ゴージャスな午後を (全豪オープン)

― 残業になりますが?、とメールすると、

― 了解です。私は、午後セリーナとなおみのゲーム観戦、と家人から返信。

― それは、ゴージャスな午後!!、と返しておく。

ここのところ、拙宅の居間における殺人は、ひと休み。

かわりに、午後から夜にかけて、テニスのゲームが延々と続いているのだ。

帰宅すると、ジョコヴィッチが、準決勝を闘っていた。

息子に風貌と雰囲気がよく似ているからだろうか、男性プレイヤーでは、家人のもっともお気に入りらしい。

ジョコちゃん、とか画面に向かって呼んでいる。

確かに、すべての部分でクオリティが高く、クレヴァーなテニス。

これと言って弱点のない、好選手だと思う。

それに比して、錦織 圭君にはひと頃の輝きがなく、心配ではあります。

しかし、あまり熱心に観ていない者の偏見なのかも知れないが、
テニスの試合は、観客が入って盛況であっても、無観客でも、プレイヤーのパッションに、あまり落差や変化を感じない。

なぜだろう?

では。

敢えて 規律違反の肩を持つ。

部屋に入ってくるなり、ソファーでまどろんでいた萬年に向かい、家人。

― ねぇねぇ、1億円もらっている柏木に声をかけられるクラブがあるんかしら?

―そりゃあ、おまいさん、値切るっ、て手もあるわけだし……。

昨季はたしか、10試合そこそこの出場だったから、契約のテーブルではダンピングの交渉があるに決まっている。

ひょっとしたら、いまやトップリーグ中位に甘んずる浦和が、今回の騒動を、人件費削減の好機のひとつ、ととらえても不思議ではない。

無名なサッカーファンがひとり、こういった無責任なうがちに走るのはカワイイもんだが、しかし、マスメディアの論調は、今回もヒドかった。

たとえば、指揮官ロドリゲスは〈とても受け入れられない〉と柏木を論断、といった見出しで煽るわ、煽る。

読んでみれば、監督は、柏木の今回の行動は受け入れられない、と発言しているのであって、彼をチームの一員として受け入れない、つまり、その人格を否定しているわけでもなければ、戦略的な要員(カード)から排除する、とも言ってはいない。

それをあたかも、現場トップが追い出しにかかっているような印象を植え付けようとする。

チーム規律への違反は、浦和というクラブが淡々と処分をおこなえばよい話。

尾ひれをたんとつけて印象を操作、しかも、他人(チーム関係者)の口を借りる形で柏木を糾弾するメディアには、不快感がつのるばかり。

さらに気に喰わないのは、キャンプで同宿していたチームメイトが、規律違反の行動を、チーム上層部に通報したらしい、ということ。

願わくば、それが事実でないことを祈る。

友人であれば、まづは当の本人のところに行って、おい、あれはまづいんじゃあないのか?、きちんとクラブに報告すべきだろう、くらいの忠告ができないかい?

それなりの知名度があるとは言え、所詮は20、30歳代の若僧の発想なのか。

級友の行為を、すぐに教師に言いつけるような幼児性まる出し。

まぁ、柏木のことを友人と思っていなければ、仕方がないけどね。

では。

開幕まで10日の 明日には、

〈2021年 Jリーグ選手名鑑(サカダイ版)〉が、発刊になるはず。

毎季購入に走るほどの律義さもなく、かと言って、決して入手せず、と決め込んでいるわけでもなし。

店頭でページを繰ってみて、それから、その時の気分次第で……、となりそう。

ひとつ注文をつけるとすれば、審判名鑑の充実だ。
ルーペ越しでないと到底見えないような活字で、しかも、たったの一ページに押し込まれた情報は、少な過ぎないか?

ところで、キャンプレポートを読みながら思ったことがありまして。

鹿児島で、山雅が使わせてもらっているのは、主に白波スタジアム。

これ、鹿児島ユナイテッドの本拠地。

で、当の鹿児島ユナイテッドは、どこでキャンプを張っているかというと、どうも、鹿児島市内らしい。

たとえる、とですよ。
よそのチームのキャンプ地としてアルウィンを提供し、地元チームは、市内の他のところで開幕に備える、という図式。

薩摩のお国の気前の良さには、頭が下がるばかり。
こういう懐の深さを、僕たちも持ちたいもんだ。

さて、キャンプは今週いっぱいで終わる。

開幕は2/28、長州の地で。

となると、一週間の間隙を、すくなくとも、ゲーム登録メンバーはどう過ごすのだろう?

天然芝がいまだ使えない松本に、一旦戻ってからまた、本州アイランドの最南端へ出かけていくのだろうか。

風がやけに強い曇天の朝。
あぁ、こうなったら、いっそ雨でも降ってくれないかい。

では。

答えは無数、竹藪の中 (本能寺政変論)

某公共放送が一年かけて放送した、日向守 明智 光秀が主人公のドラマが、つい最近終了したらしい。

光秀といえばとにかく、主君であった上総守 織田 信長を本能寺に襲った逆臣として、人口に膾炙するその人。

となれば、その顛末がどう描かれたのか?、というのが、興味の大半。

で、家人が観ていた様子なので、物語のラストがどんなだったかを、聞いてみたんである。

すると、だいたい次のとおり。

秀光は信長を本能寺に攻め、死に至らしめた。
その理由については、歴史上提出されている仮説を、おおよそ丁寧に網羅して描いてはいたが、いづれかが決定打、としてはいなかった。
信長が亡き者となるについての秀吉の思惑にも触れていた、という。

さらに、現実か幻視かも説明されない一瞬で、光秀が山崎の戦い(1582年)の後にも生き延びていた、ともとれるようなシーンもあった。

家人評は、こんな。

― 観ている人の判断に任せるような趣きだったけれど、それなりの、つまり、好い余韻が残る、って感じだわね、あたしにとっては。

なるほど、なるほど。

それくらいが、公共放送における冒険の限界でもあったのかも知れぬ。

信長の遺体が確認されていないことを根拠にして、信長生存、とまで突っ走る戯作性は期待できまい。

あるいは、『忍者武芸長』(1962年完結)のように、信長を襲った後、秀吉軍に敗れ、ついに京都の小栗栖(伏見区)で百姓に殺害されたのは、実は、秀光の影武者であった。
本物は、どこかに遁走したのであった、という結末も、やっぱりアウトに違いない。

推定の素になる材料を落ち度なく示し、あとは観る者に判断させる手法を採ったこの度のシナリオ。

そうなったことの真の理由は、いやいや、もっと深いところにある。

おそらくは、こういうこと。

すなわち、織田 信長に仕えた期間をのぞくと、その人生には、かなり謎の多い光秀を描くとなれば、今の社会が、これだ、っという明快な正解を許さない、のである。

なぜなら、行動や問題がこれだけ複雑になってしまった現代社会では、これが唯一の正しい答えである、という思考態度はもはや通用しない。

せいぜい、答えはいくつかある、というのが現実で、かつ、そのどれもが、圧倒的な正当性を主張できないでいる。

なによりも僕らが、唯一絶対の正答を期待することなくして問題を読み解こう、という態度でいるのだ。

戦国時代とはいいつつも、髷を結った、現代人の感性を持った者たちが行動するドラマ相手ならば、なおさらだろう。

では。

旧く新しい記憶、の巻。

―だが、密集化は、はたして一方的にわざわいを招いただけだったろうか。
たとえばインフルエンザの大流行の原因になったことはたしかだが、人間は密集によって不利な状況をつくりながらも、立派にそれを乗りこえてきたのである。
利害の一致が、集団的な抵抗力を組織することになり、それがやがて個人の抵抗ではなしえなかった力を発揮したわけだ。
人間は密集からのがれることによってではなく、逆に密集の力を利用することで、悪や不潔を乗りこえてきた。つねに禍を転じて福となす―それが人間というものなのである。―

ふと、本棚から引っ張り出して読んでいた本に、たまたま見つけた一節が、これ。

安部 公房(1924~1993) のエッセー『密集化現象』(1959.4.22の日付) にある。

へぇ、公房氏は、集団による力の結集を、善なる力、とも認めていたのか。

その作品中の主人公たちのほとんどは、集団による非合理な圧迫から逃れようとしてもがく人物なのに……。

日本のCOVID-19対策が、もっぱら集団的な有形無形の圧力に依存していることの、預言的な考察とも言えましょう。

以上、他者の文章を引用するばかりの、今回です。

では。

【前々回へのコメント】
☞ルノワール氏 より (2021.02.15.11:11)
梶芽衣子&沢口靖子
梶芽衣子姉さんの
一度だけなら♪
聞かせくださり有難う御座いました
心に浸みる曲です
野村正樹の曲でもありますね     
沢口靖子は何故に科捜研の女?
彼女は美人すぎて近寄り難い雲の上の存在
よって恋愛ものより科捜研に向いていると思うのは私だけでしょうか?     

☞萬年より(2021.2.16.04:38)
ルノさんへ
コメントありがとうございます。
沢口靖子について、私が夢想するのは、サイコな犯人役とか、コメディーにおける道化役、jyouそんなところなんですがね。