ベリーで,もめる。


ミヤマウスユキ草 (エーデルワイス) の花。

ブログを読んだ家人から、クレームがついたんである。

曰く、熟したジューンベリーの実は、酸いこともなく、甘い、とのご指摘。

で、さっそく庭に出て、紫いろに熟れたやつを選んで、ほうばってみたら、

たしかに!、甘い甘い。

どうやら、がさつな僕であるから、急いて、いまだ熟さないような実を食べたんでしょうね、きっと、と、この一件を落着させた。

過ちを改めるに、ためらってはなりません。

したがって、読者諸氏よ、食べごろのジューンベリーの実は甘い、

と、ここにお詫びして訂正いたします。

さて。

息子宅の敷地には、他人の背丈以上のジューンベリーが、ひとつ植わっていて、

数日前、その実から作った、自家製ジューンベリーのジャムをいただいているのです。

ブレッドに塗り挿むなどして、これから、ゆっくりと楽しもう。

では。

読み終わりが 始まり。

探し物をしていた二階で、たまたま見つけたのが、黒田 三郎 (1919~1980年) の詩集。

我が身には、購った記憶がなかったので、後で息子に訊くと、

僕のやつだよ、確か、父に勧められたんじゃあないかな?

ほほぉ、そうでしたか。

 

たわむれに、並んでいる詩のタイトルをすこし、書き出してみたら……、

美しい日没

月給取り奴

しずかな朝

夕方の三十分

九月の風

顔のなかのひとつ

夕焼け

僕を責めるものは

洗濯

秋の日の午後三時

夕暮れの町が

小さなあまりに小さな  ※詩集〈小さなユリと〉(全篇)

 

これだけでも、この詩人の在り様があらわになるけれど、

その詩風は、後世にけっこう影響してるんだ、と気づかされた。

黒田 三郎は、詩論(『詩人とことば』) の中で、

……北原白秋の詩からはことばの感覚的な美しさを除くと、何にも残らないような気がする。……

と書いている。

詩中で使う言葉に、過重な陰影を与えることをとことん嫌う黒田らしいなぁ、と思う。

けれど、言語表現に手が込んでいようと、あるいは、平明であろうと、

詩を読み終わったところから、読み手の中で何かが生まれ、行動が新たになること、そんな変化を起こさない作物は、

いまの僕にとっては、〈詩〉とは呼べない。

だから、黒田 三郎の詩は、いつしか僕を満たさなくなった。

同じように、洒落た表現には出合えるものの、小さな感覚世界に閉じこもりたい、短歌という作物、もそう。

馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば     (白秋)

これぞプロフェッショナル、と呼びたいくらいに、たしかに巧いんですけどね。

では。

桑ズミ フォーエバー。

六月は、

いろんな berry (ベリイ) の熟れる頃。

梅雨の晴れ間、照り返しの庭で。

ジューンベリイの実をひとつ、ふたつ、もいでは口に含んでみる。

ごくたまには、しっかり甘いのもあるけれど、

だいたいは、甘味よりかは、飾らない酸味が、口内でまさる。

でも、戯れに楽しむ自然の甘さなら、あくまで、酸味と一体でなくちゃあ、いけません。

松本あたりでは、桑ズミ、と(方言で) 呼ぶ、桑の実もまた、

なんとかベリイ、という英語名らしい。

廃れた養蚕の名残りで、田畑のあぜ道には、桑が、いまも点々と残る地域に住んでいるのに、

実をつけている樹が、なかなか見つけられずにいた。

が、最近、ふとしたことで、拙宅から 1kmくらいの場所で、見つけたんですね。

樹高が 6~7mで、見あげると葉の陰には、何千という実をつけている。

枝を引き寄せて、すこし触れただけで、実がスッと落ちてしまう。

熟し切っている証拠なんだ、きっと。

柔らかい実を手に捕ったとたん、実がこわれて、指先が、出血したかのような鮮やかな赤で染まった。

この色素はアルカリ性だから、酸性の、レモン汁か梅干しで揉めば、中和され、たやすく消える。

それを識っていると、口の周りや手をむらさきにしたままで叱られることもなし。

小さい児が、酸、アルカリ、中和を学べる好機。

でも、今では、やはり廃れた遊びなのかな……。

では。

ナイス ゲーム!! をもっと (讃岐戦レビュウ❷)

今日、職場で。

ヤナさんが、

ナイスゲーム!!、と挨拶がわりに。

たしかにね、率直にチームを讃え、勝ちを喜べばいいんだ、と思いつつ、

帰り際、今度は ソネさんに、(アルウィン参戦) お疲れ様でした、と声をかけたら、彼曰く、

― これで、(ゴールを決めた) 滝 裕太は左で使う、で、決まりですね。

― それも、右インサイドハーフの村越 凱光とセットで、となるかなぁ?、と僕。

村越が中央でボールを受け、それを利き足(左)で、左奥のスペースへ配球、滝を前へ走らせるといった、定型的なパスワーク。

それが、ゲーム中、たしか 3度あって、そのひとつが、先制点に実ったのだった。

さらに、59分の追加点 (by 小松)。

その直前、ボール支配の時間が続き、

住田 将、下川 陽太が、相次いで左サイドからクロスを打っている。

そういう流れから今度は、小松 蓮が、讃岐最終ライン裏へと抜け出すタイミングを狙った、菊井 悠介のクロスから生まれたゴールだった。

1点目は速攻で、2点目は、じっくりと攻めた。

攻撃の引き出しが蓄積されてきたことが証明された、ゴールふたつで、なにより。

……、とこれで終わってもいいんだけれど、ひとつだけ。

今後、勝ちをより確かにするため、

相手が、ツートップ気味になって食いついてきたら、どうするか?、ってこと。

あのゲームの60分以降、讃岐が、その策を採用。

山雅センターバックふたりに対し、相手フォワードふたり、という構図において、数的な優位を保とうとしたため、なんだろうか?、

両サイドバックが、高い位置を採れなくなってしまう。

つまり、サイドからの攻撃が、急に影をひそめた。

ツートップ化と同時に、讃岐は、3バックに変更していて、

相手#10(右センターバック)が、息を吹き返したように、山雅の左サイドにたびたび侵入するようになった。

守りに追われて、攻撃に手がつかず、よって、讃岐にいいようにリズムを渡してしまう、といった印象。

それでも、なんとか凌ぎ切れた、けれど、

センターバックふたりが、同数(あるいは3人) の相手フォワードのファーストディフェンスに曝された場合。

その状況をひっくりかえして、当方に、攻撃の主導権を手繰り寄せる方程式、

(すべてを、蹴り出しで対応するのでなければ)
これは必ず、解いておかなければなりません、山雅。

たとえ、防御率が2点(ゲームあたり失点 1.4 )であろうとも、3点を獲って、ゲームをモノにするために。

では。

元に戻して,守る公約 (2023.6.17 讃岐戦レビュウ❶)

直近、封印していた、最終ラインから繋ぎ、組み立てるやり方に戻したうえで、

ホーム帰還のゲームを、2 – 0 で勝利。

スコアはともかく、内容的には、完封、とまでは言い切れない、かも知れない。

けれど、相手の2倍はシュートを撃って、得点も倍みたいに積んで、しかも、無失点。

自分自身に及第点を与えられない課題や、営業的に秘しておきたいことも、多分あるだろう。

が、松本山雅よ、みづからを誇れ。

そして、ゲームの出来については、やってる身として、必要以上に、ファン&サポーターに対し、おもねったような言動も要らない。

MVPの橋内 優也が、インタビュウで発信した、

ひとりがひとりを誘って、アルウィンの閑席を埋めてくださいよ、という煽りは、

僕には、ずいぶんと堪えました。

橋内、よく言った。

弱くなれば減って当たり前、とか言って、観客減を、自分を棚上げして語っているような連中には、どう響いたんだろうかね。

(強ければ足を向ける、っていうは、どうも胡散臭くてなりません)

さて。

ようやく、14節を消化する過程で、それなりにチームのやりたいことが、まるでポラロイド社写真の画像が浮き上がってくるように固まってきた、と考えたいところですが、

ゲームそのものに関する議論は、プレビュウ❷で、すこし。

では。