気分を害するだろうな,と思いつつ、

少々、ひっそりと書いておきます。

日頃。

リーグがひとつ違えば天地の差、

要は、リーグ至上主義論を唱えておきながら、

高校生サッカーのスタイルに接すると、

それを、山雅がやれだのどうのこうのと、

我がチームの不足のような発言を、臆面もなくする向きがあって、

おいおい、気は確かか?、と思ってしまう。

ハードワークとか、ねちっこい守備とか、言うんだが、

眼前の、(高校)対戦チーム同士の技量による、ゲーム様相、

たとえば、ボールの運び方の良否(レヴェル) を無視して、

ほんらい比較できないものを、心象的、

同一レヴェルで感じてしまい、それに疑問を持たない、あるいは、内省すらしないのは、

ふだん山雅(と対戦するプロチーム)を観ている者として、かなりマヅイです。

よくいえば、無邪気、なんだろうけれど。

皮肉な言い方をすれば、

彼らが山雅に求める〈美点〉とは、実は、

我がチームを、弱者の立場に縛る足かせでしかないのが全くわかっていない。

〈強くなれ〉、とは真っ向矛盾した要求でありましょう。

もちろん。

高校サッカーが観て楽しめないわけではなくて、

上田西高が次に、(準々決勝で)あたるのが、流経大柏高らしいから、その楽しみは増す。

ただし。

現在、(高円宮杯)プレミアリーグイーストで4位につけている相手だから、

これはもう、ひたすら守って一矢報いるの状況があからさまになりそうな可能性が高い。

で、万が一、

その方策が奏功すれば、ますます上田西へ習え、の大合唱が聞こえてきそう。

いやはや。

でなくて、

僕は、ボール保持にこだわったテクニカルなサッカーで戦うのが、

今後の財産になるものと信じるし、彼ら自身はそうしたいはずだと思う。

では。

1月2日(木) 午前 5:47~ 5:52 の5分間。

もしも、晴天であれば。

太陽光を受けて白く輝きながら、

北北西から東南東に向かって、

夜明け前の空を、おおよそ北から東へと横切っていく、

ISS(国際宇宙ステーション)が観られます、という情報。

最も接近する時は、

仰角が 60°で、この地からの距離は、 500㎞以内。

天気予報ですと、可能性が高くて、見やすい観測日和です。

……さて。

パッヘルベルのカノンは、かなり有名(過ぎるくらい) な曲なので、

したがって、そのカヴァーは幾千もあるでしょうが、

やはり、

当時の演奏様式(=オリジナル)で聴くところに落ち着いてしまう。

作曲年の詳細は、不明。

でも、作曲者はバロック時代の人で、

1600年代の終わり(1680~1698)に近い時期と推定されるらしい。

3つのヴァイオリンによる追っかけを、チェンバロなどの低音楽器がずっと支える、そんな編曲。

こんな動画をみると、素人の僕にさえ、実によく曲の作りがわかる。

ここでは、チェンバロ、チェロにリュートが加わって、セクステット。

では。

日々是平穏(ひびこれへいおん)を。

毎日が平安に過ぎる、なんてのはとうてい無理な話。

だけれど、

分、つまり、自分の限界を知っていて、不都合な事実に過大に反応することなければ、かなり平穏に暮らせるはず、と思っている。

反対に、予期せぬ善事も、

ほどほどでないと、そこで運を使い果たすから歓迎できない。(運をほとんど信じてないが)

昨日の午後。

梢を鳴らす風を聞きながら、ソファーでまどろんでいると。

― あぁ、来ちゃった、と言いながら家人が入ってきた。

息子家族が思ったより早く着いたのかい?、と思いきや、

葉書を2つ持っていて、

新体制発表会のご招待に当選した、という。

シーズンパス(自由席)を使うようになって、14年が経つが、

これで 4回目のアタリ。

残念だけど、僕は、当日勤務なんだよね、と応じると、

早退すれば?、と簡単におっしゃる。(ご本人は休暇のようだ)

念のために、

座席番号を確認すると、これが、

芸術館の、バルコニー席(の連番)。

ふーん、舞台を、斜め真下に観るような、なかなか得難いロケーションではありませんか。

まだ間があるから、指定席でもあるし……。

早退の2文字が、頭の中を占めつつある現在ではあります。

では。

この街と在るために。

しばらく前のこと。

ヴァン氏(職場の同僚)が、

― これ、かなり昔のものだけれど、と、

松本山雅の〈のぼり旗〉をひとつ(未使用) くださった。

氏は以前、松本中心部でお店をやっていたから、当時配られたものだろう。

〈この街とともに〉と、あしらってある。

思えば。

強力な親企業や責任スポンサーを持たない山雅であるからには、

単に、松本に本拠を置くだけでは不十分であって、

地域の人々に受け入れてもらえる存在であること、これこそがいちばんの生命線のはずだ。

大げさには、不滅であるためには、

自称熱心なファン&サポーターが背を向けるより、地元一般の方々の不評悪評、これのほうが百倍も危険。

そこで、

オフシーズンだからこそ、

ファン&サポーターとしてできることを見つめよう。

単刀直入には、クラブの足を引っ張らないこと。

身も蓋もない、かなり消極的な表現で恐縮ですけれどね。

❶大局的なことで。

サッカーには取り立てて興味の無い人々のほうが、圧倒的に多いのだから、それを忘れてはいけない。

せめては、おおかたの市民から、好意と関心を寄せていただければありがたい、と思わなくては。

アルウィンは、お借りしているのであって、
広域公園は、山雅がやりたい放題に使えやしないもの。

山雅の公式ページで、サッカー観戦用に指定されている駐車場には、アルウィン周辺に配された、小さなスペースは含まれていないはず。
だが、毎ゲーム、観戦者とおぼしき車輌で占有されている現状。

堤防の決壊がはじめは針の穴から始まるように、こういう細かなところへの遠慮、気配りを欠いては、やがては、クラブの評判に影が落ちるだろう。
クラブには、この点は、見逃さないように願う。

たとえ、他でやっても、ここアルウィンでは、〈不適切発言〉を慎む、とか。

さらに、周囲を不快にするような野次、暴言もよ。

❷小局的な側面

ファン&サポーターが、みづからに(ほぼ無意識に)課した〈桎梏〉から解き放たれること。

桎梏(しっこく)とは、足かせと手かせのことで、要は、自由を束縛するものを指す。

ここでは、〈かつての山雅〉〈いつか見た山雅〉とよく表現される、

過去への憧憬と、その再来を渇望する気持ちや心象、を言います。

あるいは、当時のサッカースタイルを、クラブに永遠なものとする風潮。

ま、このブログでは、いつも指摘してますけどね。

昔を偲ぶのはちっともかまわないのですが、

時間の経過によってかなり純化されている過去によって、現状の良し悪しを云々するのは、かなり危険なところがありまして、

たとえば。

圧倒的な戦績を積みながら、終盤清水の猛追によって3位に転落、プレイオフで、6位の岡山に敗退した 2016季。

それと同様に、やはり、プレイオフで涙を呑んだ 2024季。

単純に、これを同等に比較できるのか?、といったこと。

指導者とプレイヤーの流動性(使いまわし)によって、3部リーグが、戦うに目覚ましく困難となり、

是非はともかく、

ピーク時の、ほぼ半分に近いクラブ収入とチーム人件費をやりくりしながら、

けっこう面白いチーム作りをしてきている、というのが僕の評価です。

これは、僕のサッカーの観方の深まりによるところも大きいのですが、

各プレイヤーの成長、という点で、かなり魅せてもらったのが今季の収穫。

シンボリックなのが、

高卒5年くらいの山本 龍平、村越 凱光、ユース出身のルーキー樋口 大輝、彼等の躍進でした。

その少し前を、野々村 鷹人や宮部 大己が歩いていて、

飯田 真輝が、山雅でキャリアを始めてから成長していった、その踏襲と期待してます。

今季末、レンタルに出した大卒入団者を一気に契約満了とした山雅。

それはそれで残念、

とはいえ。

かつてもこうやって頻繁に出し入れした山雅であることを、都合よく忘れてはいけません。

では。

素晴らしきかな,2025年。

何故か?、と言えば、

僕の好きな画家ベストいくつかのうちの、

ふたりの展覧会が、日本国内で、巡回展として開催されるからだ。

パウル クレー(1879~1940)と、トゥールーズ de ロートレック(1864~1901) のふたり。

このうち、ロートレックのほうは、すぐ1月には、松本市美術館にやってくるから、

ま、僕にとっては、(存命中の) 千載一遇のチャンスともいえる。

その気になれば、(時間と予算は要するものの) 何度でも、観られるわけ。

ロートレックは、エドゥアール マネ(1832~1880)のような革新性、思想性(☜素晴らしい!!)には欠けるけれど、

自分の趣味と興味に没頭し尽くす点が、

この作家の美点なのだから、そこの追求には魅せられるものが多い。

クレーのほう?

僕からすると、その作品が、

あれだけ斬新、かつ、エモーショナルなものを拒否しておきながら、

人を包容し、魅了する不思議さは、ちょっと比類するものがない。

つまりは、絶賛ですね。

こっちは、名古屋、あるいは、静岡での開催を狙うつもり。

どちらも。

半端な解説には目と耳を塞ぎ、時代うんぬん、人柄うんぬんなどはまったく棚上げして、

ひたすら作品群と対面して楽しむのであります。

では。