騙しのテクニック その❷

他国を攻撃、その元首を拉致すると、自国に連行して裁判にかける。

それくらいは、

〈世界平和のための警察官〉を自負する某国ならば、やるだろう。

が。

それを横目で見ていて、

その無法行為になんの論評もできずに、

或る高官は、(他国の)民主主義化の促進は我が国の願い、とか、言い出す始末。

なんだよ、こりゃ。

問題の、稚拙なすり替えであり、

みづからと、みづからの民を欺く、ダマシのテクニック(以下だが)ではないか。

これが、力強く、しなやかな外交の中身だとしたら、国民もずいぶんとナメられたものだ。

映画『カサブランカ』には、

ドイツ軍に対し、毅然と対応できない警察本部長(フランス人)が、

主人公(ハンフリー ボガード)に、

― あんたは、ナチにおもねるのか、と糾されると、

― いまは、ドイツ(東だった?) から風が吹いてるんでね、と言い返すシーンがある。

ここまで正直になれ、とは言わないが、

まるで、ジャイアンの横暴にすくむ のび太の心情を、

マスメディアに書かせるのではなく、

為政者みづからが、素直に表明できるようなテクニックを身につけることを、切に願う。

……おおかたの場合、

人は、他者をだますよりは、自分(ら)をだますことにおいて、より巧妙な、エセ論理を弄する。

なにかと理由をつけ言い訳をして、徳性の要求するところと義務から逃げるなど、僕なんかザラですから、

現政権の二枚舌を、責める資格も無き身ですかね?

では。

騙しのテクニック? その❶

昨年末に、ある方と、固定電話同士で話した。

通話を終えてから、しばらくして。

気づくと、その方の携帯から、僕の携帯に ショートメールが届いている。

― 先ほどは、不愛想な応対で失礼、特殊詐欺の警戒のためとはいえ、反省しており、以後、気をつけます。

特段に不愛想、とも感じなかった僕だったのだけれど、

― ご丁寧なメールありがとうございます、
今や固定電話着信の9割方は、詐欺か、アンケート装いの商法ですから。
気になさらないでください。
固定はもう要らないかなぁ、と妻と話すことがあります。

……とお返しした。

詐欺の方法も、いろいろと開発され尽くして、いまや、一段落なのか、

あるいはまた、こっちの耐性や、真偽に関する眼が、幾分かは肥えたためなのか、

特に、最近は、留守電にセットしておいて、そのメッセージを再生(あるいは、リアルタイム聴取)していると、

詐欺に引きずり込む手法が、あまりもに〈雑〉なので、二重に憂鬱になる。

自分を名乗らずに唐突にはじまる、

冒頭アナウンスが切れて話題が始まる、

〈〇〇〉(ここが聴き取れない)、では、どうぞ~!〉。

そんなのばかり。

たとえ、それが〈ホンモノの〉国政選挙の意向調査だとしてもですよ、

仕事が粗い、荒い、乱暴です。

その業界人として、

もっと発想を豊かに(=意表を衝くことにおいて)、

智恵を絞って、人をだますシゴトに精進すべきだと思う。

でないと、せっかく、ダマされるほうだって張り合いがない。

では。

そのならわし、因習にして。

 

やめて数年を経ても、なお。

ありがたいことに、小生宛て、

年賀状をくださる友誼に篤い方がいらっしゃり、

10枚ほどの便りを楽しんだ、この新春。

……今年の特徴は、なんといっても、

僕の娘息子たちの世代において

2通と、伝聞によればあと 1通で、計3つの家族が、

― 失礼ながら、来年からは年賀状を控えさせていただきます、とアナウンスをしたこと。

僕みたいな、現役を退いた感ありの者(所帯)ならばともかく、

現役、働き盛り、育児ざかりの年代が、すでに、

年賀状のやりとりを因習とみなし、これを、廃そうとしているのが、

いまや潮流であるのですよ。

こうなると、約100年ほどは続いた、年中行事としての年賀状の風習は、

これから、またたく間に消失することは間違いない。

家庭から、固定電話がなくなる速度と、おそらく期を一にして。

もともとが年賀状なるもの、

ほんらいならば年始伺いに参上すべきところを、葉書一枚で済ませるのだから、

それを廃するのは、べつの、もっと簡単、迅速な手段が日常化している昨今、

特筆すべきことでもないか。

では。

歴史から学ぶにしても。

― 歴史を学ぶと、ひとが、いかに歴史から学んでいないかがわかる。

これを、多くの者が述べていて、

そのひとりがモンテスキューだったように記憶する。

俺は、凡人とは違って、思慮深いから学べるのだ、といった自負が、

おそらくは、こういう事を言わせている。

けれども、

過去と似たような出来事が、ほとんど偶然に、あるいは、前後に継起するに過ぎない日常にあって、

行動を起こすために、過去がそれほど明確な羅針盤として参考になるのかいな。

ましてや、

学校教育の〈歴史〉が、年代別な出来事についての知識習得に過ぎず、

その知識の過多を、学業の評価基準とする世では。

昔と変わらないのは、せいぜいが〈人間の本性〉くらいで、

その人間性(その善悪や快不快)を、どう考えるのか?は、その時代時代で、ずいぶんと違うからだ。

つまるところ、その時になって最善、次善と思われる道を選ぶ、というのが正直なところだろうか、少なくとも僕にしてみると。

その瞬間。

或る哲学者が語ったように、それをあたかも当然の〈義務〉として行えたら、潔くていいなぁ、とは思う。

が、実際は。

おこなった結果に対する他者からの評価、評判、そんなものがあらかじめこころに忍び込むのが実情だ。

これも、人間性における弱さ、と引き受けることだって、

人間の強さのひとつだろうに、と居直りますかね。

では。

年の瀬の 書初め ……。

画像版権所属先☞ジョータイム

新しい年(元旦)を迎えたら、時代はもちろん、人にも、齢がひとつ加わる。

……といったならわしが消えて久しい。

〈数え年〉の風習はもはや廃れ、〈満年齢〉がフツー。

しかし。

存在する者を、0(歳) とするのは、どうしたって(数学的に)不合理であって、

生まれたての彼は、 1歳(自然数を持つ者)でなければ、オカシイのだ。

たとえば。

或る年の、2月1日に生まれると、そこで、1歳。

翌年の元旦が来る、つまり、年越しをすると加齢して、2歳。

次に、(この場合1か月後に) 誕生日が来ると、3歳。

こういうのが数え年による年齢加算で、本来、七五三は、これでおこなう。

……ま、きょう日、どうでもいい、小うるさいこと。

それが証拠に、

昨日は、

小学三年生と一日一緒に過ごしたけれど、冬休みの課題として、

〈書初め〉に手をつけた。

本来。

新年を寿ぎ、新鮮なる決意の下に、筆を持つのが書初め(のココロ)なんだろうが、

そんなことたぁ、いまや関係ない。

つり正月、の字句ふたつを、お手本に従って、何枚か書く。

筆の入れ、止め、撥ね、抜き。

それを意識して、最後まで気持ちを込めるように言うと、

なかなか上手く書いているので、感心する。

僕もつきあって、筆を借りて、何枚か書いてみた。

そして、

新聞紙をひろげた上に、書き上げたものを並べて、墨が乾くのを待つ。

あとは、自宅で、(もっと細い筆で) 自分の名を入れるだけ。

さて。

作品をしまう段になって、

家人が、小学生に向かい、

― こっちのも、しまって家へ持っていかないとね。

― 待ってよ、それは、僕の書いたものです。

小学生に才能があることも確かだけれど、

萬年の筆才も同じレベル、なんでありますね。

では。