なぞなぞ交歓。

小学一年生の男児と、夏休みの宿題をやる、涼しい場所を、

こじんまりした村立図書館の円卓に見つけた。

(もちろん、下見の際、職員の方からは許可を取りつけてある)

昨日のこと。

ふたつの椅子を寄せたテーブルの片側で、宿題に向かってしばらくすると、

― やぁ、久しぶり!!、と挨拶を男児に投げかけて、同学年とおぼしき女の子がひとり、卓にやって来た。

夏休み帳を覗き込むが早いか、テーブルから鉛筆を取り上げると、

さんすうの引き算を、両手の指を使いながらすばやく計算し、答えを記入してから、

― 半分やってあげたから、こっちの半分は自分でやってね、ときたもんだ。

― ありがとう。君のは筆跡が違うけれど、まぁ、いいか。
じゃあね、こういう引き算はどうかな?  なぞなぞだけど。

電線に すずめが 10羽とまっていました。これを鉄砲で打ったら、1羽落ちてきました。さて、電線には、何羽残っているでしょうか?

― 10 ひく 1、だから、9羽。

― 残念でした!  鉄砲の音に驚いて、皆逃げてしまったので、0羽が正解。

― では、こんどは私の番。

世界の真ん中にいる虫は何でしょうか?

― (すこし考えるもわからず) 降参。何?

― 答えは〈蚊〉。〈せかい〉の真ん中ね。

― じゃあ、次はこれだ。

男の子にはふたつあって、女の子にはひとつしかないものは?

― (すこし考えていたが) わからない。

そこで、やおら、ノートの余白に、

〈おとこのこ〉〈おんなのこ〉と並べて書くと、黙って、こ (の字)に〇をして見せた。

― ふーん。なるほど。

― 今度、友達にやってみてごらん。

……つむじ風ように襲来すると、さらり、と去っていった女児。

この間、5分もなかった、と思う。

ただし、訊いても、〈ゆいちゃん〉という名前しか教えてくれない、小学一年生なんであります。

では。

本題は,別のところ。

ジャガー氏との会話(昨日篇) は、もともと違うところにあった。

彼のお説では、

テストで良点を出す子は、

出題者が、どんな回答を求めているか、を察知することに長けている。

たとえば、このことがらを、20字以内で言い換えよ、と問うていたら、

文章中にはかならず、20字に限りなく近い表現が存在するはず、と考える。

いわば、出題者の意図をさぐるゲーム、みたいな世界になる。

すると、ますます、生徒は、テストを出す側(教師)の器(視点、了見) を超えることがむづかしくなるわけだ。

― ところで、今年度の全国学力テストね、長野県は、全国平均以下の出来だったらしいですよ、とジャガー氏。

― 他県から来た小学生が、こっちの同学年の夏休み帳をみて、その薄さに驚いていたところをみると、それもありでしょうかね、と僕。

もちろん。

夏休みの課題の多寡で、生徒の〈学力〉が決定される、とも思っていない。

 

この学力テストでは、教科の問題よりも、〈質問紙〉と呼ばれる設問のほうが興味深い。

たとえば、小学生6年生向けのを、いくつか挙げれば、

❶朝食を毎日たべている

❷いじめは、どんな理由があってもいけないことだと思う。

❸学習塾や家庭教師の先生に教わっていますか。

❹あなたの家には、およそどれくらいの本がありますか(雑誌、新聞、教科書はのぞきます)

❺新聞を読んでいますか。

……問い❶❷は、a当てはまる、bどちらかといえば、当てはまる、cどちらかといえば、当てはまらない、d当てはまらない、の四択で回答。

問い❹は、0~10冊、11~25冊、26~100冊、101~200冊、201~500冊、501冊以上、の六択で回答。

問い❺は、ほぼ毎日、週に1~3回程度、月に1~3回程度、ほとんど、まったく読まない、の四択。

……こういうのは、かならず、なんらかの仮説があっての設問だろうが、

文部科学省(=その御用専門家)の、教育に関する見識の旧さ、が垣間みられるではないか。

では。

八朔の白、それと赤。

昨日は、 8月1日。

古式な言い方では、八朔 (はっさく、8月ついたち、の略)。

ジャガー氏 (職場の同僚、登山ガイド) は、その学生時代を京都で送っていたから、

彼に、もしやこの日、

白い着物すがたの芸妓さんが、習い事の師匠宅に、お礼の品を持って挨拶にまわる風景を観た?、と訊ねたら、

一切なかった、とのことだった。

そりゃあ、そうだろうな。
彼、夏季休暇も、バイトで明け暮れしていた学生だったらしいから、住む世界が違うか。

しかし、白尽くめのイデタチで、炎暑の洛中を、涼やか?に歩く、なんてのは、昔の人は洒落たことを発案したものだ。

これが、平清盛が京都の街に放った、秘密警察になると、

真っ赤な衣装に、オカッパ髪の若者たちであった。

どこが秘密?、と言いたくなるが、

その恰好で歩き回り、平家政権への不平不満分子を摘発した、という。

……、ということで、来夏は、ジャガー氏にガイドをお願いして、梅雨明け直後の今頃、

〈八方池〉行を考えています。

ジャガー氏によれば、ゴンドラとリフトを使って行けてしまうので、とても登山とは言わないそうだけれど、それでも〈山行〉、と思って楽しみにしよう。

では。

宿題につきあって。

この夏。

小学1、2年生の、夏休みの宿題につきあう機会と時間が多い。

この年代だと、学ぶことはおもに、算数の足し算引き算、ひらがな漢字の反復練習で、それをひたすら覚える、こなす。

よって、やらされる側は、退屈だろうが、それほど葛藤も多くない。

やらせるほうも、これくらいは身につけておかないと、生活するに支障があるだろう、くらいに考えるから、淡々と出来具合を見守っている。

ただし、こうやってつきあっていると、こういう学習なるものが、

やがてはきっと、出題者によって用意されている〈答え〉が(確実に)在って、

おもには記憶力でもって、そこに辿り着いた者を高評価するような教育へと進むんだろうなぁ、と感じるし、

僕らの世代が受けてきたのが、まさにそういうものだった。

正しかろうが、期待されていようがいまいが、たとえ他人に認められなくっても、自分でこうだ!!、と決めつけて進む。

で、上手く行かなかったら、べつの仮説を立てて、また、やり直す。

そういう試行を踏んで成長するような人格、ってのはいいなぁ、とつくづく思う。

では。

国破れて 山河在るのか?

杜甫(712~770年 唐の詩人) は、

唐王朝が、安史の乱(755~763年) によって混乱し、衰退の入り口に立たされた頃、

国の体制がズタズタになっても、山や河はあいかわらず、もとのまま。

街には春が訪れて、草木が茂っている……

、と詠んだ。(『春望』757年成立)

有名な、国破れて山河在り、とのくだりで始まる、五言律詩です。

 

けれど今、東欧の、黒海の北方辺りでおこなわれている戦争をみていると、

ふたつの国が、戦いによって、ともに疲弊した場合、

じゃあ、自然はもとのままで、そこに在り続けるんだろうか?

自然環境と生物を根こそぎにできるような兵器が、当事者に所有されてしまったのだから、

杜甫みたいに、悠長に、ことを嘆いていられないほど、

ひとつ間違えれば、ひどく危うい世界が待っている。

戦争を始めた側のおもわく、

つまり、数日内での首都キエフ陥落、および、傀儡政権の樹立はとうに失敗したのだから、

すくなくとも、侵略者に、もはや〈勝ち〉はあり得ない。

こうなると、真の勝者とは、

これこれこうなったら戦いを止めるのだ、というビジョンをハッキリと持っている方に違いない、と思われる。

では。