ほとんどイジメ 。

― あたしから言わせれば、マスメディアの姿勢、あれはイジメ以外のなにものでもないわ、ほんと。
ま、記事を詳しく読むこともしないけど。

このところ話題を提供している、皇籍あるお方のご成婚について、家人が感想を漏らしたんです。

おおくの人に、モバイルやパソコンの画面が身近な昨今。
見ざる聞かざる、と思っても入りこんでくる、どうでもいいニュースのひとつ。

では、言わざるにしようか、と思ったが、たまたま家に来た娘に、この案件で意見を求められたこともあって、すこし記しておきます。

人間生きていれば、挫折、失敗もあるだろうし、100%品行方正でいられるものか。
どこかで、いろいろと病まざるを得ないもの。

赤の他人の自律に、いろいろケチをつけるとは、いったい何様のつもりか?

自分が正義の側に在る、と思った瞬間、人は残酷になるのであって、ゆえに〈復讐するは我にあり〉として、聖書は、人が人に報復することを禁じた(ローマ人への手紙)。
要は、報復とは、神の仕事なわけだ。

なので、西洋には、すくなくとも理念として報復は禁じ手であるが、そういった禁忌が存在しないこの国では、正義に名を借りた虐待(イジメ)には、まったく歯止めがかからない。

読む側の正義感や健全なる者としての自負心をくすぐりながら、記事は仕立てられるんだろうけれど、たかが他人の髪型をもっともらしく論じるだけでメシを喰えるって、それこそ、虚業で、マットウな商売じゃあない。

多額の?一時金にしたって、たとい本人から辞退の申し出があっても、支給すればいいではないか。

その出所が税金云々とか、なんという了見の狭さ。

なになにの名誉総裁とかに担がれて、退屈な仕事の数々につきあってきたことに報うのは、当たり前でありましょう。

皇室の周辺、そこに妙な完璧を求めることが、そもそも間違っている。

彼等が〈国民の象徴〉であるならば、負債、被差別、心身の貧困と向き合わざるを得ない多くの日本人とは断絶した世界観を、その言動に期待することのほうがよほど不自然。

バリバリの有望な若き外務官僚が、皇室に浸かった途端、メンタル不調になって数十年を費やしてしまう。

それが、不変で、リアルな皇室の姿、と思うところから始めないと、判断を誤りますよ。

では。

見上げる空の 心。

子どもは?、といえば、畑の中さ。

トマトの添え木の先端。

そこでトンボを捕まえようと、補虫網持ち、さかんに行ったり来たり。

おいおい、すこしは上を見あげてごらんな。

気がつけば、蒼空に、大群のアキアカネの乱舞よ。

秋は人を詩人にする?

いや。

流れる時は、一体どこに向かっていくのか?、そんなことを一瞬思うだけ。

では。

 

遥かなるフクアリ と嘘。

非常事態なんとかが、昨日で一斉に解除された。

早速と、ガイド人ジャガー氏には、この週末、東京発、1泊2日の登山ツアーが入って、まことに慶賀の至り。

ところが、フクアリの千葉戦は、やっぱりアウェイ席なしで実施されるようであるから、JR電車で千葉駅から蘇我駅へ、そこからスタジアムまで歩く愉しみ。
これは、今シーズンもお預けなんです。

観客収入にあくせくする必要のないクラブの鷹揚さ、なんでしょうね。

ところで、電車と言えば、立ちんぼが大義そうな御方には席を譲るように心がけているんだけれど、
相手にもよるが、その方の恐縮と場の硬い雰囲気を緩和しようと、こんなことを言って席を立つ。

― いや、なに、ちょうど次の駅で降りるものですから……。

そして、駅で停車したら、一旦ホームに降りて、別の車両に移る。

僕については〈ウソ〉が多い、という家人の指摘はかなり的を得ているんだが、ならば、こんな嘘はいかがでしょうか、と今度訊いてみようかな。

そうしたら、きっと、

― なにも、そんな芝居じみたことはしないの!、そのまま自然に吊り革につかまっていれば いいのよ。

……、とおっしゃるに決まっている。

では。

啓示は 朝に舞い降りた。

土曜日の朝6時前、某公共放送は、亡き人(往年の有名人)を偲ぶ番組を流している。

萬年、そろそろご出勤となる時間。

食事などしながら、時計代わりに画面を見つめていることが多い。

先週は、たまたま、小林 亜星(作曲家、1932~2021年5月30日) の番であった。

けっして達者でなく、むしろ下手と思うけれど、テレビドラマにも役者(主演級)として出ていたっけ。

そのドラマ、当時の僕は、娘役の梶 芽衣子 観たさにチャンネルを合わせていた、遠い記憶が蘇える。

番組では、対談などにおける亜星氏の発言が、時々、挟み込まれる。

その中の、この言葉。

― 曲 というのはね、作ろう作ろうとしてはダメなんだ。ふと湧いてくるのが良いんです。

おぉ!、これ、僕にとっては、まさに天啓でありました。

ためしに〈曲〉のところを、たとえば、〈笑顔〉に置き換えてご覧なさい。

― 笑顔というのはね、作ろうとしてもダメ。自然に湧いてきてこそ価値がある。(by 萬年)

家人には、数十年来、何かにつけて、あなたのはね、とってつけた云々、と言われ続けてきた僕。
要は、誠実さに欠ける、ってわけ。

ゆえに、笑顔に限らず、残された人生を活かすためにも、おおいに有り難いお言葉なんでありました。

ところで、北へ向かう、帰る、の言葉には、なぜ、こうも悲しい響きを感じるんだろうか……。

亜星氏の名作『北の宿から』から連想されたことですけどね。

では。

逆説のキマジメ (『堕落論』に寄す)

僕が二十歳の頃、同じアパートに、国会に勤める女性が住んでいて。

(たしか、速記者だったような。記憶が定かでないけれど)

或る時、最近どんな作家を読んだの?、との話題になった。

坂口 安吾が面白いと思う、『堕落論』(1946年4月発表)なんかが、というご説。

な~るほど、こういうマジメな人には、新鮮なんだろうなぁ、と聞いていた。

― (太平洋)戦争に敗れた社会的な混乱の中、かつての特攻隊員は闇商売に手を染め、寡婦は新しい男を作る。
封建的な倫理にあって、そういう行為は堕落とされてご法度だった。

けれども、そこで〈堕落〉とされたことこそが、人間性に合致した生き方であって、人性を熟知していたからこそ為政者は、巧妙な禁制を作りだしたわけだ。

いまや、人は堕ちて、堕ち尽くしたところから始めるほか手はない。
そして、人間を取り戻すのだ
― といったことが、安吾独特の、逆説的筆致で語られる。

〈堕落〉してこそ、そこに人間本来の生き方が存す、とはキワモノ的な表現である。
けれど、読んでみると、しごく当たり前のことを言っていて、作品発表から75年が経ってもけっこう素直に、心ある者の胸にハマるのではないだろうか。

書いた当人の安吾が、きわめて礼節を重んずる人だったことを勘定に入れるといっそう、そこら辺がしっくり腑に落ちる。

こんなことを、別のところで書いているのだ。

― 電車に、ご高齢の母とその娘とおぼしきふたり連れが乗ってきたが、混んでいて、あいにく座れる席がない。
すると、ひとりの男性が立ち上がり、母のほうに席を譲ってくれた。
次の駅になったら、母親の隣の席が空く。
そうしたら、娘がさっさと座ってしまったんであるが、それはない。
さっき母に席を譲ってくれた人がまだそこにいるのだから、彼に席を勧めるのが礼儀というものだ……。

つまり、安吾のいう〈堕落〉とは、分別もなく好き勝手に生きることとは違う。

『堕落論』発表から相当の年月が過ぎ、ひょっとしたら、時代の大勢が、彼の唱えた〈堕落〉とは異なる、やりたい放題の〈堕落〉に突き進んでいるのかも知れないな、と思ったりしているのです。

特に、戦火もないこの国で、平気で幼児を虐殺する行為を聞かされるたびに。

では。