極楽トンボの 『Days Like This』

ヴァン モリソン (1945~ ) が、1995年に発表した曲。
同名のスタジオアルバムに収められた。

まるで、秋空の上のほう、風に乗って気まま、暢気に浮遊している(ようにみえる) 蜻蛉のごとく、
お気楽に生きる者を、侮蔑を込めて、極楽トンボ、と呼ぶ。

戦争が海の向こうで始まった途端、キチンとした軍備がなければ、とか、原子力を使わないでどうやって電気まかなうのか、とか、議論する者が増えだす

すると、いままでそう言ってきた身としては、この期に及んで、振り子を急に戻しなさんな、極楽トンボらめ、と思う。

もちろん、Easy Going ドラゴンフライ、で暮らしていければ、それがいいに決まっているから、
日本はこれから、せいぜい、海原上の孤立、という地政学的な立場を存分に活かす武装をしておいて、他人マネでない、自分流な外国とのつき合いをしないと。

なんだったら、こちらから出て行くことはするが、ほとんど入れない、という理念と主義を巧く運用する、って手もありだけれど、それには、相当の智恵と犠牲も要す。

なぜなら、経済成長を疑わない経済、1億人以上の人口を喰わせ、かつ、そこから税金を巻き上げて成り立つ国家、といったものを前提にしたシステムだと、都合の良い〈鎖国〉は、とても無理だから。

究極として、日本人が考えるべきは、俺の死に水、一体誰に取ってもらうか、という ライフスタイルであって、いわば、〈死生観〉をハッキリさせるということ。

COVID-19への対応、マスクするしない、死者の値のとらえ方、多勢に無勢でも武器を執る、今起こっている、こういった事象を、日本人がキチンと捉えられないのは、西欧の死生観への無理解、つまり、自らの死生観への無知による。

現在の日本人は、とにかく、生身の、生物的な〈死〉を怖れ嫌うのみで、〈理念のしての死と生〉が曖昧になっているんです。

……、とか、いろいろ切りもなくなるから、やはり、極楽トンボを決め込んで、聴くに限る。

こんな日もあるさ

いつも雨降りばかり でもなく
不平を言う奴が だれもいない
一瞬にしてスイッチが入るように すべてが上手くおさまる
…… 母さんが言ってたよ、こんな日もあるさ って

くよくよすることも なく
誰もがせかせかして いない
ユダがやったように 君を売るような者はない
…… 母さんが言ってたよ、こんな日もあるさ って

なにか答えを求められも しない
君を利用する者が 現れない 
ジグソーパズルのピースが ピタッと合ってしまうなら
こんな日があるっ て 憶えておこう

正直に生きて だますこともせず
一杯食わせようと たかって来る者も なく
君の生き方に チャチャが入らなかったならば
こんな日もあるって  憶えておかないと

他人から 踏みつけられることもなく
僕のことを 解かってもらえる 
ものごとが どう変わっていくかが 心にピンと来たら
…… 母さんが言ってたよ、こんな日もある ってね。

では。

ひたむきに走れ (岐阜戦プレビュウ 後編)

〈3年目の正直を〉
もう、ここらへんで2部復帰、という覚悟なんだろう。

昨季からそんな動きをみせてはいたけれど、FC岐阜は今季さらに、高年俸(に違いない) のタレントを、多く補強してリーグ戦に臨んでいる。

メディアの見出しには、〈J3の銀河系軍団〉なんて煽りもあって、こっちが恥ずかしくなってしまうんだが、岐阜駅前に金色の信長像を建ててしまう感性と同じ、と受け止め、今節は、岐阜の驕り(褒めている!!)を、そのスタジアムグルメ(高水準!!) とともに堪能してしまおう、という魂胆。

おそらく、ピッチに立つメンツの8割方は、新加入だ。

そして、4ゲーム消化して、2勝1分1敗の、6位。(コロナ陽性により1試合未消化)

ゲーム毎の浮沈はあるんだろうが、まぁまぁソツのない戦績。

このチーム、いちばんの強みは、ゲームの中で修正できる頭脳が多いということだろうし、期待されているのも、そこらへん、と思われる。

いちいち名は挙げないが、豊富な経験からすれば、至極当然。

〈1年目の謙虚で衝け〉
対し、当方は、フレッシュなタレントの積極起用と、前後へのスピード重視のサッカーの、3部リーグ初年度生。

となれば、対戦の図式はかなりハッキリしているから、これはもう、頭の中をスッキリ整理して、ご臨戦でないといけません。

卑屈さ、負い目を一切棄てた、〈やらせていただく〉という謙虚さがあれば、ボール保持がどうのこうのなんてのは、おのずから見えてくる。

地球は救えないかも知れないが、チームを救うことはできそうだ。

変に仕切るような間合いは採らず、とにかく、前へ後ろへひたむきに走ることで、スペースとペースを獲る、これでいきましょうよ。

どちらかと言えば、相手はゲームを落ち着かせてやりたいんだろうから、そのリズムを破調するようなボール捌きと突貫、それを観たいし、いまのメンツならできると信じています。

宮崎戦のいちばんの反省点は、メリハリないままにジリ貧となったこと。

たしかに、90分を 15分×6コマに分解した場合、前後半冒頭の15分から飛ばすのはいいが、その後の時間をどうやって暮らすのか、そこの工夫が、ベンチとピッチ上の両方でできるか、できないか?

今節の注目点は、それでありましょう。

では、長良川競技場で。

塚川 孝輝を 2度失うな (FC岐阜戦プレビュウ 前編)

長良川は、好きなスタジアムのひとつ。

今度の日曜日は、4年ぶりの参戦だ。

2018シーズンの対岐阜戦は 、1分1敗。

2戦とも、(相手側で) ビクトルと田中パウロが先発していたのを思うと、時と人のめぐりの因果、を感じます。

さて。

その間、チーム山雅における、最大、かつ基軸的なトレンドは、なけなしの得点力、これに尽きるでありましょう。

それを堅い守備で補ってきたが、2020年あたりから、ディフェンスのタガが緩むと、見る間に凋落が始まった。

2019年はトップリーグ参戦の高揚によってボヤけてしまったけれど、貧弱な攻撃力を更に弱めることとなった、ローンによる放出が三つおこなわれた。

残留を賭けたもっとも苛酷なシーズンなのに、よくやったものだ。

まぁ、ローン移籍のメカニズムも承知せずに、今になってから言う愚痴みたいなものなんだが、ひとつは前田 大然、もうひとつは塚川 孝輝、あとひとつは、レアンドロ ぺレイラのレンタル。

特に塚川に関しては、山雅における出番がほとんど想定されなかったためなのかどうか、夏にFC岐阜に移ると、その後ほとんど先発を確保した。

が、健闘むなしく、岐阜は最下位で終わり、3部に降格。

塚川は、2020季、山雅に復帰する。
当初はボランチでの起用だったが、後半には、シャドウ、そして遂には、トップに配され、チームランク1位の、9得点。

で、(おそらくは)その攻撃的な才能を買われて、2021シーズンにフロンターレに完全移籍。

……、と何故、過去をくどくど語るのか?

その理由は、さしあたっての2部昇格、それに続く、確実な将来を掴みたいため。

ひとつ。
まだ始まって5戦を消化したに過ぎないけれど、攻撃力上向きの傾向が露わになっている。

そこには、いままでよりも力量が落ちる3部リーグでやっているという事情もあるが、前へ速く反転攻撃、というスタイルを打ち立てようとする共通意思は、依然より増している、とみる。

ふたつ。
攻撃性の向上を、積極的な若手起用を絡めながらやっていること。

たとえば、菊井 悠介は、その代表格に躍り出た。

塚川 (2016年度) に遅れること5年して、流経大を卒業。

2021年に関東1部リーグを制した同大サッカー部からは、12人がJリーガーとしてキャリアを始めた。

その内訳は、トップリーグ 7人、3部リーグ 5人。

うち、山雅には、菊井と、GK薄井 覇斗が入団した。

このふたり、同窓のライバルに追いつこうと、より上のステージでプレイすることを熱烈に目指しているはずであって、そういった向上心を、山雅は巧く取り込んで、推進力に変えるべきシーズンなのだ。

要は、今季にあっては、ルーキー、とそれに準ずる世代を、武者修行などを名目に、軽々にローン放出している場合ではあるまい。

堅守は、これを否定しない。
守備に関する、細かな戦術や手当てはやるべきだろう。

けれど、たとえ打たれても、それ以上に打ち返すくらいの得点力、それがなければ、ここ数年のジリ貧は、くつがえせないのでは?

新しく胎動しつつある、無骨で緻密な攻撃サッカーの芽、これをなんとか育てたい。

ひとりのファンとしてできることは、そのやり方を支持することくらいですがね。

ヴェテランを多く補強した岐阜との対戦は、そういう意味でまさに、絶好の授業ではありませんか。

払った授業料は、もちろん、元を取りましょう。

では。

『ジョニーへの伝言』(1973年)

前回記事からの尻取りゲームみたいな感じで、たどり着く曲。

歌詞が秀逸。

― 気がつけば寂しげな街ね  この街は、という一節。

これが、感情が表出される、ただ一箇所として、特に効いてます。

同じ作詞家のものでは、『さらば涙と言おう』(1973年) や、『白いサンゴ礁』(1969年) も好きだけれど、これが一番かな。

この曲とか、『石狩挽歌』(1975年) は、突然それだけがそこに在る、という感じで、流行り歌の中に屹立している。

1960~70年代をクラシカルとみる態度は、僕の中でそうそう消えそうにない。

では。

ヒーローからの伝言。

4/10宮崎戦のゲーム終了後、アルウィンには、多くの人々が居残っていた。

高崎 寛之氏 の現役引退、その区切りの儀式に参加するために。

僕の前方に座るご婦人など、背番号#9のユニフォームを大切そうに取り出して、準備に余念がない。

山雅の一員として闘ってくれた4シーズン (うち2016季は、鹿島からのレンタル在籍)。

屈強で献身的なセンターフォワードとして、一時代を画した男。

本当は、まだ現役を続けたかったに違いないんだろうが、サッカー選手として第一線を退いた今は、その表情には、かつての厳しさが陰をひそめていて、柔和な笑顔が印象的だった。

挨拶の中には、山雅の現役プレイヤーへの発信もあった。

― まづは自分のために闘え、自分の(プレイヤーとしての) 価値を高めよ、
それが、山雅ブランドの価値を高めることになる。

……、という提言。

まったく同感。

ファン、スポンサーがあってこその客商売、という一面からすれば、ファン&サポーターには、そこそこの配慮を込めて接してはもらいたいけれど、プロフェッショナルとしてみずからの技量、度量を高めること、それに専心してもらえればよし。

前にも書いたが、いちばんのファンサーヴィスは、ゲームに勝つことであろうから、それに向かって精進せよ。

こっちにしたって、義理もないのに、ただただ好きで応援しているのだ。

しかも、勝手に共闘しているつもりでいるんだから、余計な注文をつける気などさらさらなし。

お互い、変におもねることもなく、淡々と礼儀をもってつき合い、苦楽をともにできれば、と願っている。

現在のチームを観ていて感じることのいちばんは、

監督/コーチが、ゲームメンバーの決定などにおいて、いわば、プレイヤーの生殺与奪の権限をキチンと使っている、という雰囲気。

そこにはきっと、試行錯誤もあろうけれど、個々のプレイヤーにとっては、そこにこそ自己アピールと成長のチャンスもあるはず。

指導においてハラスメントが在ってはならないが、
首脳陣がプレイヤーを、勝利のためには、〈冷徹に〉駒のように運用すること。

そういう健全さが、チームの活力を生むことを期待します。

松本の街と、山雅を愛してくれる高崎。

その次なるステージよ、Bon Voyage !!

では。