異変がひとつ。

 

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

軒燕古書売りし日は海へ行く      

(ともに、寺山 修司)

 

四月も、そろそろ下旬だというのに、

隣家のつばめは、いまだに、姿を見せない。

車庫の軒下に残された巣はみっつ、空のまま、補修された跡もなく……。

  

  つばめ来ぬ 家の息子の  三周忌      萬年

では。

あまのじゃくと花ざかり。

やれ、桜だ、み吉野だ、と。

この時季、あたり前に過ぎるお題目で、陳腐なこと。

横を通り過ぎる時は愛でもするが、

わざわざ出かけて行ってまでして、観桜はしないかな。

と、うそぶいては、

新古今和歌集の〈冬歌〉のところをめくっていたら、

駒とめて袖うち拂(はら)ふかげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ   (藤原 定家)

が目につく。

おそらく、これは、

同歌集の〈春歌〉に収まった、親父である、皇太后宮大夫俊成 (=藤原俊成) の作、

駒とめてなほ水かはむ山吹の はなの露そふ井出の玉川 、を意識しているんだろうが、    (☞山吹の花に露がしたたる清流で、乗る馬に水を飲ませよう……の意)

なかなかに、技巧的な一首。(定家の得意顔が、目に浮かぶ)

袖に降りつもった雪をうちはらう馬上の殿上人(公家)、といっておいて、

瞬時に、そんな姿はみえないけれど、と打ち消してみせる。

ゆかしき華やかさの、突然の否定。

寂寥として暮れかかる、なにもない冬の野が、いっそう引き立つ効果。

作者が、言葉によって読み手を翻弄する手法のひとつだ。

調べれば、このネガティブなトリックはきっと、定家より前に開発されていると思いますが、

近くでは、石川 啄木や、寺山 修司も使っているから、

日本短歌、あるいは、日本的抒情に存する、根っこのひとつなのかも知れない。

では。

生きる価値の源泉。

レオナルド ダ ヴィンチ(1452~1519年) 。

この名を知っている人は、ずいぶん多い。

けれど、あぁ、絵画モナリザの作者か、で済ませがち。

だが。

その生涯をざっとみると、画才のみか、その才能は、極めて多領域に発揮されていて、

もしも、モナリザ制作に精力を注ぐことなどせずに、

当時の、都市国家の君主いづれかにでも雇用されて、

国家における、設計建築、軍事/外交から民生にいたる統治(行政)、さらに、芸術文化のすべてを含んでのプロデューサーの職に就いていたら、

かなり面白い歴史的な遺産をみられたかも知れない、僕らは。

……つまらん夢想はこれくらい。

で、彼は、こんな言葉を残した。

自分が、如何に生く可きかを学んでいると思つてゐる間に、自分は、如何に死す可きかを学んでゐたのである。  (訳 芥川 龍之介)

大正初めの硬い翻訳文を、いまふうに言い変えれば、

自分では、どのように生きるべきかを究めようとしたつもりが

なんのことたあない、どのように死ねばよいのかを学んでいたのだ……、となろう。

誰にでも、(すくなくとも一度の)死が、いつかは、訪れるからこそ、

いま生きている人生(=瞬間、瞬間の堆積) に価値が生じること。

これに、ダ ヴィンチが気づいたのは、いつ頃だったんでしょうね。

それから200年後。

『葉隠』の著者(1716年頃成立、佐賀藩士山本 常朝の口述を筆録)もまた、

同様な真理に辿りついて、

〈武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり〉とする。

これを、ただただ、死を厭うな的の特攻精神と、誤ってとらえたのが、

国家、天皇陛下のためには命を棄てよ、とされた、あの当時のこと。

ところが、1945年8月を境に、今度は、

どんなことをしてもわが命を棄てるな、我が身が一等大事、と振り子が真反対に振り切ってしまってから、80余年。

結果。

今の日本人には、生物学的な生命第一主義の死生観しか存在しないから、

命を賭してでも事をおこなえ、などとやったり言ったりした者には、

頑迷な好戦主義の烙印が押されるばかりなり……。

では。

ものを言うこと。

半世紀前に、ひとりの文筆家が、こう記したー。

ものを言ふというのは本来は言ひたいことがあるから言つたのであり、

言つた以上はその責任を取るのが常識だった(by 吉田 健一)

どうやら当時、世の中が、すでに、そうなってはおらずに、

言いたいことよりも、言って得になることが重要視されたり、

言ったことに責任を取るなんてのは損だ、という風潮があったから、

こういう言葉が、吐かれた、と思う。

それから。

ずいぶんと時間が経ちまして、

一個人のつぶやきさえもが、これだけおおっぴらに、大勢の耳目に届く今日。

注目されたいだけのために発する言葉が、あまりにも、飛び交い過ぎている。

では。

檀香梅の花に寄す。

― お医者さんからね、肺がんのステージ4、と言われても、その大変さがわからないから、こっちがすこしも落ち込んでなくて、かえって、びっくりされたの。

進行の程度が、10段階の 4つめ、くらい、と思ったらしい。

いやいや、ステージ4 とは、もはや他の臓器にも転移していて、外科的な手術ができない最終的な段階です。

― そうだってね。
一般健診で見つかるまで、自覚症状が、ぜんぜんなかった。
いまも痛みはなし。ただ、お薬を飲んでいる。最近は、いい薬があるみたいで、いままで言われてきた生存率にも変化が出ているとか。

― 薬の副作用でね、手指の皮膚が、あかぎれのように割れて大変。
いまさら、指の中で、親指の働きが大きいことを実感したわ。

私も、中指骨折してはじめて、親指と人差し指が、8割方重要、ってわかりました。

― 大きな救いはね。一昨年に、〇〇さん(ご主人の名)が逝ったこと。
これが、逆だったら、〇〇さんを看る人がいなくなっちゃたから。

脳血管障害で倒れて以来ベッドで、9年間、奧さんが自宅で介護していたのは、

かつての僕の中学時代の担任。

折をみて、自宅に見舞っていた。

さぁ、春になったことだし、

彼岸だから、ご霊前に花でもと、あらかじめ連絡した時に、

病気になったことを、ご本人から知らされた。

電話の向こうが、案外明るい声で、かえってこっちが救われた気分になったんだが、

この日もやはり、明るく応対していただき、上がり込んで1時間ほど話した。

帰り際に、お庭の檀香梅から切り取った小枝を、いただく。

また、うかがいます、と辞したが、

一期一会、という言葉が、胸に去来した。

では。