Bleached Fox と名づけてしまえ。

ヴァンフォーレ甲府戦でハットトリックをやって魅せた、
#14 フォワード 鈴木 国友。

リーグ得点ランキングで、5位タイになった。

DAZNで観た、ゲーム後インタビュウ。

ドローだったから、ヒーロー、とはいかないせいもあってか、遠慮がちで繊細な話しぶりだったが、人柄がにじんていて好感を持った。

ふと、春浅き朝、我が家のすぐ近くを、食物を探すようにして彷徨っていた、あの孤独な狐を想い出す。

〈Bleached Fox〉、僕の中では、国友君をそう呼ぼうか。

髪をなびかせ、嗅覚鋭くゴールを狙う狡猾さを磨け、という気持ち。

そしたら、こんな曲まで記憶に蘇える始末。

『Sister Golden Hair』は、America が、1975年に発表した。

では。

Joker は 後からやって来る。

幼児にとっての入門的なトランプ遊びは、ババ抜きだろう。

順繰りに、隣の人のカードを抜いていって、手に入れた中の、同じ数字のカードはセットにして捨ててよい。
そして、手持ちのカードが全部なくなると、その人は上がり。
早く上がった者から(勝ちの)順位を得て、最後までジョーカーを持っていたものが敗者。

で、突然、なぜこのゲームを〈ババ抜き〉というのか?と、ひどく気になりだした。

英語では、この遊びを、〈Old Maid〉と言う。

老嬢、あるいは、オールドミス(今では死語?) のことです。

かつては、クイーン(#12)、つまり、女王を 1枚抜いた 51枚でプレイしていて、最後に、クイーンを手許に残した者が敗者だった。

(女性が残れば負けよ、なんてのは、フェミニストの攻撃対象になってもおかしくないが、そういう話はいままで、萬年、寡聞にして聞かない)

なんだ、ゲームの方法を直訳して、婆抜き、としただけの話……。

その後いつしか、ジョーカーを1枚加えた、53枚で遊ぶようになったらしい。

今日、緊張感を味わうため、どれか1枚を抜き、ブラインドカードに仕立ててプレイすることがありますよね。

それを、ジジ抜き、とも呼ぶ。

けれど、発生史に忠実であろうとすれば、キング(#13)を抜いてこそ、ジジ抜き、でありしょう。

ところで、途中投入されてゲームの様相を変えてしまうような実力派(切り札)を、ジョーカーと呼ぶことがある。

本日のヴァンフォーレ戦、ジョーカーが出現すれば嬉しいが、まづは先発メンバーで、ゲームをこちらへと、たぐりよせなければ、ね。

では。

天国と地獄 その続き…… 『Hotel California』

4/12の記事中、This world Can be A Heaven、みたいな願いを記したついでの、今日のお話です。

天国と地獄、と聞けば、黒澤 明による、1963年公開の映画を想い出すお方もいらっしゃるに違いない。

仲代 達也(警部)ら捜査陣と、山崎 努(誘拐犯)の知力を尽くした対決。
特急こだま(新幹線はまだ走っていない)車内、まるで素人っぽく揺れたカメラ撮影でもたらした緊迫感。
あんた(被害者)の住んでる高台の邸宅はまるで天国、それに比べ、俺の住む処は地獄のようなもんだよ、と誘拐犯は、脅迫の電話口でつぶやく……。

つい脱線しました。

1976年に、イーグルスが発表した『Hotel California』には、

And I was thinking to myself “This could be heaven and this could be hell”
〈ここは天国かもしれないし、地獄でもあるかもな、と僕は自分に訊ねたんだ〉……の一節がある。

砂漠の、暗いハイウェイを走っていたら、遠くに煮えたぎったような光を見た。近づいてみると、そこは、ホテル カリフォルニア。
女に案内されて進んでいくと、多くの住人たちと無数の部屋。
ようこそ、ホテルカリフォルニアへ。
1969年以来、ここには酒を置いてないけれど、素敵な人々、愛すべき場所。
チェックアウトはいつでもどうぞ、けれど、あなたは出ていけない。

暗喩がちりばめられた謎解きを強いるような歌詞が続くのは、ドン マクリーンの『American Pie』(1971年)と似ていて、これこそ、クラシカルロックが生み出したおとぎ話たち、とも言えましょうか。

でも、歌詞の解き明かしは、つまるところ、解釈者の素養の浅薄が見え透いてくるばかり。
ゆえに、あまり相手にしないようがよろしいかと。

この曲であれば、不思議な歌詞をそのままに、荒涼な寂寥感を楽しめば、それでいいんでは?

では。

萬年= COVID-19 の理由。

久しく眠っていた、ルノワール氏のスキー熱が、この冬になって覚醒した。

そのきっかけは、ホームゲーム抽選に当選していただいた野麦峠スキー場のリフト券。

スキーをやらない萬年は、これを、ルノワール氏に進呈したのだった。

(ちなみに、萬年におけるホームゲーム抽選当選率は、約2% )

野麦峠が呼び水となって、シーズン直近は、はくば47 を楽しんでいらっしゃるわけ。
はくば47は、ロケーションからして、雪が遅くまで残るのだそうな。

― それとですね。コロナ騒ぎでマラソン大会が軒並み中止。
そこで浮いた資金をスキー行にまわしている寸法です、とルノワール氏。

よって、ルノ氏のスキー回帰の、根本的な理由とは、萬年とCOVID-19 のふたつ、ということになるのであって、

要は、その意味で、萬年とCOVID-19 は、彼の中にあって等価、すなわち、イコールなんでありまする。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (4/14 19:12)
萬年さんから頂いた野麦峠スキー場の無料券のおかげ様で今年はスキーを楽しむことが出来ました。
有難う御座いました
🌸が散る季節なりそろそろシーズン終了です
スキーシーズン終了後何をするか?がスキーヤーの大きなテーマですが
鹿島槍スキーヤーの
(つーさん)はじめ全国のスキーヤーはオフ📴をどのように過ごしているのでしょうか?
人それぞれだと思いますが
興味有ります
私は来月から
マラソンランナーに戻って
10月03日開催の
松本マラソンに向けて日々の練習に励みます
リフト券有難う御座いました

天国と地獄は……、『Tears In Heaven』

(以前記事の、部分的なリライトです)

……、同じような箸を使って食事をしている、というお話。

どんな箸かというと、これが1メートルもの長さがあるようなシロモノ。

地獄では、その長い箸で、ひたすら我先にと食物を口に運ぼうとするから、隣同士の腕や肘がぶつかってしまって、結局、誰もがきちんとした食事ができないでいる。

他方、天国では、食物を長い箸で、目の前に座る人の口へと運んであげるので、皆が苦労せずして、食事ができる。

この寓話、天国と地獄といった、二者択一の世界観を押しつけるのでなく、むしろ現世だって、生きようによっては天国にできるんだ、という希望を与えてくれる。

ということは、次の世に行っても、僕たちは今と同じようなことをやっているんではあるまいか、としばしば考える。

『Tears In Heaven』(天国の悲しみよ)

天国で逢ったら 僕を憶えていてくれる?
天国でも  同じようにだよ
強く 持ち堪えようとしている僕
なぜって、僕は今 天国には居ないのだから

天国で逢ったら   抱きしめてくれるかい?
僕が踏ん張れるように 助けてくれるかな
いつだって  道を探している僕
なぜって、僕は今 天国に住めないのだから

時に 君は落胆して  崩れ落ちてしまい
時に 君は絶望して  助けを乞うだろう

ドアの向こう  そんな場所を信じる僕
悲しみのない天国が  きっとある と

映画『Rush』(1992年公開)のサウンドトラック主題歌として、エリック クラプトン(1940~ )が作った曲。
これより前の半年間、クラプトンは、一切の音楽活動から遠ざかっていた。

1991年3月、4歳半だった息子が、自宅アパート(53階)の窓から誤って転落して亡くなり、その後、失意の日々を送っていたのだ。

もちろん、このエピソードを知らなくたって、この曲の価値は変わるはずもない。

では。