虚言(ウソ)こそ,真実。

仮に。

僕らが、感覚器官をとおして、実際に起こったのを見聞きしたことを〈事実〉と呼ぶとしよう。

対し。

過去に生起した事実に接した経験知にもとづいて、人が、

起こってもらいたい、起こるべきである、と願う、そのことを〈真実〉と呼ぶ。

実際には無かったが、現実ではほぼあり得ないが、

世の中、こういうことがらが起こっても良いではないか、と僕らが思うことです。

……ところで、

僕の家から、スープが冷めないほど近くに、

今年の一月に、ご長男を亡くした女性( A子さん)が住んでいる。

ある日、彼女から、

今度、息子の遺影を鴨居に飾りたいのだが、なにせ高い場所だから(こちらは女手のゆえ)、手を貸してもらえまいか、との電話があった。

あぁ、お安い御用です、都合の良い日を教えてもらえれば、すぐにでも伺いますよ、とお答えした。

で、つい、先日のこと。

A子さんとは(電話で)よく話すらしい、B子さんと、家人が電話で話した。

その際、B子が、

この前、A子から

お宅のダンナに、息子の写真を飾るのを手伝ってもらいたいと頼んだら、

あぁ、ちょうど良い機会だから、その時に、ご長男を偲ぶ集まりでもやったらどうか?、と勧められた、と聞いたわよ、とのこと。

― まさかぁ。うちの亭主が、そんなことを提案するわけ決してないわ!、と家人は即座に否定した。

帰宅した僕は、その話を聞いて、いや、そんなことは言ってないなぁ。

こじんまりと内輪ではあっても、キチンと葬儀で弔っているのだから、

そういう、いわば、無意味な虚礼などは、僕にとってはまったく論外のこと。

……さて。

この、まるで僕を騙ったような顛末は、あまりに唐突で、印象深かったので、考え込まされたのだが、

単に、これを、A子の虚言(ウソ)で片づけるのは、間違っていて、

(誰が提案しようとも)亡き息子を偲ぶ会は、彼女にとって、ひとつの〈真実〉ではあるまいか。

つまり、起こってもらいたいこと、なのだ。

そして、なぜに、そういう集いが A子にとっては必要か?

おそらくは……、

そういう集いの中、周囲の者は、息子を失った自分に弔意を表すだろう。

その弔意こそ、彼女にとっては、自分の現在(喪失と悲しみ) に払われるべき同情と敬意であって、自分とは、それを受けるにふさわしい存在なのだ。

つまりは。

自分の存在価値を、僕の提案という形の架空な話を作り上げることで、他の人に認めてもらいたかった。

……どうも、人間は、かなり手の込んだことをやってでも、自分を価値化したいらしい。

もちろん、この〈真実話〉は、とっさにA子の口から出たはずで、彼女自身に、創作のカラクリなどは、まったく意識されていない。

今後、A子と話す時はかなり言葉に注意しなくちゃあな、とは思ったが、

世の、優れた文芸作品は、作者が、こういった〈真実〉を巧く駆使しているのだし、

事実と違うことを、それがすべてウソで押しとおすだからダメと断ずるほどに、僕は他人に冷淡にもなれないし。

こうやって、人間本性のホンネと深層に触れるのは、経験する意義もあることかも知れないぞ。

これからも、どこかで生みだされる彼女の〈嘘〉= 真実を、だから、ただ責める気にはなれない。

ただ、哀しいかな。
虚言を使ってまで愛と関心を求める者は、周りからは、ますます疎んぜられる。

……もちろん、

事実 = 真実の一本槍で生きたい者にとっては、以上、わずらわしいお話です。

では。

『桜坂』は名曲なのに……。

昔々。

ただ〈花〉といえば、梅(日本の古来種)であったものが、

平安末期ごろには、それが、桜(外来した)に置き換わったと、どこかで読んだおぼえがある。

この変移、僕の説によれば。

見応えのある梅になるには、かなり頻繁、丁寧な剪定を要する。

対し、桜は、自然のままに放っておいても、それなりの樹形と隆盛を誇る、というのが、その真相で、

ゆえに、全国的に、桜の樹がはびこることとなった。

日本人には、(特定の庭園をのぞけば) コマメな樹木管理の思想などなかった、樹木には〈霊〉が宿る、という信念とあいまって。

……さて。

家人は、福山 雅治を好まない、という理由だけで、

『桜坂』を聴こうとしない(ようにみえる)。

逆な観方をするならば、

この曲は、つねに、福山雅治の、という形容詞がセットになって大衆に受容されている、ということなんだろうね。

どなたか、翻訳の名手が、こなれて気の効いた英語にしてくれたならば、

『SUKIYAKI』(上を向いて歩こう)くらいの発信力、訴求力を持った名曲に思えるのです。

ま。

オフコースの諸作品も同じような境遇にあって、

双方ともに、味わう側の心情において、作り手からなかなか独立しないのは、まことに惜しい。

では。

ミゴトな采配、応えた俊才 (FC岐阜戦レビュウ❷)

岐阜戦のジャッジ(審判)に対して、山雅ゴール裏からは怒声が飛びまくった。

けれど。

そのおかげで 開始 5分のPKゴールが生まれたわけであるから、

被ファールを流してもらいたかった絶好機はあったにせよ、忘恩はまづかろう。

昨日。

息子がたまたま我が家に立ち寄った際、すこし話をした。

その要旨は……、

❶退場者が出てからのチームと個は、果たすべき仕事とミッションを良くこなしていた。

❷タレントの投入と配材について、早川監督の采配は評価する。

❸中でも、石山と松村、このふたりは出色の出来!!で、かなり期待がもてる。

❹被同点弾は、

あの瞬間、相手#10に対処できなかったのは、やはり、

普段からゲームに出ていないプレイヤーに試合勘が不十分なため。
全員が、他方向を注視していた。

ゲーム感があれば、厄介な存在は、首を振り振りして都度視野に入れるよ。

☞いわば、失点は、俊才投入の、皮肉な〈陰〉であって、これで学習すれば良い。

……正直、勝たせてやりたかった、というのが息子の談。

ゲーム総評は、僕とほぼ似ていて、

50分過ぎから、山雅としてのゲームが締まり、チームが緊密に機能し出した。

だから、レッドカードでゲームが壊れたというのは浅薄な観方であって、
(つまり、ジャッジへの怨嗟は見当はづれ)

それまでのチームとしてのギクシャクと機能不全が、そこからシャキっと、息を吹き返した,、ってのが実相です。

今後は、外的要因で強いられてやるのでなく、求められるのは、自助による修正力ですかね。

では。

なぜ,その実況が評価されるのか?

この前の相模原戦。

その実況は、DAZNの(松本山雅のホーム)番組制作委託先である、

信越放送アナウンサー、平山氏が担当した。

僕の知るかぎり、2回目かな。(昨季の宮崎戦以来)

この方、山雅のゲームのほとんどで、ピッチレヴェルで取材しているのを、

DAZN画面をとおしてお見受けするので、ふだんからサッカーには精通してしまう担当業務をこなしている(と思われる)。

で。

もしも、平山氏の実況が、高評価を獲ているとしたら、

それを祝しながら、僕の感想を少々。

〈なぜ評価されるのか?〉(その要因の大きいほうから番号順に)
❶それが、3部リーグのゲームであること。
このリーグ戦放送には、解説者を設けていないので、
(プレイオフは例外)

(平畠氏をのぞき)実況は、地元局アナウンサーが受け持ち、

データ紹介、ゲーム様相の追いかけなど、すべてをこなす。

そこには、解説者への質問や忖度がなく、

聴き手、受けたまわり手といった、消極的な役目も排除される。

つまり。

全部ひとり(影にスタッフは居るだろうが)でこなす覚悟があるだけ。

そこに、使命を完結しようとする爽快さを、僕らは感ずる。

❷女性による実況が、現実、いまだレアであること。

だから、好奇の対象であり、視聴者の耳には新鮮。

(これは、女子サッカーが、女性による実況と解説がもっぱらであることとの表裏一体で、露骨な性区別だ)

平山氏は、ゴールの瞬間、この人としては最大限の腹の底からの〈だみ声〉のつもりだろうが、

これにしたって、その高音で細いトーンが、男性のそれとは、隔絶している。

……あと何年か経って、女性による実況が日常化し、それ自体、誰もどうとも言わなくなる、そういう世界がきっと来ます。

そしたら、こんな記事が成り立つ現在が、あり得ない、と将来からみて蔑まれることだろう。

さて、余録。

2部リーグより上は、そういうわけで、DAZNは解説者を有するけれど、

これがけっこう、聴くに堪えずに煩わしい場合がある。

特に、ゴールが決まった瞬間の、

うわぁぁぁっ!、といったような喚声、あれこそは、いただけない。

本人は、その場を迫力づけしようとしてるんだろうけれど、

もともとサッカーでメシを喰って来たんだろうから、

前代未聞のゴールならまだしも、

大の男が、人前で軽々に発するのは品格に欠ける行為。

こういうならわしこそ、絶滅してもらいたい。

そこを冷静、平然、坦々としのぐ解説者が、支持されることによって。

では。

このゲームの本質 (2025.3.29 FC岐阜戦レビュウ❶)

アディショナルタイムでの、同点ゴール被弾により、

1 – 1 のドロー。

ゲーム100分の、ほぼ半分の時間を 1人すくない 10人でやる急場しのぎの戦法。

双方に、乱れ飛んだ黄赤のカード。

― そういったもろもろがあれば、直感と感性が邪魔をしがち。

くれぐれも、

今後、修正するべきゲームの本質をも見失うオソレもあるので、注意せねば。

さて。

ひとつは、勝ち点の胸算用。

5ゲーム消化して、うち、アウェイが 4つ。

ホームで勝利、アウェイでは、少なくとも勝ち点 1 が目安。

なので、奈良戦の勝ち点 0 がいただけないだけ。

勝ち点 6 は 目標の ▲1 に過ぎないから、それほど悪くはない積み上げ。

ふたつめは、ゲームをよく見つめよ。

❶前半と、後半退場者を出すまでの、山雅の低調の原因は、

陣形が、縦に間延びして、連動性に欠けたことに、ほぼ尽きる。

岐阜が冒頭からやってきた裏狙いのロングボール作戦におじけづいたのか、

それとも、強風への対応のつもりだったのか、
(風は、おおよそホームからバックスタンドに吹いていたのに)

とにかく。

最終ラインが下がり過ぎてしまい、そこと中盤(ボランチ)とのスペースが空く。

さらに、前方に追い込みをかける最前線の動きが孤立気味になるから、全体に締まりがなくて、統率されていない。

だから、空いたスペースに、相手のボランチ (#10など)にそこにスッと入られては、左右への配球や縦パスを、容易にゆるしてしまう。

プレイヤー同士の距離が遠い分、セカンドボールも拾われまくり。

この傾向は、相手フリーキック時の、ライン形成の高さにも出てしまっていた。

コーチングボックスからは、盛んにラインを上げよ、との指示が出る始末。

なぜ、こういったライン設定と陣形の間延びが出てしまったのか?

チームはキチンと分析して、修正をかけるべし。

ボールが手に入らないサッカーに堕したので、

結局は、大内からのロングボールだのみと、

低い位置からのカウンター攻撃一辺倒の、貧相なやり方になった。

これは、僕のいう〈強者のサッカー〉では、決してない。

なぜなら、ボールをこっちの意思で動かせていないのだから。

❷ゆえに、むしろ 10人になったことによって、(押しつけられて)やることが明白になったぶん、

山雅としてはゲームが締まった、と言える。

皮肉にも、〈弱者のサッカー〉を余儀なくされたわけ。

5 – 3 – 1、いや、石山 青空はシャドウ的に配して、5 – 2 – 1 – 1 の陣形を敷いた。

ただし。

菊井 悠介ワントップは、やはりフィット、機能がむづかしい。

やたら盲目的にクリアを蹴り出すのは、徒労です。

あそこは、ルーカス バルガスを置いて、

そこを目がけて、ロングフィードとクリアボールを集め、周囲でこぼれを拾っては、時間を経過させるべきだった。

その場合は、4 – 2 – 2 – 1で 、

菊井と石川をシャドウに、ツーボランチは、大橋、村松だったんではないか。

途中投入の彼らは、チアゴ サンタナを含め、なにかと非定常なゲームによく対応していたと思う。

もともとが、20数本シュートを打たれまくり、こっちは せいぜい 5~6 本の惨状なんだから。

同点弾は、フッと空いたスペースからフリーに足を振られたもので、どうこう言っても始まらない。

11人いても、いまだ土壇場の被弾をするチームゆえに、

10人であそこまで持ち堪えたのは、むしろ上出来、と考えます。

では。