怒りの自由研究。

テーブル上の〈公報まつもと〉を見ながら、

― 今月号(8月)で特集しても意味ないじゃん、とずいぶん御立腹のご様子。

巻頭の、今月の自由研究は『観光』を指して、家人が、

― 夏のシーズンは先月からなのに、今月に掲載するのはもう遅いでしょう。

たしかに、わからなくもない。(事実、家人が読んだのは、8月末に近い頃)

ただし、これほど鋭く反応するのは、

どうやら。

この夏、小学三年生に協力した際の、

〈自由研究〉に投入したエンス―ジアズムの余熱が、いまだ残っているために違いない。

同学年の従弟が教えてくれたところでは、

自由研究には、踏むべき起承転結があって、

❶なぜ、研究しようと思ったのか (テーマ選定の理由、動機)

❷じっさいに調べたこと (調査内容)

❸わかったこと (結果)

❹まとめ (感想など)  ……の流れが定番のようだ。

実際、公報の記事もそれを模するような体裁になっている。

ただ、致命的なのは、

多数の市民に披瀝するほどの濃い内容でなく突っ込みも大甘。

市政の担当者の顔写真をそえてあるが、プライヴァシイを曝す、という意味では好ましくない。

課長級の公務員が、紙面に引っ張り出される必要もある?

市職員の仕事でないし、だいたい、(本心)彼らが望むはずもなかろう。

自由研究……。

でも、自由だから僕はやらない、という選択はゆるされていないようであるから、どこが自由か?、と思うし、

せいぜい、家族の協力や指導はどうぞよろしく自由にやってよ、の自由なんでしょう。

日本の学生は、こうやってでも一律に強要しないと、

自分発でなんらかの世界を掘り下げることをしない、と思っているのか、教員は。

でも、放っておいてほしい、僕は。

では。

消えていいものよ。

13日は、迎え盆。

父母の骨が眠る墓所に、花と線香を手向けに行ってきた。

その寺は、かつては農村だった集落に囲まれた立地。

松本へ移住してきた父が、実家と同じ宗派でと、母の死をきっかけで区画を分けてもらい、墓を建てた。

生涯一サラリーマンを通した父が、購えられたであろう、こじんまりした墓だ。

墓地の中を歩くと、くぼ地に、ただ石をいくつか積み上げた墓が、点々とする(江戸時代以前のものらしい)。

他方。

ここ20年以内で更新したと思わせる、でんと墓誌が付きそう、それはそれは、巨大で豪華なお墓が構えている。

これだけの仕立てだと、かなりの高額な出費に違いないが、

格式ある名家であれば、このような旧い地域では、それなりのモノを建立して保つメンツもあるんだろうな、きっと。

決してヒガミではなくて、

こういった投資を、それこそ、つまらん散財というのではあるまいか(石材屋さんには申し訳ないが)。

石ころを積んだだけの無名な墓地に眠る者と、冥福にどれだけの違いがあるか?

誰もがウンザリしているが、それでも、続けているならわし。

それが、形骸化した残存物と見なされて、簡略、省略されていることだってある。

自分ならヘタに呼んでもらっても困る、という真情に、流行病をきっかけに当然になった、ごくごく内輪だけの、埋葬と告別式なんかが、それ。

あとは。

国家の名においての殺害がちっとも止まぬ世にあって、

勝利によって国威を高揚させるようなオリンピックなど、もう要らん、と思っていて、

千歩譲って、政財政的に無理なく開催可能な2~3の都市の、持ちまわりで結構。

だって、周りに訊いても、熱心に画面を観ていたなんて話はないし、

僕など、女性マラソンの、5分間くらいを、画面をじっと観ていたくらい。

あとは、出勤前の、時計がわり(にもならないが)。

どんな競技も、発端はそうなんだろうが、

アソビから始まった種目が、アソビのままのいでたちで、プレイされるのをなんとなく観ているのだ。

だが、考えてみると、

いつもの街着でやっていてもらったほうが、〈お国のため〉といった義務感、悲壮感もないから、

それが、いちばん健全かも。

では。

揺るぎなき自信のようなもの。

今日、職場で、ジョー氏から聞いた話。

家で、相方が観ていたので、

一緒に、オリンピックの、女子卓球の団体戦を観ることになった。

そこで印象に残ったのは、

中国選手の、たとえ、セット、ポイントを落としても動じないプレイぶり。

あぁ、この対戦は、中国が獲るだろうな、と思っていたら、

やはり、中国が勝利して、優勝した。(日本は第2位、でも、たいしたものです)

こういうのを聞くと、なるほど、と思うわけなんですが、

場数、経験、自己と相手の技量差の読み取り、いろんな要素が、

ポイントひとつひとつのシーンになって、かつ、ゲームの流れを引き寄せる力量が、結局は、モノを言うんでしょうかね。

聞けば、日本人プレイヤーはかなりの若年で、4年後は楽しみだね、とジョー氏。

卓球という種目。

ポイントひとつごとに、握りこぶしのガッツポーズと、素っ頓狂な声を張り上げるのが、なんとも美しくないのだが、

そういう仕草をマスターするのは、どうでもいいから、

とにかく、テクニックに裏打ちされた、したたかさで魅せてもらいたい。

では。

山雅やま部を,ひそかに応援する。

たまあに見舞っていた(寝たきりだった)、中学時代に担任だった御方が、この6月に亡くなった。

訪問の約束をとろうと電話して、そのご逝去を知った。

ご自宅に弔問にうかがい、遺骨を前に、奥様と、亡き人の想い出など話す中、

― わたしね、蟻(あり)高の山岳部だったのよ、とおっしゃる。

なるほどね。

故人は、大町山岳博物館長を務めたくらいに、

山々や、高山植物には造詣が深かったから、初耳ではあったが、連れ添う女性との出会いが、なんだか鮮烈に、腑に落ちた。

ただし、僕自身は、師に違背したわけでもないが、

登山を趣味にすることもなく今日まで至る。

ま、今の住処と暮しが、玄関を一歩出たら、即、高原のようなものだから、

庭にシート敷いて寝っ転がれば、それが、そのままアウトドアアクティビティさ、と広言している。

たとえ、ちょっと近くの野山に出かけるにしても、アウトドアの本質とは、

〈何を持っていかないか、または、何を捨てて自然に入っていくか〉に在ると思っているので、

快適で、至れり尽くせりの道具に囲まれた活動には、無縁でいたい。

で。

この度の、山雅やま部 (登山部ではない) の発足。

その趣旨には、したがって、おおいに賛成。

けれど、独行好みの萬年ゆえに、秘かに応援することになりそう。

では。

TV画面よ,TVよ (パリの憂鬱)

始まってみて、思い知ったけれど、

毎朝、TV画面がもはや、出勤前の時計がわり、とならない。

パリでやってるオリンピック中継に番組が占拠されていて、現在時刻がつかめないのだ。

……この不都合が、しばらく続くのは、どうしようもないか。

サッカーは、フルタイムのゲームを観るほど興味が湧かないけれど、

ハイライトシーンは、自然と、眼に飛び込んでくる。

男女ともに、グッドゲームを闘っているようだから、喜ばしいことだ。

僕が、特に印象深いのは、

男子の場合だと、23歳を超えるプレイヤーを何人か使える制度(オーヴァーエイジ枠)があるはずだけれど、

今回のナショナルチームは、そんな、ケチな手段を採用していないらしいこと。

ゲームの勝敗そのものより、OA非招集に、

世代を追ってタレントが次々と出現している事実が証明されていて、嬉しくなります。

(といっても、もしも戦績が芳しくなければ、メディアは、非招集の責を追及するんだろうから、なんとも)

ついでに、女性の、対ブラジル戦のハイライトを覗くと、

ゲーム終盤に、絶妙なロングシュートが決まっての勝利(しかも逆転)。

サッカー人生にあって、そうは(2度と?)ないような美しいゴールだろうが、

決めた時間帯などから、これを観て、

最後まで諦めない好見本、みたいな言いようが予想される。

けれど、おそらく。

プレイヤーは、引き分け(ゲームプランとして)で終わろうとしていない限りは、笛が鳴るまでは、勝つために闘っているわけだから、

諦めずに観ていて良かった、という観戦者の感情を投影するあまり

あたかも、それを、やっている者の(必死な)心理として表現するのは、いかがなものか?

こういうのは、原因と結果の法則、の吟味されない当てはめ、に過ぎないから、事実の歪曲にも、つながりかねない。

まぁ、しかし。

すべてのプレイヤー達には、ゲームに没頭できる限り、時間を楽しんでもらいたい。

あいも変わらぬ、メディアの〈メダル病〉的な報道など、どこ吹く風で。

では。