オールスター映画へ挽歌を。


居間を通り抜ける際、TV画面をみたら、映画をやっている。

あれぇ、『オリエント急行殺人事件』(1974年 英米) ではありませんか。

一等寝台車の乗客を集めて、ポアロ(アルバート フィニー)が、殺人の解き明かしを披露するシーンらしい。
監督ルメットお得意の〈法廷モノ〉なのだ。

このポアロ、好感を持たれない人柄が強調されて、日本語の吹き替えもそれを狙ってくどい。

萬年、これをいつどこかで観たか、詳細は忘れた。
以前に原作(1934年 アガサ クリスティ)を読んでいたから、真相究明の手際に興味もいかず、あまり感心しなかった。

十指にあまる豪華スターが競演、というのが作品の売りだったんだろうが、役者のほとんどは、かつて一時代は築いたけれど、公開(=出演)当時は、脇役にまわってナンボの存在だった。

萬年式には、トウ(薹)が立った往年のスターを集めた凡作。

色褪せた星たちを遠く遠くに懐かしむ、それもまた良し。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (7/7 16:25)
黨がたってもまだまだです。
「オリエント急行殺人事件」見た記憶はあるが、私にとっては退屈な映画でした。
アガサクリスティの小説に親しみ、往年の名スターに憧れる欧米人にとっては、たまらない作品なのだろうけれど。
私は閉ざされた空間の中での犯人探しと言った映画が苦手でして、多分私自身、大勢の中での人間関係が面倒なのと、子供の頃観た「36人の乗客」と言う密室白黒映画の暗い印象がどうも苦手にさせているようです。
ところで、調べたら「蕗の薹」の「とう」なのですね。「黨がたつ」とは、食べ頃を過ぎる事だとか。
言葉と言うか文字と言うか、面白いものですね。
では、また。

☞萬年より  (7/7  17:28)
法廷弁論、みたいなゲームを描きたかったんでしょうね、監督起用からすると。
アガサクリスティは、そこそこフェアな作風かな、と思います。
読者との智恵比べ、といったところで、作者がキチンと事前に材料を提供してはじめて成立する競争ですから。書かれていなくては推理しようもない。
次回は、はじまから犯人がわかっているような探偵モノを語りましょうか?

☞つーさんより (7/7 18:50)
犯人捜しより、動機探しが面白い。
是非、語って下さい。よろしくお願いします。
☞萬年より  (7/7 20:02)
動機探し、それと、巧く仕掛けたと思ったアリバイとプライド崩し、ですね。

 

喜劇の元素とは。

喜劇とはすべて、他人の悲劇を描いたものである by  萬年

笑われる題材はすべて、登場人物の失敗、苦しみ、無様さ、疎外だ。

サー チャールズ(1889~1977) は、主演作の中で、自らを徹底して笑い者に描く。

ジェントルマンであるかは、ボクシングでダウンを喰らい、テンカウントを宣せられるその瞬間でも、自分を笑って眺められる精神を持てるかどうか、らしい。

自分を笑い者にすること、これにはかなり高い精神性を要す。

(他方、他人を笑い者にすることは、かなりお楽な道)

なので、チャプリンの作品を観ていると、いつしか単純に笑えなくなってくる。
自分を笑い者にできる人格の孤高が、胸に沁み込んでくる、と言ったら良いのか。

英国には、自分(=役柄)の拙さや愚かさを、冷ややかに演じられる役者が目立つ。
ふたりのピーター、すなわち、ピーターオトゥール(1932~2013)、ピーター セラーズ(1925~1980)は、その中でも萬年のお気に入り。

今回は、セラーズが、ひとり三役を演じ分けた『博士の異常な愛情』(Dr.Strangelove or:~ 1964年、英米合作) 中のワンシーン。

ナチスドイツの科学者(車椅子の)と米国大統領(禿げ頭)が、セラーズでございます。

世界の破滅、という大悲劇が題材の喜劇。

これを大笑いするのが、作品への敬意/礼儀でありましょう。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/23 17:22)
他人の不幸は蜜の味。
松本清張の小説のテーマに良くあるエリートの転落ものが好きだ。何かをきっかけにして、人生の奈落に転落する。日常に潜む落とし穴に自分は落ちる事はないだろうと言う根拠のない安心感と、所詮小説の中の話だと笑って読んでいられる。
しかし現実の人間には、他人の痛みが解る人と他人の気持ちに全く無頓着な人がいるように思う。人間は感情的な生き物、残念ながらその時の気分でどちらの人間にもなり得るように思う。
せめて、チャップリンの笑いに隠れた心の悲しみの解る人間ではいたいものですね。
では、また。

☞萬年より  (6/23 18:47)
他人の失敗=自分の成功、みたいなのも人間。
清張では、『霧の旗』を思い出しますね。
弁護士による無関心の罪……と復讐。
弁護士モノから、『事件』(原作:大岡昇平)を思い出し、テレビでは若山富三郎が弁護士役。
そしたら、共演した草野大悟、を思い出す。
なんとも……。では。

健さんがやりたかった仕事『ジャコ萬と鉄』(1964年)

雨降る休日に、DVDで(ひとり)鑑賞。

いちばんの感想。
あぁ、高倉 健という役者は、こういう作品で仕事をしたかったのか……。

逆説的には、高倉 健の影ばかりが作品全体を覆う作品ではなくて、と言ったらよい。

丹波 哲郎、山形 勲、南田 洋子、高千穂 ひづる、大坂 志郎、江原 真二郎、浦辺 粂子。
※うち生存するのは、江原ひとりになった。

これだけ達者な役者が揃い、かつ、ガッチリ演じれば、高倉 健はその中に在って、気ままに軽やかな演技に没頭しているようだ。嬉々として。

本来、こういった自由闊達さが、役者高倉の生地だった、と強く感じる。

そうか。
『あ・うん』(1989年) で高倉 健は、他人の女房に純愛を秘めながらも、女性問題で妻を泣かし続ける男の、虫の良いいい加減さをこそ、演じたかったのだ。
そこに、高倉の挑戦が在ったはず。

作品が上品に仕上がっていることで、僕はいままで目を眩まされていた。

僕たちが何となく持ってしまっている〈健さん〉幻想の出所をいまさら追究しようとも思わない。

けれど墓の中で、「自分のことを伝えることにも、不器用なもので……」と呟いている高倉 健がいるように思ってしまう。

註: 画像は高倉健が気に入ってしばしば訪れていた、山峡の温泉場。萬年の秘湯でもある。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/22 7:19)
雪の中、耐える男であってほしい。
高倉健の大ファンを自認しながら、彼の一方の側面しか見ていなかったような気がする。むしろ軽妙な演技をする彼を見るのを避けている。
私の心は、寡黙で不器用でじっと何かに耐える彼に執着している。
私人としても、真面目で腰が低く思い遣りのある人だった。
しかし、大ファンを自認するなら、彼が軽やかに自由闊達に演じる映画も、恐る恐る観なくてはならないだろうか。
では、また

☞萬年より (6/22  11:24)
雪中の孤高なスキーヤーへ
この映画は、高倉 健が1946年の同名作品に惚れ込んだあまりリメイクを訴えて製作されているので、どうしてもやりたい役だったと思います。
と同時に、彼に話が持ち込まれたものの、出演ならなかった作もあったでしょうね。
ひとつの道を選ぶということは、他の可能性を棄てることでもありますが。
では。

真打の登場『第三の男』(1949年)

友人のK君によれば、モノクロ映画の極致、の作品。

第二次世界大戦直後のヴィエンナ(Vienna、英語読み。ウィーンとも)は、英米仏ソの四か国分割統治下。
この物語の舞台だ。

作品の公開当時は、さぞかし同時代の匂いに満ち満ちていただろう。
ことに、敗戦国日本の映画館では、なおさらだったはず。

英米の共同製作、となっているが、英国(軍人)側に正義が宿り、米国人が悪役(密売人)と、三文小説家(その友人)を演ずるとくれば、カテゴリーは、英国映画。

作中、死んだと思われた主人公(オーソン  ウェルズ)が、夜更けの街で酩酊した友人(ジョセフ コットン)の前に現われる場面が秀逸。
史上、これほど完璧な主役の登場シーンはない。

オーソン ウェルズがライトに浮かびあげった瞬間に始まるテーマ曲。
これも、有名過ぎる。
某国では、ビールのCM曲にまでなった。

いくら傑作とはいえ、犯罪映画の曲を、製品のCMに使うとは……。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより (6/21 8:48)
地震のない国なのだろう。
確かに、あの登場シーンは、秀逸でした。
地下道を逃げる彼の緊迫感を光と影で表現し、さらに場面を傾ける事でそれを増幅させる。
特に印象に残るのが、マンホールの鉄の隙間から出ている彼の指のアップ。自由を求める彼のあがきを見事に表現している。
友人を裏切った男を許さず、毅然として立ち去るアリタヴァリの、あの有名なラスト。女性とは、なんと意志が強い生き物なんだとこの時学んだ。
どの場面を切り取っても、絵になる、そして緩急を付けたチターのメロディで盛り上げる、これぞ映画は総合芸術だと思わせる名作でありました。
それにしても、戦争で破壊された跡が残りながらも、下水道が整備され、電柱も無く、石造りの建物が整然と並ぶ街並みは、さすが歴史の古いヨーロッパの都市計画の素晴らしさを感じますね。
では、また。

☞萬年より (6/21 16:23)
非合法活動のことを地下に潜る、というのは直接的な表現なんだと、この映画を観て実感。
大戦時、レジスタンスが成立したのも、こういう都市構造が在ったからでしょうね。
ただ、オーソン ウエルズは下水道シーンの撮影を拒絶して、スタントマンを使ったらしいです。
では。

滅び急ぐ者 『デリンジャー』など。

美は、滅びゆく者の側に存す。

新興勢力が成熟した端正な美しさで魅せる、なんてことはあまりない。

Jリーグでやっと9年生の松本山雅は、だから、その稀有な例だ。

映画『デリンジャー』(Dillinger、1973年米)は、秋の東京で観た。

ウォーレン オーツ(Warren Oates)も ようやく主演を獲ったか……、
そんな感慨と一緒に暗闇に座った萬年。セーターを着ていた憶えがある。

1930年代の米国。
銀行強盗を繰り返す青年ギャングの群像を、その末路まで描き切った作品。
上映時間107分にまとめたのは、監督(脚本も) ジョン ミリアス(1944~ )の手腕。
ミリアスは、『ダーティハリー』『地獄の黙示録』のシナリオも手掛けている。

ギャング一味のひとりとして、ハリー ディーン スタントン(Harry Dean Stanton)が出演していたのだが、萬年の記憶からはまったく消し飛んでいた。

田舎の道端で、農民たちによって無様にトドメを刺される役柄。

そのギャングと、『パリス テキサス』(1984年)の冒頭、埃まみれで現れる髭面の中年男(主人公)とは、僕の中で、つい最近になって結びついたわけ。

(『エイリアン』(1979年米)で、機関士ブレットを演じたハリーに馴染みが多いかも知れない)

ハリーはまた、歌手としても堪能だった。
かつて沖縄戦に従軍した彼は、2017年に91歳で亡くなったが、その歌声を聴きながら偲んでいる。

では。