遠い記憶を巻き戻す『Your Mother Should Know』

― 今回の軍事作戦は、昨年末以来脅威が増して来ていた、NATOによる祖国攻撃に対して、先制的な行動に打って出たもの。

我が国は、今、ナチズム(ネオナチ)との闘いをしているのだ 。

……某国の大統領演説。

(名指しはしていないが)ウクライナは、侵略者の先兵、という位置づけだ。

約80年前、ナチスドイツの侵攻によって味わった、民族の悲惨と苦痛。

(演説が行われた記念日の性格があるにせよ)その遠い記憶を持ち出してこないと、自分が始めた戦争を正当化できないとは、ずいぶんと辛いことだ。

第二次世界大戦における犠牲者は、ソビエト連邦が他国に比べてダントツに多く、軍人と民間人をあわせると、2,660万人の命が奪われた。
註:日本人は、310万人が犠牲となった。

全人口の14%くらいの生命が消えてしまったんだけれど、連邦を構成していたひとつ、ウクライナでは、685万人が亡くなっている。

同じ痛みを負ったはずの、かつての同胞ウクライナ。

そこに武力攻撃をすることで、彼らをふたたび戦渦に投げ入れているとは、なんとも。

歴史が強引に巻き戻されたような有り様に、こんな曲を思い出した。

では。

どう死ぬか があるから こう生きられる。

結局のところ、人々の、具体的にどんな行動の結果によって COVID-19(新型インフルエンザ) パンデミックがこうなる、という納得のいく答えは、誰も教えてくれないまま、2年あまりの時は経った。

とにかく、ワクチン打て、マスクして入店せよ、黙って食べれ、の繰り返し。

そう言われ続けて生活するこの国民の〈従順〉は、ひどく思考停止した生き方に違いない。

シナでは強烈なロックダウンを敢行していると、皮肉めいた論調でメディアは騒ぐ。

けれど、上海では強権的に、海のこっちでは周囲の白眼視が嫌で、それぞれやっているに過ぎず、たいして違いのない渡世ではないか。

宗教を否定する社会(民族)では、現世の後にはなんにも無いから、死ぬのがいちばん怖いこと。

だから、一目散に、右向け右で、手法は違うが全体主義な手当てに走るんでしょうな。

英国(グレートブリテン)では、人口6,800万人の 約3分の1(2,200万人)が、既に感染してしまったから、しめた!とばかり、サッカー観戦なんかマスクなしの、したい放題になっている。

しめた、というのは順序が逆で、そういう日常に戻りたいがために、感染を厭わなかった、ということ。

こういうのは、根本には、たとえ死んでも次の世があるさ、という覚悟があるからできることであって。

今のところ、愛知県の人口くらいの感染者(累計800万人)なこの国。

この先も、第何波を、左顧右眄してチマチマと乗り越えていくのが関の山。

そこには、こういうふうにしてしまえ、といったヴィジョンに基づく行動は起きそうにもない。

〈この街とスタジアムにマスクはいらない〉と率先すれば、画期的なんだが……。

夢想に浸りながら、では。

挙げた拳を 巧く下ろさせる。

プロ野球のゲームで、主審が、ピッチャーズマウンドに詰め寄る出来事があった、という。

わざわざニュースになるくらいだから、あまり見かけないことには違いない。

しかも、その時投げていたのが、今をときめく速球投手だったらしいから、注目度も高い。

好奇心に駆られて、そのシーンを観てみた。

なんのことは、ない。

ストライクとボールのジャッジに対して、マウンド上から不敵な(と感じた?)笑みを浮かべた、20歳の投手に対し、

― なんだよ、小僧、そのふてぶてしい態度は、よぉ!

と、いい歳こいた中年アンパイヤが、カッとなって、マウンド近くまで恫喝しに行った、それだけのことではないか。

僕は、アンパイヤの処し方のルールについちゃあ詳しくもないから、この行動の是非はわからん。

けれど、仕事上、こういったシーンにお目にかかることはけっこうあるし、自分より若輩の者に、冷笑された日にはフツー、ムッと、あるいは、カッとなる。

今回、そういう場面が、たまたま何十万人の、衆人環視の中で起こったに過ぎない。

機械が投げて、機械が判定しているわけでもないから、感情の表出とか、ミスジャッジがあって当たり前、あまり騒ぐようなことでもない、と思うけどなぁ。

ただ、願わくば、この主審これを、もっとスマートにやれば良かった。

喧嘩も、売り方次第では、見苦しい。

とは思うが、そういう頭の良さ(聡明さ)を盛んに修養しているような業界でもなさそうだし。

ただ、ひとつ。

僕が惜しい!! と思うのは、この時、ロッテベンチの首脳陣には、できることがあったのに……、ということ。

― おいおい、穏やかじゃあないね、君い。
うちの若いのになにか文句があるなら、監督のこの俺に言う、ってもんだろう。

と、すかさずダッグアウトを出て行く機敏な戦略性は、ないようですな。

相手がカッとなる、いわば、無防備な時こそ、状況をこちらに優位に持ってくるチャンスなのに。

一瞬の不可解さにとまどってその機会を逸したのか、あるいは、取るに足らぬことと思っていたのか知らないけれど、もしも、そうしたならば、今後の、ジャッジを優位に導けるだろうし、なんたって、監督が援護してくれるんだ、ということで、プレイヤーのココロを掴めたでしょう。

子どもの喧嘩でも、キッチリと、大人が出なきゃあならない時がある   by 萬年

ロッテは、勢いがつけばそれなりに勝てるが、ゲーム巧者とは言い難いチーム、と感じます。

そして、この若いピッチャー、案外早期に、他球団か、メジャーリーグへ移籍していくんじゃあないだろうか?

では。

因果応報を、疑う。

不祥事とか、事故とか、なにかとてもマヅイことが起きて、

関係した者が、それに対応している様子を観ている。

すると、あぁ、こんな組織だからこそ、こんな者たちが絡んでいるからこそ、こういったことが起るんだろうなあ、と思うことが、しばしば。

だが、自分の中の、そういう決めつけが、果たして的を得ているのか?、最近よく考える。

デカルト的な、事象 ⇒ 実験による再現 ⇒ 定理としての確認、といった手続きの考え方に染まると、どうしても、結果には、必ずその原因があるはず、といった態度におちいる。

ここ300年くらい、人間がそういう思考態度を、いかに巧緻、精密にするかに腐心してきた結果、僕らは、事実を良くかみしめる前から既に、何故?、を求めることに馴れてしまった。

だから、あることの原因をそれらしく示している記事に出逢うと、ひどく安心してしまって、まるでその説を〈神〉であるかのように信奉する。

そうか、皆で、神を探しているんですな。

そうではなくて、

前もって存在した不足などにはおかまいなく、たまたま、その事が、そこに起こっただけ、といった考えを見直してみようか、と考えているのです。

ただ、そのデカルト (1596 ~ 1650年 ) は、

人が、神性について思い及ぼすこと自体が、神の存在を証明している、と言っていて、これは、人間の思考を絶対視した言葉なのか、それとも、神の実在を認めた発言なのか、僕は、いまだにわからないでいます。

では。

雪の名残りに。

まさに、昨日のこと。

これ、もう物置にしまわないと、と思っていたのは。

一夜明けたら、それを使って、愛車のフロントガラスの雪を払っているとは。

明日のゲームが、もしもホーム戦だったら、今頃は大騒ぎしているんだろうなぁ。

今年は降雪が週末にかかることが多いから、雪の朝はよけい静かでいいや。

と、そうそうに家の中に入るのでありました。

おんなじ白でも、今は、こっちのほうに憧れます、ずっと。

では。