、対福島戦全般が、躍動感とスピードに劣るゲームだったから、宮崎の良さを打ち出せなかったのか?

思うに、強度高いサッカーをやってる山雅をどうしても基準にしてしまうから、ふわっとしたサッカー = つまらないサッカー、と即断してしまう僕がある、ってのが真相だろう。

さらに、昨季の左サイドのホットライン、新保と岡田は既に退団となれば、実質別のチームになっていて、昨季アウェイ敗戦の雪辱、と気張ったところで、現実味に乏しいし。

いや、それはお互いさまか。

こっちにしたって、新しい顔した山雅なんだから、とにかく、〈守功一体型の、強度高いサッカー〉、これを全面、かつ前面に打ち出して戦うしかないと、

なんだ、結局のところ、言わずもがなの、プレビュウでまことに申し訳ありません。

渡邉の負傷離脱は痛い。

が、では、誰が、前線で名乗りをあげるのか?、これを注目。

では。

きわめてプライベートに聴け『Let It Be』

幼い頃に母親を亡くすのは、切ない経験だ。

ジョン レノンは、この曲を(皮肉をこめて)評し、

なぜ、ポール マッカートニーが、こういった曲を作ったのかわからん、おそらくは『明日に架ける橋』(サイモン&ガーファンクル)に刺激されたんだろう、と語ったという。

およそ空想的で空疎な『Imagine』を作った本人がよく言うよ、と僕は思うが、

たしかに、聖人君子然したビートルズってのは、あまりいただけない。

文学、音楽や絵画は、いったん発表されたら、作り手の思わく、注文などにかかわらず、受容する者が自由に味わうものだけれど、

この曲は、ポール マッカートニーが、14歳で母と死別した、きわめて個人的な経験に執着して創ったものだ、と思う。

聴く者がどんな意味を込めて聴くかは、もちろん勝手だが、わざわざキリストの母マリアを持ち出してくることもないでしょう。

為すがままに、そのままに

悩んでいると、死んだ母さんが現れて、こう言うんだ
為すがままに、それが賢いやりかたよ
暗闇でもがいている時  僕のまっすぐ前に立ってね

為すがままに、それは、賢い言葉

世界中の傷ついて暮らしている人々だって同意するだろう、
役立つ答え  それは 為すがままに

たとえ ちり散りになっても、チャンスはまだあるはずさ
為すがままに任せれば

月明りのない夜が来ても、僕の上には光が輝く
どうか明日まで 輝き続けておくれ
音楽に目覚めると、母さんのメアリ※が 枕元で言うんだな

為すがままに、それこそが、賢い言葉。

※メアリ(Mary)は、ポールの母の、ファーストネーム。

Let It Be は、ビートルズ最後のシングル曲として、1970年3月25日(@日本)に発売された。

いまから、ちょうど、53年前。

僕が使っている、(家人を介して)いただいた手づくりのトートバックに、小さく小さくその言葉が縫い付けてあったのに気づいて、こんなことを想い出した。

では。

燕(つばくろ)と 季節の憶え。

つばくろが   フットボールの芝   掠(かす)め   by  萬年

3月16日 ふたたび、ツバメが飛来。

3月23日 辛夷(こぶし)、開花。

3月24日   春雨の中、盛んに開いたフキノトウを、いただく。

相方を失ったキジバトは、今も、一羽電線で啼いている。

季節の憶えとして。

では。

それからの 奈良クラブ。

3/19 第3節、奈良クラブは、J初のアウェイ戦を、南長野でおこなっていた。

vs 長野パルセイロ。

(DAZN観戦の限りでは)山雅と対戦したゲームからは想像もつかないほどに、奈良のプレイヤーはのびのびとやっているではないか。

あの時、ロートスタジアムで明瞭だったフィジカル差は、ほとんど感じない。

手に入れたボールを、テンポよく繋いでゴールに迫る、といった自分たちのサッカーを自信ありげに遂行。

これを観ると、山雅戦に際しての、相手に敬意を払い過ぎた、といった告白は、たんなるエキスキューズでもなかったんだな。

それと、長野の、〈ついていくだけの〉緩慢な守備もあって、あれだけ自由にやれたのも確かで、すると、山雅の寄せが、いかに剛直で執拗だったか、ということがわかる。

結果は、3 – 0 で奈良の完封勝ち。

これで、3部リーグでやっていく算段と自信も増すだろうから、収穫の多い長野遠征になった。

対して、長野。

システムは、3バックを採用。
3 – 2 – 3 – 2 のような感じでいて、それが攻撃時は、3 – 2 – 1 – 4 へと変化。

要は、4~5人が最前線を形成して、ゴール前に殺到していく、といった風情。

攻撃圧を高めたサッカーをめざしているんだろうが、中盤が省略されがちになるので、そこから有機的な縦パスも入らず、ボールが前線で巧く動かない印象を受ける。

プレイヤーが偏在する態勢を作っておいてから、

フリーになった右サイドの #4にサイドチェンジして突進させることを再三おこなっていたが、この日は、奈良の #11がかなり良くそこを抑え込んでいた。

パルセイロの(現況の)戦いぶりからすると、2箇月後、南長野でやるについて山雅が遂行すべきは、あくまで強度高いサッカーで押しまくること、それと、中盤の制圧ということかなぁ、と思っています。

では。

君のともだち。

6、7歳の男子が好きなモノというと、きょう日は、ダイナソー、すなわち、恐竜というのが多い。

研究分野で続く新しい発見と知見が、若い好奇心と感動を触発している。

これは、わかる。

が、話を聞いていると、ウルトラマンとか、ウルトラセブンといった名が平気で出てくるわけです。

あと、キン肉マン、とか。

どうも、TVや雑誌で、リバイバル視聴しているらしい。

自分なりのヒーロー、ヒロインを持つ、というのはわけるけれど、

ウルトラセブンなんてのは、せいぜいいい歳をしたオヤジが、回顧趣味で愛でるべきものじゃないだろうか?

クラシックなものを尊重するのは好いとしても、

いまだに60年前のヒーロー(架空)を引っ張り出して来るなんてのは、この分野での創造力、企画力の衰退を、意味してはいませんかねぇ?

では。