山雅★吊るし雛、を楽しむ。

本日は、#3のリストバンドで、アルウィン参戦のつもり。

さて、先日、家人の元職場のご同僚が、拙宅までお越しになって、なんとも有り難きプレゼントをくださった。

その方のご友人が、吊るし雛創りの名手なんだが、家人が山雅ファンであることを知り、〈山雅吊るし雛〉をこしらえてくれたんだそうな。

江戸時代、段飾りのお雛様を持つほどには富裕でなかった人々が、互いに寄って作ったのが、吊るし雛らしい。

幼子を祝福するための、お金では買えない愛情と智恵、そんなシンボルだったんでしょうね、きっと。

いただいたものをみると、サッカーボールや、雛の表情とボールの抱き方、そのひとつひとつが違っていて、実に細やかな配慮が憎いではありませんか。

早速我が家の家宝になったんですが、これ、山雅が商品としてプロデュースできないものか?

けれど、これだけ凝ったものであれば、大量製造はとても困難だろうから、やはり無理かしらん?、と思って眺めているんです。

では。

ISS ビューイングのおすすめ。

この前、ISS(国際宇宙ステーション)を見上げた話をしましたが、
ごく近いうちに、そのチャンスが、またまたあるんです。

職場のトンビ氏が教えてくださった。

しかも、軌道を描いたメモ(下の画像) までいただいたのだ。

二夜連続で日本列島、本州の上空を通過するんですな、これを見ると。

チャンスは、6月の1日(火)と、2日(水)。

6月1日。
ISSは、20時50分に、北北西の空から現われて、南東に向かう。
すると、3分後、仰角79度(=ほぼ真上)の位置にやって来たあたりで、姿を消す。
軌道が、地球の影(夜)に入ってくため、という。

6月2日。
ISSは、20時02分に、北東の方向に現われる。
そして、南東へと向かい、3分後の仰角は、54度。
昨晩よりはだいぶん東山に近づくように見えるんだろうか。

とにかく、両夜ともに、最初の時刻には北方の空を凝視できる態勢で待つ。

これが見逃さないための、ポイントでありましょう。

もちろん、その夜、松本上空が雲に覆われていないことを今は祈るのみです。

グッド ラック !!

では。

 

心あらば つばくろよ 。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて 足乳根の母は死にたまふなり

【読み】のどあかきつばくらめふたつはりにいて たらちねのははは しにたもう なり

斉藤 茂吉。歌集『赤光』(1913年 発表) の中にある。

玄鳥の、〈玄〉とは黒色のことで、燕を意味する。

〈足乳根の〉は、その後にかならず〈母〉が続く。

はじめは女性の胸の描写だったが、いまや意味を失い、〈母〉を導く紋切りの五文字。
こういうのを枕詞(まくらことば)と呼ぶ。

けれど、枕詞を、字数のムダと思わずに使い、しかも、それが成立するところに短歌の根強さがある。

ところで、職場の、大型トラックが出入りするプラットホームの天井では、今年も燕たちが多くやって来て、子育てに忙しい。

先日、ひな鳥が一羽、足許のケースの中、さかんに啼いている。

どうやら誤って巣から墜ちたのを、誰かがそこへに入れたんだろう。

でも、巣は地上数メートルの高い場所にあって、とても差し上げてやることもできず、まして、どの巣に居たのかも皆目わからない。

近くに寄って来る親鳥もない。

今は盛んに動いているが、次第に消耗すれば、その行く末は目に見えている。

捨て置くこともできず、ひょっとしたら、隣家にやって来ている燕夫婦の温情にすがれるかも? と思い、持ち帰った。

主人に頼み込んで脚立を貸してもらって、玄関の上方にある巣の中へ入れてやった。

巣にはいまだ雛の気配は無かったけれど、毎日電線に止まっては、萬年を見下ろしているよしみで、なんとかお願いしたい、と実に虫のいい気持ちだ。

その後、ひな鳥がどうなったのかを確かめる勇気もなくて、幾日かが経っているのです。

では。

五月雨に 忘恩悔ゆる 無花果かな (萬年)


註:標題の句は、無花果(いちじく)を、ムカカ、と音読みで。

光風舎主人、田中 博文氏のツイッターは、2014年5月13日を最後にして、今も残る。

ご逝去によって、途切れたまま。

病を知って、長野市の病院に田中さんを見舞ったのは、その少し前だったか。

癌と闘うベッドの上で、かなりやつれていたが、いつもと変わらず飄々として、淡々。

万事、成り行きに任せるよ、といった風情で、切羽つまらない態度に、かえってこちらが救われた。

帰り際、その著書『真田一族外伝』を下さると言うので、自署をねだった。

長野で、編集者、フリーランスのライター、そして古書店経営とキャリアを重ねた田中さんだったが、もともとは、松本は村井のご出身。

墓所は寿地籍の菩提寺に在ると、ご遺族から聞き、かつて訊ねてみたがわからず。

日々のせわしさで、そのままになっている。

忘恩を悔うのならば、今度こそは伺わないとな、と自分に言い聞かせる五月……。

では。

石川に秘密? あり。

5月14日(昨日のこと)、と聞いてピンと来たら、その方は相当な日本史通だ。

高校時代、日本史の教科書を一度も開いたことがなく、で、見事に赤点をいただいた萬年など、どんな日なのか、まったく無知で今日まで生きてきた。

今回、この日の出来事について知ることで、実は、ご幼少からの疑問が解決した、というお話をひとつ。

1878(明治11)年5月14日 午前8時30分。

馬車で皇居に向かっていた、内務卿(実質的な首相) 大久保 利通は、紀尾井町清水谷において、士族6名によって暗殺された。

大久保は1830年生れだから、享年47。

世に〈紀尾井坂の変〉と呼ばれる、テロリズム。

事件直後、現場に駆け付けた者のひとりが、前島 密(1835~1919年)。

大久保の遺体について記しているけれど、その惨状には息を呑む。

ところで、実行犯の内、5名は、石川県の出身。

携えていた斬奸状(ざんかんじょう)には、政治家としての大久保に五大罪あり、との告発がしたためてあった。

さて、事件発生当時の石川県は、現在の石川県(旧 能登と加賀)に加え、富山県(旧 越中)全域と福井県(旧 越前)の大半を含んだ、それは大きな県だった。

けれど、事件がきっかけとなって、不平士族が多く、しかも大県なので統治するに厄介なエリアだ、と明治政府に認識されることになる。

結局は、数年後、現在のとおりの、福井、石川、富山、の北陸3県に分割された。

だから、紀尾井坂の変なくば、石川県は今頃、全国屈指の大きな県だったはず。

例えば、静岡県(駿河+伊豆+遠江)や、岐阜県(飛騨+美濃)をしのぐくらいの。

小さい頃、日本分県地図を眺める度に……、
口を開けた、鼻の長い横顔そっくりな、この石川という県。

なぜ、喉元を富山県によってひどく狭めれられ、また、腰から下は、福井県に乗っ取られたような格好なんだろう?、とよく気になった。

昔の能登と加賀をそっくり引き継いだ県境線、といってしまえばそれまでなんですが、ツエ―ゲン金沢のお膝元が持つ、深く、密やかな歴史ではあります。

では。