たとえ上司である としても。

― 鉄拳制裁は大嫌いです。「お前人をそうやって殴るほど偉いのか?」「殴るんだったら教えればいい」、そう思っています。

落合 博満氏の言葉。

秋田工業高時代、先輩による理不尽なしごきに嫌気がさして、入ったとたんに野球部を退部。
けれど、彼ほどのプレイヤーがいなかったたため、大会が近づくとお声がかかって、ゲームでは4番を打った。
そんな感じで、7回入退部を繰り返す。

東洋大の時は、先輩がタバコを取りだしたら、後輩がパッとライターで火をつける、といったならわしに納得できず。怪我もあって、半年で退部、中退。

その一貫した姿勢には、感動を憶えますが、こういう個性は、野球の世界では、きっと異端だったに違いない。

当時ならば、今より、よほど。

その落合氏の、別の言葉。

― ファンサーヴィスとよく言われますが、どこですりゃいいんんだ。私はグランドに来て、野球を見に来た人に「今日は勝ったね」と言ってもらいたい。
それが一番のファンサーヴィスだと。

では。

縦のライン と得点。(ツエ―ゲン戦プレビュウ)

両者ともに、最近5試合の戦績は、●(負け)と(引き分け)だけが、ズラリと並ぶ。
〇(勝ち)がないのが、なんとも辛い。

さらに、直近の失点数は、数える気にもなれないほどに惨憺。

どうしたら、こうも気前よくゴールを献上できるのか?

失点のひとつひとつには、確かなる原因があるんでしょうけれど、

こうも歯止めが効かなくなるのは、ゲームの流れにクサビを打てない素直さ、というか、狡猾さの欠如のような気がしますね。

常田など、いい奴なんだろうが、マークする相手を威圧するぐらいのふてぶてしさ、そういうことも身につけてもらいたいわ。

激しく渡り合いながら、ムッと、相手を睨む度胸があるのは、隼磨や篠原を欠く今は、セルジ―ニョくらいではないか、山雅にあって。

良い意味で、好戦的であることは大切です。

(愚痴は、ここまで)

とは言うものの、山雅の今節最大テーマは、もちろん得点でありましょう。

〈分厚い攻撃には、準備としての守備は必要〉
長年やって来て染みついた3バック、どうしてもこれを続けるならば、もはや攻撃的に運用すべき、と主張します。

3バックの場合、待ち構え(守備時)は、5 – 4 – 1 になるんですが、これだと、反転して、迅速な攻撃をかけようとすると、どうしても人数と迫力に欠けてしまっているのが現実。

その背景には、山雅の、必然的に訪れた成長局面が在ります。

相手の攻撃に堪え、カウンター一閃に賭けざるを得ないほどには、技量が劣ってはいない。
さりとて、テンポ良くパスの連続だけで崩し切れる、あのヴェルディばりのテクニックの高みには届いていない。……、そんな中途半端さ。

ならば、早い話が、4バックにして、センターバック2人を基底に置く、たとえば、サンガみたいな格好にしてしまったら、と思います。

初期布陣が、4 – 3 – 3 で、2 – 5 – 3 に変容して前傾する感じ。

今季、前柴田監督がやろうとしてできなかったことなんでしょうか?

そこで、後ろにある重心をすこしでも前方へ移動して、4 – 4 – 2 で待ち構えたら?、と強く思います。

でもね、3 でも 4でもどちらにしたところで、守備ラインが縦にチキンと揃っていないので、サイドから容易に中に侵入されているのが、現状。

そこをなんとかしておいて、前にボールを繋げないとね。

では、金沢で。

監督は上司なのか?

世界に冠たる自動車メーカー、〇ヨタの社員が自殺したのは、上司によるパワーハラスメントによるものであるから労災認定せよ、との判決が出た、というニュース。

ご本人がどんなに苦しかったかを思うと、言葉もないが、この司法判断は、残されたご伴侶にとってせめてもの救いだろう。

部下は選べても、上司は選べない……か。

では、プロサッカーチームの監督とは、プレイヤーにとって上司なのか、そうでないのか?

Jリーグのクラブからは最近、チラホラと監督による無理無体な指導に関する話題が沸き起こった。

その結果、解任や指揮停止処分がおこなわれているようだ。
あるいは、火消しと噂されるような辞任とかが。

ファン&サポーターならば、ご贔屓のチームには決して起きてもらいたくない事案であるし、もしも、チームがそれなりの成績を挙げているとしたら、なんとも皮肉なことに違いない。

責め立て追い込んだやり方で勝つチーム、とはなんとも悲しい話ではないか。

九州の某球団の監督、プレイヤーを足蹴にして処分、となった。

たとえ怒りによるものにせよ、この人、常習化していたんだな。

蹴り上げて相手をなぎ倒す、という行動は、日頃やりつけていないとできない所業だ。

守田 達弥は大人しいから、そういった犠牲になっていないことを祈る。

プレイヤーの生殺与奪の権を握っている、という意味で監督は上司なんだろうが、他方、お互いは確定申告をおこなう、いわば、それぞれが個人事業主でもある。

あまりに酷く理不尽な扱いを受けたら、
― あんた、それはないんじゃぁない?、と喰ってかかるプレイヤーはいないんだろうか?

また、チーム内には、そのような物申せる闊達な雰囲気はないんだろうか。

ここまでは厳しい指導で、ここからはパワーハラスメント、とかいうのはまったく不毛な議論。
こういう区分には、耳を貸すつもりもない。

おそらく、こういうことの唯一の活路は、プレイヤーが、防衛としての抵抗言動を準備し、時に応じて発動できることだろうな、と思う。

それができなければ、サッサと逃げ出すのが自分を守る唯一の道、と考えるべき。

たまには、監督が選手からハラスメントまがいの被害を受けた、というニュースを聞きたくもなります。

では。

キネマ三昧 を譲る日々。

最近は、もっぱら家人のほうが、キネマに浸っている。

それも、古今、洋画、邦画を問わずに。

たとえば、前夜に『ヒトラー最期の12日』を観た翌日には、『ノッティングヒルの恋人』とか。

これ、なかなか滅茶苦茶なキネマサーフィンなんですな、僕からすると。

で、
―やるせないよな重ぐるしさが、ヒュー グラントで、さっぱりと救われたわ。
……とおっしゃる次第。

たしかに、ハッピーエンドまでの手練手管を楽しめばよいラブロマンスは、観ていて心地良くて、気も晴れる。

―でも、ブルーノ ガンツならば、どうしても『ベルリン 天使の歌』を観てやってもらいたいなぁ。
大殺戮を止められなかったがために、罪を問われ続ける天使の役でしてね。

……と、応える僕でありました。

作品の出来にケチをつける気はないけれど、
600万人を冷酷に殺害した挙句、官邸地下壕に追い詰められた一群のドタバタ劇を、いまさら採り上げたところで、どうするの?、っていうのが僕の感想。

そうか!、自分で蒔いた身から出た錆の、その結末を、突き放して描いて見せる喜劇、それが製作の狙いだったのでしょう、きっと。

たとえそうであっても、所詮は〈ノゾキ〉。

上質な趣味とは、とても言えません、と、ナチズムにとっては、カウント外で、憎悪の対象にもなり得なかった黄色い人種が呟いている。

では。

毒を食らわば 皿までも? (敬愛の啄木)

一度手を染めたら、トコトン悪事をやりとおす決意、をあらわす諺。

そういったしたたかさは、たとえば、文学者だと、石川 啄木(1886~1912年)を想い出す。

たかだか 26歳で死んだから、青春の傲慢と向こう見ずが、その言動や作風にどうしても垣間見られるので、そんな印象が強い。

啄木の日記を読んでいたら、恩人とも言える与謝野 晶子(1878~1942年)の容姿についても容赦なく書いてあって、笑ってしまう。

友人や知人から借金しまくった結果、残された負債が、現在の金額にして約1,400万円だったという事実が、啄木を、身勝手な借金魔とする評価を作ったようだが、僕に言わせれば、そういうことを調べて公表した、最大貸主(約150万円) の宮崎某の人品のほうだって、どっこいどっこいではないか。

だいたいが、友人に貸す時は、金銭も友情も失う覚悟でそうすべきであろう。

もちろん、後ろ指を指されるような生活(と人格)は、その業績をなんら貶めるものでもなくって、短歌形式を使って彼がやったことは、やはり相当な〈革新〉であった、と思います。

ところで、なんで、啄木なのか?

たまたま、最近、その『時代閉塞の現状』(1910年執筆の評論、ただし刊行は没後) を読んだからなんですが、その末尾は、

― 時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

……、で終わっている。

けれどもさ、時代に没頭しなければ得られないものもあるんだろうに、と思いつつ、この一文が僕の中で繰り返されている、そんな今日だ。

生前に刊行された唯一の歌集『一握の砂』(1910年) の中に 。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

萬年の場合は、せいぜい

友がみなわれより聡(さと)く見ゆる日よ
アイス買ひ来て
妻と獲りあふ

……くらいかな?

では。