ピーター フランプトン (1950年4月22日生れ) が作った曲。
強烈な印象はないけれど、じわじわと効いてくる、そんな魅力があります。
本人の歌唱よりも、カヴァーにけっこう上出来が多いから、存在感が深まっているのかも知れない。
あるいは、同業者に好まれる楽曲なのか。
こんなピアノによる編曲も好きです。
時代的なこじつけを行なうのなら、煮詰まった60年代が終わり、もっとシックにやろうか、という70年代への流れ込み、そんな気分で好まれた?
では。
ピーター フランプトン (1950年4月22日生れ) が作った曲。
強烈な印象はないけれど、じわじわと効いてくる、そんな魅力があります。
本人の歌唱よりも、カヴァーにけっこう上出来が多いから、存在感が深まっているのかも知れない。
あるいは、同業者に好まれる楽曲なのか。
こんなピアノによる編曲も好きです。
時代的なこじつけを行なうのなら、煮詰まった60年代が終わり、もっとシックにやろうか、という70年代への流れ込み、そんな気分で好まれた?
では。
六九商店街 (大手二丁目) に、喫茶店があった。
(たまり場、休憩処としての喫茶店は盛りだった)
井上百貨店の前を、松本駅方面に向かって、
翁楼(そば)を過ぎると、アーケード街を横断する。
そのまま、女鳥羽川沿いの道に出た、その左角に。
その名を想い出すのに、数週間かかって苦労したけれど、ようやく
〈ロアール〉という名に辿り着いた。看板のレタリングも、なんとなくだが。
そうだ、間違いない。
(僕が立ち寄る時は)カウンターの中では、女性がひとりで切り盛りしていた記憶がある。
ほかにテーブルが、あったかどうか、店にどんな音楽が流れていたか、は忘れてしまったけれど、客の多くは常連のようで、皆、学生の僕なんかよりは大人に見えた。
入り浸っていた連中がサッカーチームを作り、その水脈が、やがてプロチームに結実したおかげで、
半世紀後の松本の街に、喫茶山雅は、(奇跡的に) 復活した。
でも、あのロアールは決して蘇らないだろう。
時代は移ろいで、当たり前、今の今も。
では。
今から30年後くらい、つまり、2050年頃になって、ビートルズの楽曲で聴かれているのは、
『Here , There and Everywhere』(1966年発表) あたり(他にもあるが!) なんだろうな、と思うようになった。
一世紀はもつであろう、その普遍性、と格好をつけて言ってはみるが、
現在、ビートルズを聴いている、たとえば50年代の人々が、その頃は晩年を迎えているのだから、当たり前といえばそれまでなんですけどね。
ふたりのジャズピアニストが、それぞれの流儀で演っているのを、しみじみと、雨の日にでも聴いています。
ふたりとは、ビージー アデル(1937~2022年)と、ブラド メルドー(1970~) 。
では。
季節の憶え、4/13、庭のハナミズキが、小さく開花。
見上げると、隣家のつばくろ(4/2飛来)が、電線に3羽止まって、こっちを見下ろしてなにやら話している。
福山 雅治は、名前に、yamagaが紛れているから、馴染み深いのであります。
僕自身は、桜を愛でることも、観桜も、ほとんどしない無粋人ではあるが、
彼の作『桜坂』(2001年発表) はここ30年の中でも、かなり傑出した曲、と思っている。
失恋を語っている歌詞。
どの程度のつきあいだったか?、いまだ未練が残るようだけれど、恋の成就のためにどれだけ奮闘したのか、疎遠になって久しいのか?、そんなことは一切ぼかされている曖昧さ。
そんな不満も、卓越なサビのメロディーの中に消えてしまう。
面食いなのに、家人は何故か、この歌手が好きでないらしく、この曲を聴こうとしない。
少々真っ正直に過ぎるけれど、こんなアレンジだったら、オリジナルの臭みも感じずに、ココロに入ってくるのでは?
では。
きっと、感性が古式なせいなのだ。
前日になると、今年はどんな趣向でいこうか?、などと思案する 4月1日。
で、ことしのは、これ。
朝、居間に入っていくと、寝起きの家人に向かい、間髪を入れず、
― ロシアが撤退する、ってさ。
なんとも言えぬ反応ではあったから、
― 今年のは、願望をウソにしてみたわけ。
とうそぶいたんだが、不謹慎の誹りもなかったので、ホッとする。
要は、不埒な侵略をネタにしているという意味では、辛い。
その前々日、『シンドラーズ リスト』を再び観て、大泣きしたという御仁でもあらせられるので、この嘘は、けっこう効いたのかも知れない。
人間のココロとは不思議なもので、悲しい時に悲しい歌が要るわけでなく、楽しい時に嬉しい歌を求めるわけでなく。
ジョー氏から奨められた森田 童子の曲は、先日ご紹介した他にもうひとつあるから、ここで引用しておきます。
もちろん、今日の話題とは、なんの脈絡もありません。
では。