俺たちの最後『許されざる者』(1992年)

クリント イーストウッドによる、主演/監督の西部劇。

〈あらすじ〉
妻を亡くした初老の男。
50歳を過ぎての結婚だったから、ふたりの子はまだ幼く、このまま農作を続けてみても、貧困からは抜け出せないだろうとの焦燥。

そこへ賞金稼ぎの話が舞い込んで、かつてのアウトローの本性がよみがえる。
昔の悪業仲間(モーガン フリーマン)を誘い込むと、私的制裁(リンチ)もいとわない辣腕保安官(ジーン ハックマン)が牛耳る街へと、やって来た……。

悪人の首に懸賞金をかけたのは、この街の娼婦たち。
仲間のひとりが顔を切り裂かれた犯行の、処罰もなぁなぁだったことへの怒りと抗議のゆえだった。

年老いて身のこなしも衰えた主人公、無様な苦労を重ねるが、けれど、
さすがに、かつては鳴らしたガンさばき。
相棒を殺害した保安官一味を一掃すると、もちろん、懸賞金を手に入れて街を去っていく、というストーリイ。

当時、イーストウッドは 62歳。
著作権を買い取っておいて、主人公と同じような齢になるのを待っての、作品化らしい。

生来のしゃがれ声と、まぶしそうに細める眼が、男の加齢感に上手くハマった。
狙いどおりの演出効果と言えよう。

許されざる者 (Unforgiven) とは、結局、主人公をも含めたアウトロー(無法者)すべてを言ってるんだろうが、イーストウッドによる、俺はこの齢になったから、もう西部劇とは手を切るんだ宣言、とみなして良い。

ところで、この作品評に、西部劇の虚飾をはぎ取った名作、とあったがそれは言い過ぎというもんだ。

西部劇にはすでに、『真昼の決闘』(1952年)の頃から、銃による統治といった米国社会を痛みとか、歪みとして批判してみせることで、カタルシスを仕込まれて作られている。

(作品に接しての浄化作用はあるだろうけれど、米国社会が銃を捨てることは決してなかった)

『シェーン』(1953年) 然り、『明日に向かって撃て』(1969年)も、また然り。

もしも、『許されざる者』が真に西部劇の虚飾をはぎ取った作物だったとしたら、1993年度オスカーをあれだけ(作品、監督、助演男優,編集) 獲っているはずがなかろう。
※主演男優にもノミネートされたが、賞は『セントオブウーマン』のアルパチーノがモノにした

イーストウッドが西部劇とおさらばする、その功労の含みがある受賞であったにせよ、もしも、この作品が、米国人がアメリカの恥部を不快に描いたと感じさせるものであったら、オスカーなど与えられなかった、と思う。

たとえば、『ダーティーハリー』(1971年) のように……。

ゆえに、この作品は、ごく正統な西部劇なのだ。

そして、これからも、米国のフロンティア時代を、皮肉りながら回想するような西部劇は、いくらでも撮られるに違いない。

おそらくは、米国がその成り立ちを見つめたくなった時に応じて。

でも、そんなことにお構いなしに、この作品は観る価値を持つ。

イーストウッド、ハックマン、フリーマン、そしてエド ハリスといった面々が総出で、自分たちが演じてきた西部劇をみづからの手で埋葬した、ということにおいて。

では。