身の程を知る賢さ。

学業に齟齬をきたしたのはわかるが、なにも、学歴においてもっとも象徴的な学校の受験会場まで出かけていって、わざわざ人を傷つけることもなかろう。

いちばん不快なのは、自分と同世代に切っ先を向ける姿勢。

やるからには、自分に理不尽を押しつけた体制( = 強者)を攻撃しないと、筋が通らない。

学歴社会という名の、実は、学校名格差社会の幻想。

分相応、身の程を知る、といった美徳が廃れてしまったので、日本の国で生きることが、より一層辛くなっていることは、確かだ。

例えば、神社仏閣の庭で引いたおみくじ。
その恋愛運のところに〈身の程をわきまえろ〉とあれば、誰もがカチン、とくる。

けれど、今日び、こういうサバサバした渡世の真理や現実は、おみくじくらいしか教えてくれないのだから切ない。

他方、せいぜい成城とか学習院卒で、一国の政治リーダーになれたのは、
有り余る財力と、ふんだんな勉学環境を使った挙句、たとえその程度の学歴を刻めなくとも、世襲の恩恵を利用することでなんとかなった、という結果だ。

校名格差と、世襲による職業固定化、これって、今日を生きる青年諸君に対する往復ビンタみたいなもので、

今回、事を犯した彼は、このふたつの罠で、身動きが取れなかったのかも知れない。

学校の勉強が好き、出来る、それはそれでかまわない。

でも、それとはまったく違った意味の、頭の良さ。

いわば、聡明さや賢さのようなものが、世の中に多く恵みをもたらしているのに。

では。

遠くを眺める 夜明け。

凍えて固まった身体を緩めながら、この文を、綴っています。

ついさっき、午前5時48分から 2分間。

ISS(国際宇宙ステイション)が、ご当地の真上を通過していったのを、眺めていた。

いまだほとんど夜空の、北の方向。

雲の中から明るい光が現れると、ぐんぐんと、天頂にある北斗七星付近へと近づく。

そして、ヒシャクの形、取っ手の先のほうを通過。

やがて、夜明けの兆がみえだした、高ボッチの頂のあたりの上、南南東の方角に消えていった……。

ちょうど、隣のご主人が犬を連れて通りかかったので、

―あれがそうです、とお話しすると、

―へぇー、あれが。ありがたいものを観られました。

もちろん、その愛犬には、少々吠えられましたけれどね。

では。

年のいそぎの,バイシクル。

神社仏閣に詣でるような信心もなく、挨拶に回るようなつきあいも無くなってずいぶんと久しい僕なので、
あまり変化のない年末年始を過すことになる。

この寒い中、大掃除など狂気の沙汰で、ご勘弁。

ただし、一緒に過ごそうと、息子が家族で泊まりにやってきてくれるから、愉しみのひとつとなればと、バイシクル印のカード(トランプ)を、ひと箱新調した。

それが萬年式、年のいそぎ(支度)のすべて、といえる。

年中無休の職場ゆえ、年末年始も仕事にでかける。
だから、ますます非日常な生活からは遠くなって、ありがたい。

非日常から日常への復帰、が、けっこうしんどいのだ、僕にとっては。

……とか好き勝手をやっていると、同じように、無休の職場で働きながらも、家事の切り盛りを引き受けている家人から、
私だけが、とクレームが入るに違いないので、こういうことは、きわめて小声でつぶやくに限る。

いつ聴いても、バッハは、静謐でいい。

Silence  Of  Sound、とでもいっておきましょう。

では。

無題 ……。

数時間の眠りから戻ってきても、やるせない心は変わらない。

ホテルの23階から、9歳の少年が転落して亡くなった、母親の女性は、無理心中したかった、ともらしている……。

若い命がこういったかたちで現世を終えることのないように、というのが僕の祈りの一部であるから、そんなニュースには、すっかりやられてしまった。

某クラブの経営責任とか、28日になって届いた喪中葉書とか、そんなことはどうでもよくなって、キーボードを打つのが嫌になる。

というわけで、今日は、ひたすら快復を待つばかり。

では。

道化こそ、ココロと技量。

道化〉は、僕の言語感覚だと、動詞〈おどける〉に由来するように思うんだが、どうなんでしょう?

歌舞伎の世界ではかつて、観客を笑わせながら、劇を進行させる役回りを、道化師と読んだ。

興業時、劇場正面には役者の大看板が並べて掲げられた。

最初に主演、次に、面食いご用達の、容姿端麗な役者、3番目には、道化役、という順序。

二枚目、三枚目、という言い方は、そこから来ている。

歌舞伎における道化はその後廃れてしまったらしく、いま、僕たちが見聞きするのは、西洋風の、ジョーカーが主流。

あの白く塗りたくった顔に不気味な笑い、にはいささか食傷。

子どもゴコロに怖かった、あのチンドン屋御一行を、想い出すばかり。

でも、道化の本質は、その容姿の仰々しさではなくて、その内面だろう。

英国では、ジェントルマンである証明は、(経済的な基盤はともかく)、たとえ、リング上に這いつくばってカウントテンが告げられる寸前であろうとも、窮地に追い込まれた自分を、冷静に突き放して眺めていられる精神を持つこと、なんだそうだ。

自分を笑えること、自分を使って他人に笑いをもたらすこと。

そこにはかなり強靭な精神が求められるから、道化とは、大人であることの一側面ともいえる。

こういう映像を観ると、もちろん、西洋的な道化をすべて否定してもいられない。

エンターテイナー、ですから。

では。