ただただ漂うために。

ドリフターズ (The Drifters) とは、流れ者、漂流者、という意味。

けれど、あのグループには、そういった悲壮さ、吹きだまり人生の敗残感はなかった。

〈毒〉のない笑いだから、(小中学生に) オーっす、の挨拶で通用してた。

平凡な中年男を演ずる坂上 二郎を、ステージの端まで追いかけて行って足蹴りを入れる、不良青年役の萩本 欽一。

こっちのほうには、スネたような毒が満載で、僕の趣味には受けました。

息もつがずにあくせくと、忙しく生きる。

だからこそ、たまには、ホッとする生活。

ま、最近は、自分を追い込むことから逃げているから、おかげで、ホッとする瞬間に乏しいうらみもあったりで。

こんな曲を聴きたくなるほどに、熱心に生きなくては。

『Drift Away』(1972年発表) 。

漂いつづけて

だんだん こんがらがっちまった
降りしきる雨をとおして 灯りを見てるようさ
なんとかモノにしたいのに
このストレスを 一体どうしたものか

時間をムダに費やしているように思えてくる
やってることが わかっちゃいないんだ、と
外の世界が いやに辛く見えるんだ
なぁ、やり抜くために 力を貸しちゃあくれないか

そのビートだよ、僕のこころを解き放ってくれるのは
ロックンロールに浸って  漂いたいのさ   (☜2行 繰り返し)

こころが自由を感じた時には
メロディーが 僕を突き動かすだろう
憂鬱になったら
ギターの音色が  慰めてくれるだろう

喜びをもらえて 感謝してるんだ
僕は 君の歌を 必要としていて
リズム、韻、ハーモニー
そのすべてが 僕を強めてくれる ってね

良曲ゆえに、多くカヴァーされていますが、今回は、リンゴ スター&錚々たるメンツで。洒落た編曲です。

では。

タカサキさんで 柳さんを聴く『コインランドリー ブルース』

久しぶりにお店に並んでいたと言って、家人が買い求めた、山形村の、高崎 寛之さんが出荷しているシラヒラタケ。

一昨日は、それを煮込んだシチューを夕食にいただいた。

で、おなじ苗字の女性が、柳ジョージの『コインランドリー ブルース』(1985年発表) をカヴァーして、You Tube 動画に投稿しているのに気づく。

けっこうお若い御方と拝察するけれど、よくもまぁ、こんな(失礼!)歌をご存知のことで。

なかば埋もれた曲を、しかも、女声で聴けるとは、なんという望外なことか。

たまには、こういう事が起きてもいいよね。

では。

戦争と平和、と言うけれど『パリス、テキサス』

〈戦争〉の反対語として、〈平和〉が在る思考態度。

80年くらい前の4年間で、あれだけ徹底的に粉砕され、武装解除された記憶があれば、仕方がなかったかも知れないが、

要は、平和を語る際には、対極として戦争というものが必ず持ち出されてくる現象が、そろそろ不思議に思われてもいいんじゃあないか?

戦争が無ければ平和、というのも、ひどく乱暴な話でしてね。

戦争の反対語は、せいぜい、〈和平〉、すなわち、戦争を終わらせるための行動、に過ぎない、というのが今日の主張です。

『パリス、テキサス』(監督 ヴィム ヴェンダース)は、1984製作の 仏独合作映画。

題名は、テキサス州にある街パリス、に由来するので、パリス、と英語読みするのが適切。
ただし、日本では、もっぱら〈パリ、テキサス〉で通る。

或る家族の離散と、再会、そして……、を描く旅物語。

僕にとっては、作品そのもの、脚本(サム シェパード)、演出、撮影、音楽(ライ クーダー)、役者(ハリー ディーン スタントンら) のすべてが良く出来た映画。

こういう主題に触れてこそ、(あえて格好をつければ) 平和、なんてものを考えさせられる。

作品の冒頭、クレジットの文字が、鮮やかな赤であるところなんか、フランス映画の匂いがして、実に美しい。

では。

苦渋と軽妙『真夜中のカーボーイ』

米映画『真夜中のカーボーイ』(監督:ジョン シュレジンジャー) は、日本では、1969年10月18日に公開された。

今頃の季節に。

僕は、かつて縄手に在った松本中劇で、この作品を観た憶えがある。

年齢的に、封切りではあり得ないはずから、おそらくはリバイバル上映だった。

街角の広告看板のデザイン(写真)から、てっきり西部劇と思って入った、というのは前にも書いた。

題名が、カウボーイでなく、カーボーイとなっているから、そこで気づけばよかったんだが、これ、現代のニューヨークで生きる青年ふたりの物語。(ただし、車絡みの内容でもない)

おかげで、このころ売り出し中の、ダスティン ホフマンの演技をはじめて、ティーンエイジャアの時季に観られたのは儲けもん、だったと思っている。

映画を観た後、三日は、劇中では足の悪い設定の、ダスティン ホフマン風の歩き方を真似ていたくらいでしたから。

リアルタイムで、その役者の旬につき合えるのは、キネマファンにとっては至福なこと。

ストーリーは、都会(ニューヨーク)の底辺で、売春夫とそのポン引き稼業をしてでも生きていこうとする二人組(ジョン ボイドとホフマン)の、なんともやるせない話。

そこへもって来て、実に軽妙で明るい曲調のカントリー『Everybody’s Talkin’』(by ハリーニルソン)をサウンドトラックで使う、っていうのが、実に洒落ていて、そういうところに〈ニューシネマ〉の皮肉な主張があった、と評論家風に言っておこうか。

では。

来年の花を。

明日、あるいは一瞬後には、生死もわからないのが、生き物のさが。

でも、頭の中では、自分の終末はなんとなく先に延ばして、来夏の花を準備している。

ひとつ。

素晴らしいブルーの朝顔が咲き誇っているお宅に気がついた。

晩秋の来る前にでも、タネをわけていただきに参りたい、などと思案中。

そうやって、4種類の朝顔を庭に咲かせてみよう。

ついては、配置や採光、見せかたのバランスを念入りに考えなくっちゃ。

ふたつ。

マリーゴールドが、次々と枯れ初めている。

種子(子孫) を残す大仕事を終えたのだ。

そこからタネを採って、どう保存しておいて、春にどうやって播こうか?

(マリーゴールドは、野菜につく害虫の忌避植物として植えてるんですが、本当に効いているのか、実はわからないまま)

では。