なぜ、回りくどい話になるの?

久しぶりに、塩尻市図書館に出かけた。

ほぉ、以前やってた、ご利用の1時間制限はもはや廃れている。

調べもので少々ボーっとしたアタマを休ませようとして、給水するためロビーに降りてみると、
ホール壁一面に、スカイブルーと黄色の短冊が張り付けてある。

〈ウクライナ支援〉寄せ書きコーナーなんですね、これ。

おいおい、支援の気持ちを表明することより、今やるべきは、侵攻している側を(言論でもいいから) 痛烈に叩くことだろうに。

戦争は、明らかに侵略の様相なのに、被害者に同情を寄せよう、みたいな発想が一体どこから出てくるのか、正直、僕には理解できない。

虐待(いじめ)する側を成敗せずしておいて、被害者に、お前にも落ち度はあるよな、でも頑張れ、って言うのと、どこが違う?

そう思いながら覗き込むと、何百枚もの紙片の中には、〈プーチン、戦争止めろ〉という書き込みが多々あるので、気分が少し救われた。

おそらく、ウクライナが今欲するのは、気持ちよりも具体的な支援、つまり先立つモノだろうと思って手許のテーブルをみたら、小さいなりに募金箱が在ったので、ますます救われた。

77年前の手痛い敗残と辛苦、それに加え、西側陣営で割り当てられた役割とアジア情勢のゆえから、幸運にも! 日本人は、国家の名において人を殺めたり他国を侵したりすることなく過ぎてきた。

けれど、それ以前の40年間は、東南アジア地域に対して、今の露国と同様な、非難を受けるにふさわしい武力行使をしたことを、僕たちは都合よく忘れてはならない。

だから、武力侵攻の見本としてパールハーバー突入を引き合いに出すことはいたって正当であるし、これに反論することなど、到底できやしない。

では。

洋服論 (1916年の) を少々。

(時候の憶え、6/28、庭の桔梗がひとつ開花)

西暦1916年は、元号でいうと、大正5年。

その8月に、永井 荷風 (1879 ~ 1959年) は、随筆『洋服論』を発表している。

ダンディズムとは、結局、何を着るか? (または、何を着ないか?) に尽きる。

ゆえに、稀代のスタイリストであった荷風先生が、西洋由来の服飾について論ずるのは、まったくの好テーマであった。

今から、ほぼ1世紀ほど前のご教示ではあるが、時空を越えてなお傾聴すべき内容です。

興味あれば、青空文庫 (荷風作品にもはや著作権はない) で手軽に読めるので、ご一読をお奨めしたい。

で、少しそこから、箇条的(原文もその体裁) に引用すると……、(註:現代文に変えています)

〇ハンカチーフは、晒麻(さらしあさ)の白いものを上等とする。
縫取りや他の色モノは女性用であって、男性が使えば、気障りでしかない。
米国では、キザな男が時々スーツの胸ポケットからハンカチをちょっと見せたりする。(ポケットチーフのことですな)
英国人は、袖口へハンカチを丸めて入れ込む流行がある。(へぇ~、知りませんでした、試してみたくなりますよね)

〇洋服はその名のとおり西洋人の衣服であるから、すべてにおいて本場である西洋を手本とすべきなのは当然。
ただし、日本人が洋服を着る場合、黄色い顔の色に似合ったものを選ぶことが肝要だ。
黒、紺、鼠(グレイ)などの地色であれば、ほとんどの者に合うので無難だろう。

〇洋服の仕立ては日本人よりも支那人のほうが遙かに上手である。
東京でいえば、帝国ホテル前に在る支那人が営む洋服店の評判が良い。
銀座(4丁目の) 山崎洋服店なんかはぼったくるばかりで、縫い目とかボタンのつけ方が堅固でない。
こういうのは、縫い糸を惜しむ行為であるから、日本人の商人ほど信用の置けないものはない。

……どうです?、なかなかの見識でしょう?

たとえ、相手が当世の有名店であっても、クオリティーの無さを具体的、かつグサリと批評するところなんか、流石は、荷風。

こういう悪口には他意がないので、読んでいてすっきりと腑に落ちます。

では。

テグジュぺリのブレスレット。

サン テグジュペリは、1900年の、6月29日に生まれ、

1944年7月31日、地中海域で偵察機(ロッキードF5型)を操っているところを、ドイツ軍機 (メッサーシュミットBf109) に撃墜されて戦死した。

享年 44歳。

ただし、当時は消息を絶ったのであって、戦死と認められたたのは、かなり後年になってのこと。

1988年、マルセイユ沖で、テグジュぺリと妻の名が刻まれた銀製のブレスレットが、漁船の網にかかって発見された。

それを契機に、2003年の捜索によって、彼の搭乗機の破片などが回収されたことで死亡が確定。(ただし、遺骨は未発見のまま)

テグジュぺリは、1940年に米国に亡命している。

だから、1943年、自由フランス空軍への実戦参加は、外国籍の義勇兵の身分としてだった。

……、と書き下すと、けっこう格好はいいが、御年すでに40代半ば、しかも、実戦投入直後には機体を破損させる事故を起こし、軍規によって飛行禁止処分を受けた身の上。

既に第一線から退くべき者が、あえて搭乗に固執して復帰できた背景に、もしも、テグジュぺリの作家としての名声に対する配慮が在ったとしたら、僕には、かなり興醒めなこと。

もっと有能なパイロットを搭乗させないのは、戦略的に言っても、あり得ない話だろうと思う。

さらにさらに、後年、テグジュぺリ搭乗機を撃墜したと証言した、元独空軍パイロット(ホルスト リッパート 1922~2013 )は、あれがテグジュぺリ機とわかっていたら、撃ち落とすことはしなかった、と述べているらしい。

これ、ご当人からしたら、テグジュぺリへの敬愛を示そうとした発言なのかも知れない。

けれど、相手が無名のパイロットならば平気で撃墜してたんだろうし、それが軍人として当たり前の行動だったわけだから、今さら、後出しじゃんけんのようないい子ぶりに不快感だけが残るのは、僕だけか。

けれど、現実の人生、エピソード、名声などまったく知らなくたって、あるいは、それらに耳を貸さなくたって、テグジュぺリの作品は、それ自体が素晴らしい。

そんなわけで、久しぶりに、『夜間飛行』(1931年発表、1951年 堀口 大學訳) を引っ張り出している。

では。

『ささやかなこの人生』を生きる。

ちょっとした打ち合わせをしようとして、K君にショートメールを送っておくっておいたら、その翌日、返信があった。

ご本人には内緒で、その本分をここで披露してしまおう。

……実は、今日明日と、友人と箱根の温泉に来ています。客足も増えているようです。
雨かと思いきや、気温は、30度。
一緒に来た友は、晴れ女だそうです。……

かように奥ゆかしい文章を操るところが、K君の憎いところ。

実は、来月、彼と一泊の小旅行を予定していて、そのための打ち合わせなんです。

この楽曲は、1976年の、今日6月25日に発売されている。
演奏者は、風。

湘南カラーの電車が泣けます。

では。

我が 鎌倉あたり。

時候の憶え、6/23(葉が裂けていないが、おそらく)タチアオイが開花。

何年か前の夏、僕は、相模湾に面した葉山町を車でうろうろしていた。

或る画家の作品を漁るために、回顧展が開催された、その地に在る美術館を訪れるのが目的だった。

途中、JR逗子駅に立ち寄る。

そこから、三浦半島をくねくねと周回する細い路地路地を美術館へと道をたどると、夏の日に輝く海が眩しい。

葉山は、鎌倉と横須賀の中間くらいにあるところ。

潮風に曝され、清潔に錆ついて眠っているような街の風情は、ふだん山国に暮らす僕にとって、これからいつも、憧憬に近いものを感じる景色に違いない。

だから、できる限り早く、ベルマーレ平塚のホームスタジアムに出向く日が来るのを待ち焦がれよう。

ちょっと寄り道して、藤沢から江ノ電に乗り込んでしまおう、という魂胆なんです。

では。