雨に濡れなくても。

昨日、職場に行くと、複数の方々から、

雨に濡れてご苦労様でした、とか、風邪ひいたんじゃあないの?、とかの挨拶。

皆様、半分は、この山雅ファンの熱心を、からかっておっしゃるんですが、

― いやぁ、実はね、所用でアルウィンには居なかったんです、と言い訳しておりました。

クレ君などは、

― 負けちゃいましたね、いや、負けに等しいドローですね、とか煽ってくる。

自分自身を、山雅ファン&サポーターとみなしていないけれど、実は、こういう方々の関心こそが、

この街には松本山雅が在る、と言い切れることの最大の根拠であって、

アルウィンの観客数に一喜一憂し、やれ少ないだの、衰退だの、と批評するのは、きわめて表面的な観方に過ぎない。

サン テクジュぺリが言うとおりで、

本当に大切なものは、目にはみえない。

お子さん連れの家族や高齢者など、現地を断念してTV観戦にまわっただろう、そういう事情を考えれば、3月の冷たい雨の中、7,000人に迫る人々がスタジアムに足を向けるとは、大したもんだと、僕は思っています。

では。

ほぼ完璧じゃん (2023.3.26 宮崎戦レビュウ)

先制するも追いつかれて、1 – 1 のドロー。

(負けに等しいほどのことでもない、と思います)

開幕戦は、現地、DAZNリアルタイム参戦のどちらもかなわず、用を済まし、アルウィンにまわり、一人観戦の家人を拾ってから帰宅すると、

さっそく、見逃し配信で前半を観て、出て来た言葉をそのまま、タイトルにしました。

後半に入ると、内容はもっと良くなっていて、山雅がやりたいサッカーの意図と、前にボールを運ぶクオリティが、過去3試合よりも、ずいぶんと高まっていることを確認できた。

地上波で観戦の、地元サッカーファンにも、新しく、面白いサッカーの山雅をお披露目できた、好ゲーム。

ジャッジが山雅に有利だったのも、こっちの連係にとって幾分かは儲けものだったか。

クロスの精度、特に、下川からのものは、格段に向上。

家人は、国友が(ゴールを)決められないのを責めるが、どれも難易度が高い。

更に、小松等が打ち込んだシュートは、不幸にもゴールキーパー正面が多過ぎた。

だんだんと課題が絞られて、ゴール直前の練度が焦点になってきているのは、むしろ喜ぶべきことと思いますよ。

あれだけ身を挺して守る宮崎のようなディフェンスに対処するには、菊井の先制点に象徴されるように、相手の守備網をひろげることで、粗くしないとなかなか突破できない。

これ、アウェイ戦でのヒント。

失点ですか。

あれは、グラウンダーのクロスに、絵に描いたように、相手フォワードを自由にして飛び込ませ過ぎた。

相手にとっては唯一無二のチャンスをモノにさせてしまったのは痛恨ですが、

今季のように守備が安定すると、〈打たれ強くなれない〉といった皮肉な現象の落し穴みたいなもんだから、修正するしかない。

……、と総括すれば、It’s Getting  Better、という評価。

正直、次戦鳥取のほうが、もっと手強い相手であろうから、山雅クオリティは、むしろそこで試されそう、と覚悟せよ。

では。

とらえどころの無さに悩むが (宮崎戦プレビュウ)

いまだに家人は、テゲバジャーロ、と一息で発音できないらしい。

テゲバ、と略しても失礼だろうし、かようなチーム名を発案するとは、罪づくりではありませんか、と文句たれても仕方がないが、

問題は、本日の、おぞい! 天気予想のほうで、まことに悩ましい。

悩ましい、といえば、対戦相手のテゲバジャーロにも言えて、

松田 浩新監督になって、どうなんだろう?

と、前節福島戦(1 – 0 で勝利)をすこし観てみるが、これぞ宮崎、といった印象がいたって薄かった。

おそらく、宮崎のやろうとしているサッカーは、きわめてオーソドックスで、見慣れたやつ。

4 – 4 – 2 を採用し、最終ラインからロングボールを前線に入れ、それを収めてゴールへ向かう、あるいは、サイドを駆け上がっていってクロスを入れる、といったスタイル。

Jリーグ参入3年目といっても、経験豊富なメンバーを含むから、プレイも落ち着いていて、ペナルティエリア近辺での、ここぞといった詰めには迫力がありそう。

しかるに、対福島戦全般が、躍動感とスピードに劣るゲームだったから、宮崎の良さを打ち出せなかったのか?

思うに、強度高いサッカーをやってる山雅をどうしても基準にしてしまうから、ふわっとしたサッカー = つまらないサッカー、と即断してしまう僕がある、ってのが真相だろう。

さらに、昨季の左サイドのホットライン、新保と岡田は既に退団となれば、実質別のチームになっていて、昨季アウェイ敗戦の雪辱、と気張ったところで、現実味に乏しいし。

いや、それはお互いさまか。

こっちにしたって、新しい顔した山雅なんだから、とにかく、〈守功一体型の、強度高いサッカー〉、これを全面、かつ前面に打ち出して戦うしかないと、

なんだ、結局のところ、言わずもがなの、プレビュウでまことに申し訳ありません。

渡邉の負傷離脱は痛い。

が、では、誰が、前線で名乗りをあげるのか?、これを注目。

では。

きわめてプライベートに聴け『Let It Be』

幼い頃に母親を亡くすのは、切ない経験だ。

ジョン レノンは、この曲を(皮肉をこめて)評し、

なぜ、ポール マッカートニーが、こういった曲を作ったのかわからん、おそらくは『明日に架ける橋』(サイモン&ガーファンクル)に刺激されたんだろう、と語ったという。

およそ空想的で空疎な『Imagine』を作った本人がよく言うよ、と僕は思うが、

たしかに、聖人君子然したビートルズってのは、あまりいただけない。

文学、音楽や絵画は、いったん発表されたら、作り手の思わく、注文などにかかわらず、受容する者が自由に味わうものだけれど、

この曲は、ポール マッカートニーが、14歳で母と死別した、きわめて個人的な経験に執着して創ったものだ、と思う。

聴く者がどんな意味を込めて聴くかは、もちろん勝手だが、わざわざキリストの母マリアを持ち出してくることもないでしょう。

為すがままに、そのままに

悩んでいると、死んだ母さんが現れて、こう言うんだ
為すがままに、それが賢いやりかたよ
暗闇でもがいている時  僕のまっすぐ前に立ってね

為すがままに、それは、賢い言葉

世界中の傷ついて暮らしている人々だって同意するだろう、
役立つ答え  それは 為すがままに

たとえ ちり散りになっても、チャンスはまだあるはずさ
為すがままに任せれば

月明りのない夜が来ても、僕の上には光が輝く
どうか明日まで 輝き続けておくれ
音楽に目覚めると、母さんのメアリ※が 枕元で言うんだな

為すがままに、それこそが、賢い言葉。

※メアリ(Mary)は、ポールの母の、ファーストネーム。

Let It Be は、ビートルズ最後のシングル曲として、1970年3月25日(@日本)に発売された。

いまから、ちょうど、53年前。

僕が使っている、(家人を介して)いただいた手づくりのトートバックに、小さく小さくその言葉が縫い付けてあったのに気づいて、こんなことを想い出した。

では。

燕(つばくろ)と 季節の憶え。

つばくろが   フットボールの芝   掠(かす)め   by  萬年

3月16日 ふたたび、ツバメが飛来。

3月23日 辛夷(こぶし)、開花。

3月24日   春雨の中、盛んに開いたフキノトウを、いただく。

相方を失ったキジバトは、今も、一羽電線で啼いている。

季節の憶えとして。

では。