ホンネを申せば、

という題名エッセーの、受け売りではありませんよ。

オフレコの、内輪で話すようなことをおおやけで発言して、オリムピック組織のリーダーが吊し上げを喰っているらしい。

寄ってタカってここぞとばかり攻めたてるのは、いただけないけれど、内々と公言の使い分けをしない、できない、という無頓着は、もはや許容されなくなったのだ。

議論をかもすような内容は、かなり上質のオブラートに包んで発声しなければならない、とは、生きづらいことだ。

ただし、指導者の舌禍があったので、ボランティアをやめる、聖歌は持たない、というのは、あまりに浅薄な反応で論外でありましょう。

先の失言に戻ると。

男性は~、女性は~、と四角四面の入り方をしないように迫られ、かつ、その価値観を内面化して発言、行動しないと、リテラシー欠如の烙印を押される、今。

でもね、違いを認めたうえで平等に、ってムシがいいよなぁ、と萬年思うこともある。

ビジネス上で、女類らと接していると、形勢が悪くなると、とたんに〈女〉に逃げ込むようなお人やシーンを見てきた。

まぁ、こういう時は、あぁ、持てる武器を全部使っていらっしゃるんだと、その奮戦を認めて、楽しむことにしている。

反面、男類は、使える武器を、カードとして出し尽くした感がありますなぁ。

では。

【現時点】なにを信用しないのか?❷

クーデターによって自宅(敷地内)に押し込まれた国政のトップが、そのクーデターを支持しないようにFaceBookで発信した、とか。

へえ、そんな自由が認められているの?

これひとつとっても、今回の政変のありようを、よほど注意深く読み解かないといけない。

軍政 = 武力行使による鎮圧 = 独裁的な暴政、と簡単に成り立つのか?

それは僕らの頭の中だけのことで、どうも、そんな単純なお話ではないようだ。

他方、民主化の名の下に実行された政治が、人々にとって実際どうだったのか。

その中身を、もっと紐解いてからでないと、軽々にジャッジできない。

たとえば、ベンガル人とも呼ばれる、イスラム少数派の人々のこと。

ミャンマー社会は、誰が政権の座に在っても、今のところは、その人々に自国籍を認めないだろう。

過去のある時までは、共存していたイスラム教徒と仏教徒であった。

が、特に、英国や日本の植民地になる過程で代理戦争に投げ込まれなどしたあげく、バングラデシュとミャンマーの国境を行ったり来たりさせられている悲しい歴史。

国連が、ミャンマー政府によるイスラム教徒処遇に関し非難声明を加盟国による投票で採択した際、我が政府は、棄権に回っている(他方で、事態に憂慮も表明している)。

だいたいが、歴史上、外国が乗り込んでいって、救われた国があったんだろうか。

ほとんどが、自立からは遠のき、悲惨な混乱に陥っている。

思い浮かぶ唯一の例外は、世界の人々の反戦を求める論調には一切耳を貸さずに戦争をやり遂げたあげくに、米国とその傀儡政権を、国外へと敗走せしめたベトナムくらいでありましょう。

すでに汚れた手をして、自分たちに都合のいい理想や主義をかざし、民族自決の権利を取り上げるってのは、なんと傲慢なことか。

では。

【現時点】なにを信用しないのか?❶

友人に教えてもらったこと。

対COVID-19ワクチンには、有効性90%が確認されている製品もある。

従来の季節性インフルワクチンのそれが、60%強であることを考えると、驚異的な有効性。

これはもう画期的なシロモノ、といえる。(生製方法の徹底的な違い)

いままで、季節性のワクチンを打っていても、インフルに罹ってしまう例はあった。
家人など、二年連続で罹患した。
そうであっても、発症の苦しみや、人に染すことを恐れて接種してきた。

で、新型のワクチン接種が開始されたことで、世界中で、いわば大規模な治験がおこなわれているわけだ。

かつてワクチンについてそれほど注文もつけなかった者が、なんで、この度のワクチンについては、これほど危険性をあげつらうのか?

まぁ、そういうお方は、COVID-19に感染するリスクと、ワクチン副作用で具合が悪くなるリスクを、正確に天秤にかけて発言すべきだ。

けれど、そんな計算式にもとづいた上で、どうこう言っているとも思われない。

では。

突き放して 眺める。

或るSNS上の書き込みを読んでいて、ずいぶんと笑いながら、しかし、考えさせられてしまった。

その内容は、こうだ。

―自分が若かった、ずいぶん昔のこと。
入院した時に、同室になった爺さんは、戦争中はいかに大変だったか、今の若い者がどれだけ恵まれているかを説教する人だったが、食事の時に、こんなものが喰えるか!、と病院食を放り投げていたので、案外戦争の時って楽だったんな、と思うようになった―

くどくどとコメントするつもりもないが、あの戦争をまるごと、ナマのままで読み解くには、こういう観点が必要だろうなぁ、と思う。

これを、フテブテしく眺める視点、といってもいい。

けれどね、老いての傲慢さ、これだけは、いただけません。

老醜、という言葉があるくらいですから。

では。

碌山美術館の ケチ

荻原 守衛(もりえ、1879~1910年) は、第一級の彫刻家である。
号は、碌山。

安曇野穂高の、碌山美術館は、たまたま碌山の生まれ故郷に在る、ってだけの話。

ご当地が生んだ芸術家、とわざわざことわる必要のない、卓越した才能なのだ。

思い立ったら簡単に、その作品に接することができるしあわせを、僕らは持っている。

が、この地へ赴く楽しみのひとつは、美術館のチャペル風なたたずまいを味わえるところにあった。(1957年建設)

ところが、である。

いまや、この敷地内へ足を一歩踏み入れるだけで、入館料(大人700円也)が求められる。

いつから、なぜに、こうなったのかは知らないけれど、たとえば、今回は、館内へは入らずに、この敷地内を散策したいと思っても、あなたは、散策料を払わなければならない。

たとえば、静かなる庭の緑陰。

落ち着いて恋人と時間を過そう、なんてお洒落を禁ずるとは、まったく、なんというケチで、無粋なココロなんだろうか。

もちろん、碌山氏には、これぽっちも恨みはない。

では。