僕の緑化作戦 (山雅篇)。

チーム山雅の人々については、一年かけて、思うところの作戦を終えた。

パートナー(スポンサー) 2、3の方面に、僕のできることで御礼をした。

これは、今月 7日までに終了。

あとは、某コーチから、その引退記念のアクリルフォトに一筆いただく仕事が残ったけれど、

これも、できれば、年内にやってしまおう。

シーズンパスのホーム代替ゲームに関する、返金辞退の手続きもやったことだし、

これからは、来シーズンのシーパスに関するリリースを待ちながら、

ストーブリーグの動向を楽しもう。

では。

強者のサッカーをして勝つ?

昨8日、オフィシャルサイトで、来季(以降~)、

我がチームの監督に、石崎 信弘氏が就任することが発表された。

新監督の挨拶を一読。

その人柄が伺えて、面白く読んだ。

今日、職場では、早速。

3人の方から、そのニュースについて持ちかけられた。

― どうなの?、今度の監督は?、と。

― うーん、求めるサッカーを貫きとおすよ、という宣言です。そこに、
リーダーの本質は、好かれなくとも(憎まれても)、結果を出すことという覚悟は感じますね。

3年前。
氏の、ヴァンラーの監督就任あいさつは、実に淡々としており、

それとの鮮やかな違いが、印象深い。

ようこそ、山雅へ、どうかよろしくお願いします、と返礼をして、

いまは、新監督の手腕に期待し、それを支援するのみ。

ただし。

メディアの創作っぽい、軟弱集団からの脱却、といったフィクションを設定してかかるのは間違っていて、

そういうのは、逆に、

石崎サッカーの本質と真価を、買いかぶることで見誤りかねない。

これは僕の推定に過ぎないけれど、

その真骨頂は、ひと言でいうと、

〈強者のサッカーをして勝つ〉に尽きる。

そこから、それに適った方法論が導かれ、結果、種々のスタッツを残す。

僕が注目するのは、過去3年間のヴァンラーレの〈反則ポイント〉

警告(カード)、退場、カード無しゲームなどが、加減算されて、リーグ戦のゲーム数(38ポイント)以下ならば、

フェアプレイ賞を与えられる。

八戸の数字は……、   (カッコ内は、山雅の数字)

2023年 ☞  0ポイント  (57ポイント)

2024年 ☞  43ポイント (31ポイント)

2025年 ☞  24ポイント (67ポイント)

2024年は、5ポイント超過で、フェアプレイ賞を逃がしたけれど、

過去3年間、安定して反則ポイントが少ない。

僕は、このポイントの多少は、

ゲームで後手にまわることで冒さざるを得なかった重ファールの蓄積と、

ゲームで率先していたために冒さなくて済んだ重ファールの少なさの対比、ととらえる。

すると。

おのずから、直近の、ヴァンラーレと、山雅サッカーの、著しい格差が浮き彫りになるだろう。

さらに、さらに。

反則ポイントには、〈試合の前後半キックオフ時刻遅延分数〉が加算されている。

2025季、リーグで唯一、ヴァンラーレは、0分。

我が山雅は、6分 (上から 10番目に少ない)、最下位のツエーゲンだと、 24分。

こういうのは、

規律、というよりも、〈躾け〉あるいは〈マナー〉の問題だと思うんですが、

おそらく、そこまで配慮してのチーム運営をしていた八戸だった、と診たい。

では。

Think !!

順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。(『伝道の書』第7章14節)

ただし。

問題を解決しようとばかり考えても無益なことも多い。

Don’t Think Twice、ともいうね。

どうやったって解決しない問題など、ザラにある。

ならば、自分にできる、と思うことだけやって、問題が残ろうとも、

平気でいられるように、自分を図太く変えるのが上策。

 

経済的な国際的締め付け、という逆境を破ろうとして打った手が、

1941年12月8日の、日本帝国海軍による、米オアフ島パールハーバー基地への奇襲作戦だった。

これが、我が帝国に残された打開策。

……と確信した。

というよりも、信じたかったんでしょうね、その後の軍事行動をみる限り。

皆で教会へ行くべき、キリスト教徒のならわし(安息日)を狙った、という点はまぁまぁ練ってあるが、

戦果そのものは、それほど上等ではなかった。

米国側からみた、そこらへんのムードは、

映画『地上(ここ)より永遠に』(1953年)や、『1941』(1979年)に、深刻に、あるいは荒唐無稽のコメディで、描かれる。

僕は、スピルバーグ(監督)の 1941を、戦争と軍隊を

古風なスラプティック(追っかけなどのドタバタ喜劇)風に、あっけらかんと描いているから好む。

彼が戦争をマジメに描くと、20年後に撮られた『兵士ライアンの救出』(1998年)みたくになる。

さて。

1941では、ジョン ベル―シが、P-40 カーティス(戦闘機) のパイロット役で怪演を魅せた。

翌1980年、ベル―シは、『ブルース ブラザーズ』に主演し、ヒットを飛ばすも、

1982年、33歳で世を去ってしまう。

 

ブルースブラザーズ中から、

アレサフランクリンの歌唱『Think』を聴いて、

12月8日における米軍の犠牲者と、ベル―シを悼もう。

では。

たまには、ためになるかも?

〈情念〉はものを感じさせるもので、見させるものではない……
      (モンテスキュー 『ローマ盛衰原因論』より、〈〉は筆者の強調)

たしかにな。

感情に浸って観ていれば、

ゲームの良し悪しと帰結は、プレイヤーの心持ち(熱心と不熱心や怠慢)次第と、平気でいい出すわけだ。

なかなかに、考えさせられる言葉を残したモンテスキューは、

1689年生れで、1756年に 66歳で没した。

バロック音楽の作曲家 ヨハン セバスティアン バッハ(独)は、
1685年に生まれて、1750年に他界しているので、この二人は、まったくの同時代人。

はたして。

モンテスキューは、バッハの音楽を聴いていたんだろうか?

さて。

モンテスキューは、また、ボルドー(仏)で、ワイン農場を経営していた領主(男爵)であった。

さて、さて。

そのボルドー(人口は松本市とほぼ同じ) を本拠とするサッカーチームが、

FCジロンダン ボルドー

クラブ創設は 1881年。

日本は当時、 時代が明治になって14年目、まだ日清戦争もやっていない頃。

長い歴史の中、

2021/2022シーズンに、20年間とどまったリーグ アン(仏1部リーグ)から降格。

その後 2シーズンを、リーグ ドゥ(2部)で戦っていたけれど、

一向に財政問題(4,000万ユーロ☞ 72億円!!の大赤字)が好転せず、

ついに、昨年7月、ボルドー商業裁判所に破産申請をおこなう。

結局は、仏サッカー連盟の裁定によって、

2024/2025季から、フランス全国選手権2 (4部リーグ相当)に降格となる。

クラブの解散は回避したものの、

プロ球団の看板はおろさざるを得なかった。

フィールドマネジメント(戦績)がどうのこうの以前に、そもそも、

クラブ経営がマトモでないと、企業としての望む地位など得られないのは世界共通のこと。

ネイビーブルー(濃紺)のクラブカラーの地に、

胸元に、キリスト者の衣装(スカプラリオ)を象徴するV字を染め抜いたユニフォーム。

せっかく42,000人収容の専用スタジアムもあるんだから、

いつか、トップリーグに戻ってもらいたいクラブだが、

そのいつかは、何時なのか?

では。

心にとめないことの 価値。

伊丹 万作 (1900~1946、映画監督、脚本家、画家)は、

その文章が、平明で簡潔、とにかく、読ませる。

亡くなる前の 8年ほどは、病臥(結核)の生活だった、と聞く。

その奧さんは、

亭主の稼業とする映画を、

観ないことはなかったが、それほど興味もなかったらしい。

或る時、原 節子が、伊丹をその自宅に見舞った際、

― どなたさまですか?、と応対したくらいだった。(と万作が書いている)

〈原 節子〉と聞いてもピンとこなければ、この女優が、1930年代から 50年代にかけて、日本映画界でどれほど売り出していたのか?、調べることをおススメします。

古代ユダヤの王ソロモンは、(その著書と伝わる『伝道の書』の中で) 言う。

人の語るすべての事に心をとめてはならない。
これはあなたが、自分のしもべのあなたをのろう言葉を聞かないためである。
あなたもまた、しばしば他人をのろったのを自分の心に知っているからである。

こういう境地には、なかなか達せないものだろう。

けれど、身につける価値のある人格に違いない。

もちろん、

僕が、家人の言うことをロクに訊きもせずに、トンチンカンな失敗をして叱責を受けているような失態とは、

まったく違う、もっとハイレベルな話なのだが。

では。