藪の中こそ、これからの常態。

映画『羅生門』(1950年 大映)は、

芥川 龍之介 作『藪の中〛(1922年発表) をその下敷きにした脚本。

で、芥川は、今昔物語集の一話をモチーフに、その短編を書いた。

……時代は平安の世、藪の中で、ひとりの侍が殺され、ひとりの貴人(女性)が凌辱される。

検非違使の庭(お白州) に召喚された、当事者、目撃者、死霊、そのすべての証言がたがいに食い違いをみせて、事の真相はまるで、藪の中のように判然としない……という話。

以前。

僕は、事実(実際に起こったであろうこと)と、真実(起こってもらいたいこと、そう願うこと)とは、きっちりと画すべき、と述べた。

その考えによれば、

芥川の作品は、どうこう議論の対象にもならないと思うが、

過去、文学者間の論争がけっこうあったらしい。

読み手がどう解釈しようと感じようと勝手であり、

そして、〈真実〉が事件当事者によって異なることなど茶飯事なのだから、

それが、もしも、読後感の、釈然としなさから起きた議論であるならば

作者(芥川) の、テーマを語る熱意とテクニックの不足だと、僕は思う。

さて、かように。

真相さがし、原因(と結果の連鎖) 追求は、

自然科学が大きな顔をするようになった、18世紀以降の、人間の悪癖だが、

昨秋以来の、米の(小売における)価格上昇。

僕など、積極的に報道を獲りにいかない者にも、

メディアの画面では、スーパー店頭では、いままでの2倍。

困った顔の消費者の声をひろっみせるのが、いきおい目に入ってくる。

専門家と称して、ボケたカメラの向こうから語る御仁の解説の、まぁ、腑に落ちないこと、まことに夥しい。

要は、価格が 2倍に跳ね上がったのは何故か?、に対し、誰もキチンと応えない。

ならば。

わからんものはわかりません、と言ってもらったほうが、よほど爽快だ。

備蓄米を放出します、といっている国家にしたって、

やってはみるが……程度の語り口で、いつまでにどうします、という目算もないのだろう、きっと。

農林水産省が、今年のはじめ、チョッとした調査(聴き取り程度、捜査でなし)をやっている。

これによると、米の生産量は、ここ数年、700万トン半ばで、安定的に推移。

(おそらく、消費量にもそれほどの動きはない)

ただし。

従来、JAなどの大手集荷業者が、米を一手に吸い上げて流通回路に流してしたシステムに、ジワリと、それから逸脱する〈動き〉が起きている。

つまり。

農家が、直接に小売業者や消費者へ売る、とか

中間では、支配的な大手だった卸売りから、より中小規模の仲買者に売る、なんかが、それ。

悪意でみれば、農水省が、この調査を読む者を、

既存流通が、それ以外の流通経路に侵食されつつあるのが、根底要因であって、

各既存流通の中で感じられた不足感が、物の流れを停滞(在庫の積み上げ)させ、

それが、過敏反応により末端価格を押し上げた、と導きたいのか、と邪推してしまう。

しかしですよ。

米を、独占的な流通支配のシステムから解放し、

生産者の収入が、自由化によって増加すれば、この傾向は、まことに慶賀ではないか。

かといって。

小売業にしても、いつまでも黙っていないだろうから、(消費者は嘆くだけ)、

たとえば、ツ〇ハドラッグと統合して巨大化したウ〇ルシアのようなところが、生産者から自分のところまでの一貫流通をつくるかも知れぬ。

ピンチこそは、チャンス。

では。

虚言(ウソ)こそ,真実。

仮に。

僕らが、感覚器官をとおして、実際に起こったのを見聞きしたことを〈事実〉と呼ぶとしよう。

対し。

過去に生起した事実に接した経験知にもとづいて、人が、

起こってもらいたい、起こるべきである、と願う、そのことを〈真実〉と呼ぶ。

実際には無かったが、現実ではほぼあり得ないが、

世の中、こういうことがらが起こっても良いではないか、と僕らが思うことです。

……ところで、

僕の家から、スープが冷めないほど近くに、

今年の一月に、ご長男を亡くした女性( A子さん)が住んでいる。

ある日、彼女から、

今度、息子の遺影を鴨居に飾りたいのだが、なにせ高い場所だから(こちらは女手のゆえ)、手を貸してもらえまいか、との電話があった。

あぁ、お安い御用です、都合の良い日を教えてもらえれば、すぐにでも伺いますよ、とお答えした。

で、つい、先日のこと。

A子さんとは(電話で)よく話すらしい、B子さんと、家人が電話で話した。

その際、B子が、

この前、A子から

お宅のダンナに、息子の写真を飾るのを手伝ってもらいたいと頼んだら、

あぁ、ちょうど良い機会だから、その時に、ご長男を偲ぶ集まりでもやったらどうか?、と勧められた、と聞いたわよ、とのこと。

― まさかぁ。うちの亭主が、そんなことを提案するわけ決してないわ!、と家人は即座に否定した。

帰宅した僕は、その話を聞いて、いや、そんなことは言ってないなぁ。

こじんまりと内輪ではあっても、キチンと葬儀で弔っているのだから、

そういう、いわば、無意味な虚礼などは、僕にとってはまったく論外のこと。

……さて。

この、まるで僕を騙ったような顛末は、あまりに唐突で、印象深かったので、考え込まされたのだが、

単に、これを、A子の虚言(ウソ)で片づけるのは、間違っていて、

(誰が提案しようとも)亡き息子を偲ぶ会は、彼女にとって、ひとつの〈真実〉ではあるまいか。

つまり、起こってもらいたいこと、なのだ。

そして、なぜに、そういう集いが A子にとっては必要か?

おそらくは……、

そういう集いの中、周囲の者は、息子を失った自分に弔意を表すだろう。

その弔意こそ、彼女にとっては、自分の現在(喪失と悲しみ) に払われるべき同情と敬意であって、自分とは、それを受けるにふさわしい存在なのだ。

つまりは。

自分の存在価値を、僕の提案という形の架空な話を作り上げることで、他の人に認めてもらいたかった。

……どうも、人間は、かなり手の込んだことをやってでも、自分を価値化したいらしい。

もちろん、この〈真実話〉は、とっさにA子の口から出たはずで、彼女自身に、創作のカラクリなどは、まったく意識されていない。

今後、A子と話す時はかなり言葉に注意しなくちゃあな、とは思ったが、

世の、優れた文芸作品は、作者が、こういった〈真実〉を巧く駆使しているのだし、

事実と違うことを、それがすべてウソで押しとおすだからダメと断ずるほどに、僕は他人に冷淡にもなれないし。

こうやって、人間本性のホンネと深層に触れるのは、経験する意義もあることかも知れないぞ。

これからも、どこかで生みだされる彼女の〈嘘〉= 真実を、だから、ただ責める気にはなれない。

ただ、哀しいかな。
虚言を使ってまで愛と関心を求める者は、周りからは、ますます疎んぜられる。

……もちろん、

事実 = 真実の一本槍で生きたい者にとっては、以上、わずらわしいお話です。

では。

なぜ,その実況が評価されるのか?

この前の相模原戦。

その実況は、DAZNの(松本山雅のホーム)番組制作委託先である、

信越放送アナウンサー、平山氏が担当した。

僕の知るかぎり、2回目かな。(昨季の宮崎戦以来)

この方、山雅のゲームのほとんどで、ピッチレヴェルで取材しているのを、

DAZN画面をとおしてお見受けするので、ふだんからサッカーには精通してしまう担当業務をこなしている(と思われる)。

で。

もしも、平山氏の実況が、高評価を獲ているとしたら、

それを祝しながら、僕の感想を少々。

〈なぜ評価されるのか?〉(その要因の大きいほうから番号順に)
❶それが、3部リーグのゲームであること。
このリーグ戦放送には、解説者を設けていないので、
(プレイオフは例外)

(平畠氏をのぞき)実況は、地元局アナウンサーが受け持ち、

データ紹介、ゲーム様相の追いかけなど、すべてをこなす。

そこには、解説者への質問や忖度がなく、

聴き手、受けたまわり手といった、消極的な役目も排除される。

つまり。

全部ひとり(影にスタッフは居るだろうが)でこなす覚悟があるだけ。

そこに、使命を完結しようとする爽快さを、僕らは感ずる。

❷女性による実況が、現実、いまだレアであること。

だから、好奇の対象であり、視聴者の耳には新鮮。

(これは、女子サッカーが、女性による実況と解説がもっぱらであることとの表裏一体で、露骨な性区別だ)

平山氏は、ゴールの瞬間、この人としては最大限の腹の底からの〈だみ声〉のつもりだろうが、

これにしたって、その高音で細いトーンが、男性のそれとは、隔絶している。

……あと何年か経って、女性による実況が日常化し、それ自体、誰もどうとも言わなくなる、そういう世界がきっと来ます。

そしたら、こんな記事が成り立つ現在が、あり得ない、と将来からみて蔑まれることだろう。

さて、余録。

2部リーグより上は、そういうわけで、DAZNは解説者を有するけれど、

これがけっこう、聴くに堪えずに煩わしい場合がある。

特に、ゴールが決まった瞬間の、

うわぁぁぁっ!、といったような喚声、あれこそは、いただけない。

本人は、その場を迫力づけしようとしてるんだろうけれど、

もともとサッカーでメシを喰って来たんだろうから、

前代未聞のゴールならまだしも、

大の男が、人前で軽々に発するのは品格に欠ける行為。

こういうならわしこそ、絶滅してもらいたい。

そこを冷静、平然、坦々としのぐ解説者が、支持されることによって。

では。

嫌われるには訳がある。

やはり雪もようとなった、3月5日。

かねてより自分に課してあった義務を果たしに、

松本美術館へ出かけていった。

当日は非番、しかも、この天候ならば、会場も閑散に違いない。

ゆえに、心おきなく〈仕事〉ができよう、と踏んだのだ。

撮影が許可されているロートレック展の、出品された素描を、とにかく我が物にとする仕事が。

結論からいえば、

全部で 300枚弱をデジカメに撮り込み、パソコンにフォルダーとして保存した。

ロートレックの、(石版画の線描の)下絵、いわば、舞台裏みたいなものが、どうであったのか、

どこまで対象をとらえようとしていたのか、いなかったのか?、

そのテクニックはいかほど?

そんなことを伺い知れる機会はメッタにない。

撮影は許可します、どうそ。

といっても、何点かのポスターをのぞき、くまなく写真に写し獲られる事態を、主催者側、

すくなくとも、会場の監視員が、あらかじめ想定しているはずもなかろうから、

思ったとおり、有形無形の牽制が入る。

展示台に、スタンド型フォトフレームに入って置かれた素描群。

これを接写するには、いきおい、台の端に肘をついてカメラを固定する体勢になってしまう。

これをやっていたら、すかさず、

― はい!、展示台に触れるのは止めましょうね。

まるで小学生を諭すような口調で、教育的な御指導が、ジジイに向かって放たれる。

招かれざる〈客〉を、不興を押し殺し、やんわりと封じ込めたい気持ちは、痛いほどわかる。

あれだけ接写していれば、作品に近づき過ぎとの理由で、退場も宣せられたように思う。

ただ。

こっちも、1,600円と、千載一遇のチャンスを逃したくないから、

約1時間の静かな闘いが、続く、雪の日であった。

自分にとって、特に、自分だけにとって、大切なものを死守しようとすれば、

傍からみると、かように、ぶざまな光景になるものだが、美術館のご担当には、その忍耐に感謝しよう。

では。

満月にさようなら。

昨晩の午後8時近く。

友人からショートメールで、

― 今晩、満月はっきりです、と挨拶が届く。

14日は、望月(もちづき、満月のこと)だったのです、今月一度の。

旧暦だと、昨日は、2月15日(きさらぎの15日)に当るので、

西行法師(1118~1190年3月) が、吉野(奈良県南部)の桜を詠んだといわれる、あの歌、

 

 願はくは花の下にて春死なん そのきさらきのもちづきのころ

 

と季節的には、ドンピシャの当夜。

桜花の頃に、満ちた月を眺めながら、この世を去りたい、

と詠ったとおりに、西行が死去したことを、

昔むかしの、日本の文芸人は、感動をもってとらえていた、と聞きます。

では。